最難関、間取りの謎。迫真の不動産ミステリ――『瑕疵借り ―奇妙な戸建て―』松岡圭祐 文庫巻末解説【解説:青木千恵】

文芸・カルチャー

公開日:2024/2/27

14万部突破『瑕疵借り』長編新作
『瑕疵借り ―奇妙な戸建て―』松岡圭祐

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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『瑕疵借り ―奇妙な戸建て―』文庫巻末解説

解説
あお (書評家)

 ふだん暮らしている「家」は、安らげる場所だろうか。家は不思議な存在で、短く暮らしただけでも、間取りや、家で目にした光景を、あとあとまで覚えてしまう。住んだ家は、退去したとたんに「過去」となる。自分にとっては過去でも、建物は残る。
 本書は、二〇一八年に刊行された『瑕疵借り』(講談社文庫)の続編にあたる長編小説だ。「」とは、きず、欠点、欠陥のこと。不動産業界では、取引する物件になんらかの欠陥があることを「瑕疵」と言う。床の傾きや雨漏りなどの「物理的瑕疵」、事故や火災が起きたり、前の住人が自殺や他殺で亡くなったりして、借主・買主に心理的な抵抗が生じる「心理的瑕疵」などに分類される。契約、入居したあとでトラブルになるのを避けるため、不動産業者には次の借主・買主に対する瑕疵の告知義務が課せられている。
 シリーズ一作目の前作は、「ワケあり物件」「瑕疵物件」とも言われる、事故物件を題材にした四編を収める連作短編集だった。苦学して薬剤師になったよしこと、四十歳を過ぎて無職のまきしまじよう、五十六歳で失職の危機に直面しているうめあき、母を突然死で亡くした西にしやまらが、さまざまな経緯で事故物件を訪ね、シリーズの主人公、ふじさきたつと出会った。藤崎は、事故物件に住んでは「瑕疵」の度合いを軽減させる、「瑕疵借り」をなりわいにしている。〈事故物件に住む。他人の都合のためだけに、どこかに移り住む。意思など持たない〉。「瑕疵」には前の住人の「記憶」が残されていて、訪れた人とともに事情を推測しては、「瑕疵」を和らげてきた。あっちが終わればこっちに住む藤崎は、家具をいっさい持たず、ミニマリストどころではない質素な暮らしぶりだ。前の住人の人生を自分の生活のために消し去ることはしない。
 シリーズ二作目となる本書には、二つの物件が登場する。一つ目は、神奈川県かわさき市に建つ「ラルーチェ武蔵むさしすぎ」の三〇八号室だ。築十五年、七十室の賃貸マンションで独り暮らしをしていたはたてつが空き巣に刺殺され、殺人事件の現場になってしまった。それからというもの、マンションでは退去者が相次ぎ、困り果てた大家のしよういちろうは、業界で引く手あまたという伝説の「瑕疵借り」、藤崎達也を雇うことにする。そして二月になり、藤崎が住み始めた三〇八号室に、あきえだかずとしという男が愛犬を捜して訪ねてくる。“殺人事件と行方不明の子犬”というよからぬ噂の流布を懸念した藤崎は、秋枝の愛犬が小幡のもとにいた理由を解き明かす。
 二つ目の物件は、千葉県八街やちまた市に建つ戸建て住宅である。敷地面積七十六・八三平方メートルの二階建て4LDKで、昭和六十三年築でも古びていないしやた一戸建てだ。過疎地域にあり、賃料は月四万八千円と猛烈に安い。それでも借り手がつかず、売るにも売れない。そこで「瑕疵借り」を雇おうと、指名で藤崎に依頼してきた家主は、なんと、川崎の物件で知り合った秋枝だった。藤崎は“奇妙な戸建て”に入居するのだが──。
 シリーズ二作目の本書と前作との大きな違いは、連作短編集ではなく、長編仕立てである点だ。前作を踏襲して一つ目の「瑕疵借り」はマンションの一室を舞台にしており、愛犬を捜す秋枝が訪れて、藤崎が謎を解く。そして二つ目の「瑕疵借り」では秋枝が依頼人(家主)となり、“奇妙な戸建て”に藤崎と二人で住むというユニークな展開だ。シリーズ二作目ではあるけれど、前作とは作りもテイストも大きく異なり、本書から読み始めてもまったくオーケーな物語になっている。
 次に、シリーズの主人公、藤崎を視点人物の一人にした語り口も、前作と違う点だ。前作は四つの短編のいずれもが、事故物件を訪ねる人物の視点を軸にして語られていた。彼らが藤崎と出会い、前の住人の事情が解き明かされる一方で、内心も正体もわからずじまいの藤崎は、前作では一貫してミステリアスな存在だった。しかし今回は藤崎自身も視点の主になっており、彼の来歴や内心がすべてではなくてもわかってくる。藤崎の人となりがあらわになるのは、一つ目の物件で知り合い、二つ目の物件でも出会う秋枝とのやり取りがあってこそだ。東京・まるうちの商社に勤め、三年前まで武蔵小杉のタワーマンションで妻子と暮らしていた秋枝は、休職中でもスーツ姿で、同年代の藤崎にも丁寧語で話す礼儀正しい男だ。「瑕疵借り」で事故物件を転々とし、カジュアルな服装でぶっきらぼうな藤崎とはかけ離れている。しかも、家主と瑕疵借りという対照的な二人が、過疎地域の一戸建てに暮らして、近隣住民や相次ぐ出来事と格闘する。前作とは一味も二味も違う“賃貸ミステリ”であるのが面白い。
 もう一つ、今回の大きな特色は、藤崎が「瑕疵借り」をするのが「家」である点だ。前作で描かれた四つの事故物件は、すべて集合住宅の一室だった。本書で藤崎は“奇妙な戸建て”の内部に入り込み、次々と起こる不可解な出来事に遭遇する。なぜか漂っている線香のかおり、屋根裏からは人が歩く気配がし、耳もとに届く、ううう、という少女のうめき声。床下にある壁、シャッターボックスに巣くうイエコウモリの群れ……。〈格安物件に不動産屋はとんちやくなのが常だ。そのうえ家主がなにも知らないとなると、戸建てはこんなふうにあちこち問題を抱える〉のだとしても、異様すぎる。家は外から眺めるだけなら無機質な建造物なのだが、入り込んでみると深い深い世界が広がっているのである。
 そして、家だけでなく、人も奇妙だ。“奇妙な戸建て”が建つこの地域は、バブル期にそこそこ開発されたのちに過疎化した。近隣住民は高齢者ばかりで、それこそ三十五年ほど前に戸建てを新築して移り住んだ人々なのだろう。このシリーズは、社会派の小説である点も魅力の一つだ。不動産の背景に広がる社会状況までそくして、理不尽な世のなかを生き、エアポケットに落ちてしまった人の悲哀を浮き彫りにする。本書には、世のなかは移り変わり、人は年を取るという「無常」が描き込まれている。〈ひとりになってしまってから、どこかの物件に住んでも、そこは本当の家じゃないと痛感させられるんです。誰も頼りにできないような世のなかなので……〉と、秋枝は藤崎にこぼしている。
「家」をモチーフにした物語は、古今東西、たくさん作られてきた。昔の映画では、人妻が天井から聞こえる物音にさいなまれる『ガス燈』(一九四四年製作・アメリカ)。近作では、失業中の家族が富裕層の邸宅に入りこむ『パラサイト 半地下の家族』(二〇一九年製作・韓国)。よこやまひでさんの小説『ノースライト』(二〇一九年、新潮社)は、無人の家に置かれた「タウトの椅子」から始まる物語だった。たくさんの家と物語があるなかで、本書もまた唯一無二の、まつおかけいすけさんが作り上げた作品だ。「瑕疵借り」を生業にする藤崎は、前の住人の事情を掘り起こし、過去を「手入れ」して物件を未来へと明け渡す。たとえ藤崎が「瑕疵」を浄化しても、いつか物件が取り壊されても、過去は「なかったこと」にはできないのだなと思う。そこには物語があるんだと気づかされる。

〈僕みたいなワケありの人間が瑕疵借りになるんだよ。いわば人間瑕疵物件だな。歳月によって自分の瑕疵が軽減されるのをまってる人たち……。僕はようやく三年目だよ。まだ道のりは長いね〉

 主人公の藤崎は、まだ三十代。彼はこれからどんな物件を転々として、どんな人と出会うのだろうか。本書のラストの文章はせつなくて、それでも生きているうちは、「瑕疵」をよくしていくことはできるのだろう。
 本書の「家」と周辺環境は、藤崎でも頭を抱えるほど異様だ。そんな本書から読んでもいいし、シリーズ一作目も傑作なので、ぜひ手に取っていただきたい。

作品紹介・あらすじ

瑕疵借り ―奇妙な戸建て―
著 者: 松岡圭祐
発売日:2024年02月22日

どの物件にでも起こりうる事件 迫真の賃貸ミステリ
殺人事件の現場になった賃貸マンション。退去者が相次ぎ困った大家は、住むことで瑕疵を軽減してくれる「瑕疵借り」の藤崎を頼る。そんな藤崎のもとを、犬を捜しているという秋枝が訪ねてくる。事件で殺された男と愛犬の失踪――真相に気づき、犬を見つけ出した藤崎は、程なく別の依頼である戸建てに赴く。家主はなんと、先日知り合った秋枝だった。思わぬ展開に戸惑いながらも藤崎はその“奇妙な戸建て”に入居する……。

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