伊坂幸太郎・作家デビュー25周年の記念作。何を信じ、何を選択するべきか?渾身の書き下ろし長編ミステリー『さよならジャバウォック』【書評】

文芸・カルチャー

PR 公開日:2025/10/31

さよならジャバウォック
さよならジャバウォック伊坂幸太郎/双葉社)

さよならジャバウォック』(伊坂幸太郎/双葉社)は、同氏のデビュー25周年に合わせて書き下ろされた渾身の長編ミステリーである。

 結婚直後、夫の転勤によって慣れない土地での子育てを余儀なくされた量子(りょうこ)。暴力をふるわれたことがきっかけになって、量子は夫を殺してしまう。そこに現れたのは、大学時代の知人である桂(かつら)だ。桂の助けによって夫の死体を隠すことになった量子は、そこから日常とかけ離れた体験をしていくこととなる。

 タイトルに冠された“ジャバウォック”は、ルイス・キャロルの作品『鏡の国のアリス』に登場する、架空の怪物である。その怪物が登場する詩には造語が多用されており、意味が明確でないからこそ、言葉の音の響きが読者の感情を掻き立てる。怪物“ジャバウォック”は、“よくわからないもの”の象徴と言えるかもしれない。

 本作では、そんな“ジャバウォック”をテーマに繰り広げられる大きな“謎”を追う物語が展開される。主人公を救う存在でありながら本心が読めない男・桂に加え、どこか現実離れしたナビゲーターとして登場する夫婦・絵馬と破魔矢、そして亀が鍵となる奇妙な儀式など、随所に散りばめられるファンタジックな要素に、読者はワクワクしながら惹きつけられるだろう。

 量子は混乱を引きずりながらゲームの渦中に巻き込まれていき、やがて目に見えている世界や、手を差し伸べてくれる人の存在まで、すべてを疑ってしまう。AIやVRなどの技術進化が目覚ましい昨今、何をもって真実や現実を確かめるのかは、私たちにとっても身近な問いだと感じる。

 上記の物語に加え、もうひとつ別の物語が同時進行する構成であることもまた、ミステリーとしての面白さに深みを与えている。関連性が見えない点が次々と打たれ、次第に結びついて線を描き、やがて思いもよらないクライマックスへと収束していく。その見事な展開には、これまで多くの群像劇を描いてきた伊坂氏の手腕が光っている。

 また、登場人物たちによって織りなされる軽妙な会話も見どころのひとつだ。哲学、脳科学、生物学など多くの分野の知識を横断しながら、数々の問いが主人公に投げかけられる。幅広い知見から繰り出される会話劇の一つひとつは、やがて明かされる謎のヒントにもなっている。ウィットな言葉の裏に隠された真意や意外な設定に気付くことができるか、初読でぜひ挑んでみてほしい。そしてラストを知ったあと再び読み返してみると、すべての会話に膝を打ちたくなるはずだ。

 作品全体を支えているのは、人間に対する絶望とわずかな希望だ。物語に織り込まれた人間に対する考察を読むうち、読者はおそらく自分自身の行動や思考について考えるきっかけを得るだろう。私たちに備わる本能は、残酷なものかもしれない。それでも、本能をも超える願いを一人ひとりが携えれば、そこにかすかな希望の道は見えるのではないだろうか。そう思わせてくれるラストと、ある人物が下す決断を、読者自らが見届けてほしい。「自分は、本当はどういう人間なのか」という哲学的な問いに向き合う覚悟こそ、この不透明な時代を生きる私たちの道しるべとなるはずだ。

文=宿木雪樹

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