藤原竜也も演じた! 5度ドラマ化された『人間の証明』 原作3つのポイントとは?

文芸・カルチャー

公開日:2018/4/21

『人間の証明』(森村誠一/KADOKAWA)

 去る4月13日・14日に、東京国際フォーラムで行われた「角川映画シネマ・コンサート第1弾」。角川映画の初期3作品『人間の証明』『野性の証明』『犬神家の一族』のハイライト映像をバックに、劇伴音楽の巨匠・大野雄二率いる“SUKE-KIYO”オーケストラが、映画のオリジナル楽曲をジャズアレンジで演奏するという、角川映画世代には、感涙にむせびそうなイベントであった。

 もちろん、70年代の大作路線から80年代の角川3人娘によるアイドル映画まで、角川映画と青春時代を共にした自分も、その例外ではない。巨大スクリーンに、あの『犬神家の一族』の巨大明朝体によるクレジットが写し出された瞬間、初めて同映画を見た時の衝撃が脳裏に鮮烈に蘇ったのである。

 そしてその感情を増幅するように演奏される生オケの「犬神家 愛のバラード」……。何かもう青春時代のもろもろやら映画原体験の感動やら色々な感情がこみ上げて、とてつもなく濃厚な時間を過ごせたのである。ついでに言うと、映画ポスターでお馴染みの「湖から突き出た水死体の両足」をまねて、プールで逆さに潜って水面から足を出したのも懐かしい思い出である。

advertisement

 ちなみに自分が『人間の証明』を見たのは、生まれから換算すると小2ぐらいのはずなのだが、今回スクリーンに登場する役者陣を見て、彼らの所作や表情が意外なほど自分の記憶に深く刻まれているのも驚きであった。虚勢を保つ岡田茉莉子の凄艶な美貌や孤独と苛立ちから暴力を爆発させる松田優作、フーテンらしさ満載の岩城滉一、飲み屋に来る大滝秀治と佐藤蛾次郎まで、「絵」としてきっかり記憶に残っていた。

 そして、言うまでもなく、記憶に残っていた大きなものは『人間の証明』の通奏低音である「戦争の傷跡」だ。たかだか小学校低学年の自分に、どの程度、戦争の傷が分かったかは不明だが、幼少時に銀座や渋谷に親と出かけると、まだ傷痍軍人を見かけることもあった世代としては、よく分からないなりに呑み込んでいたように思う。

 映画では、松田優作演じる棟居刑事のトラウマとなった事件のフラッシュバックで、進駐軍が棟居の父親を集団で暴行し、小便をかける場面の衝撃度は小学生にはかなりのものであった。あまりに衝撃が強すぎたため、それを引きずって、後年、原作にも手を出して読んでしまった。映画では分からない細部を原作を読むことで詰めてみたかったのである。そういう意味では、まさしく『人間の証明』の公開時に角川映画が叩き出したキャッチコピー「読んでから見るか 見てから読むか」の戦略にハマってしまったわけである。というか、この「読んでから見るか 見てから読むか」というキャッチコピーは、現在では角川映画に限らず、ミステリーの映画化などでも悩ましい問いとして普遍化したように思う。

 さて、現在、ドラマで復活している『人間の証明』。ぜひとも、ドラマ視聴者にも原作を読んでもらいたいということで、映像版では分からない原作の魅力を書いてみたい。

 まず、「戦争の傷跡」のディテールがよく分かるということだろう。「あの頃は生きるためにみんな必死だった」という原作中のセリフに象徴されるように戦後の混乱を生き抜いてきた登場人物の過去の厚みが、原作を読むと分かる。登場人物への入れ込みようも変わるだろう。次に、70年代という時代風俗の生き生きとした描写が興味深い。フーテン、乱痴気パーティー、睡眠薬遊びに耽る若者風俗の描写が、戦後の混乱を生き抜いた世代との対比を際立たせ、事件の発生の悲劇性にもつながっていく。 さらに、現代にも通じる親子関係の問題や顕在化していたニューヨークの格差社会など、もろもろの社会的背景の支流が殺人事件という大きな悲劇の流れに変わるダイナミズムは、映像でも堪能できるが、やはり支流の一本一本を味わうには原作を読むのが一番である。

 原作者・森村誠一は社会派ミステリーの書き手と言われるが、映像化ではエンターテイナーとしての部分を楽しみ、原作では、社会派の部分を噛み締める……という2つの楽しみ方もありではと思う。

文=ガンガーラ田津美