話題作『月ぬ走いや、馬ぬ走い』の豊永浩平、待望の新作『はくしむるち』が描き出すフラットな現代と血が沸騰するナラティブ【書評】
PR 公開日:2026/1/29

デビュー作『月ぬ走いや、馬ぬ走い』で群像新人文学賞と野間文芸新人賞をダブル受賞した豊永浩平の待望の長編小説『はくしむるち』(講談社)が出版された。
『はくしむるち』の物語には2つの軸がある。1つの軸は現代の沖縄に生きる少年ユッキーこと中村行生の成長と変化。特撮やアニメ、ラップなどサブカルチャーを愛するオタク気質の少年が、絵を描くこと、グラフィティアートへと目覚めていく。そしてグラフティによって、沖縄を分断する米軍基地の現実に抵抗していく。もう1つの軸は、行生が入り浸る喫茶店を切り盛りする大叔父の修仁。80年前に少年兵として沖縄戦に従軍し、戦中、戦後をくぐり抜けた彼の傷だらけの記憶。
現代の空気と、戦争が刻みつけた消えない傷が交錯していく。
血が沸騰するナラティブと、氾濫する固有名詞
この作者はなにかが違う──それを感じたのは前作の『月ぬ走いや、馬ぬ走い』を読んだときだ。
『月ぬ走いや、馬ぬ走い』の構造は『はくしむるち』と共通している。歴史と記号の饗宴が強いナラティブとともに繰り広げられ、読者はその奔流に呑み込まれていく。
筆者の目が止まったのは、そこに『タンク・タンクロー』の文字を見たときだ。『タンク・タンクロー』とは戦前に読まれていた漫画で、身体が大砲の形をしているロボットが活躍するギャグ漫画だ。
「戦中に流行っていた漫画」をそこに置きたいだけならば、田河水泡の『のらくろ』で十分だ。そっちのほうが知名度が高くてわかりやすく、共感する人も多い。「ああ、そういうことね」と納得できる。
だが、作者は「タンク・タンクロー」を書き入れた。たとえわかりにくくなろうとも。そこに作者のスタンスを感じざるを得ない。
記号の洪水のさきにあるもの
『はくしむるち』においても、その感覚は炸裂している。適当にページを開いてみよう。目に飛び込んでくるのはカニエ・ウェスト、『機動戦艦ナデシコ』、『雨月物語』、『ウォッチメン』、BAD HOP、『シンドラーのリスト』、教育勅語、初音ミク──そして、「ウルトラマン」シリーズ。
往年のハリウッド映画、1990年代のアニメ、2000年代以降のヒップホップと年代もジャンルもばらばら。一見、脈絡がなさそうに思えるが、そうではない。あえて月並みな言い方をすれば、すべてがフラットになった令和の現実を映し出しているのだ。
しかし、『はくしむるち』はただ記号を羅列しただけのサブカルチャー的なコラージュ小説ではない。「あ、知っている単語が並んでる!」と共感の快楽に回収されるものではない。そこには、生身の人間の人生が横たわっている。
歴史はフラットじゃない。
人生はフラットじゃない。
そこに悲劇があり、挫折があり、それでもつづいていく時間がある。
時代を越えて現代までつづく暴力の歴史を描いた本作は、生身の人間たちの痛みを圧倒的ナラティブで伝えてくれる。
令和になっても文学は終わらない
昨年(2025年)、第173回の芥川賞が「受賞作なし」だったことが話題になった。
もう文学は力を失った──そう思った人もいたかもしれない。
かつて「該当作なし」が多かった時代がある。1980年代だ。そのときの選評を読むと、文学の弱体化が嘆かれ、閉塞感ばかりが強調されている。1980年代はテレビの深夜番組の増加、レンタルビデオの発展、ビデオゲームの流行と情報環境が大きく変わっていた時期だった。そうした変化のなかで、文学の存在意義もまた大きく揺らいでいたのだ。そして、それはSNSによってメディア環境が激変した現代と、どこかよく似ている。
私たちは知っている。1980年代以降、文学が消滅してもいなければ、新たな傑作が生まれつづけていることを。その嘆きは杞憂だったことを。
『はくしむるち』は、その証左のひとつだ。ああ、小説ってなんて楽しいのだろう。そう思わせてくれる一冊である。
文=菊池 良
