亡霊が内に宿すのは恨み? それとも……禍々しい気配が横溢する幻想怪奇小説の最高峰『アナベル・リイ』小池真理子インタビュー

小説・エッセイ

公開日:2022/8/8

 ※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』9月号からの転載になります。

小池真理子さん

 19世紀文学に大きな足跡を遺したエドガー・アラン・ポー。小池さんはポーの「アナベル・リイ」という詩を源泉に、21世紀の新しいゴシック・ロマンスを生んだ。

「中学時代からポーの作品、特に怪奇譚や詩を好んで読んでいました。『アナベル・リイ』だけに特別な思い入れがあったわけでもなかったのですが、ふと『そういえばこんな詩があったな』と思い出して読み返してみた時に、私の中で一斉に物語の情景が拡がってくれたのです」

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(取材・文=門賀美央子 写真=菊池陽一郎)

 小池さんの多彩な作品群の中で、幻想怪奇ジャンルの小説は初期から重要な位置を占めてきた。

「私の母親は霊を見たり、ちょっとした交信ができたりする人でした。私は子どもの頃から日常会話の中で、死者とのやりとりを聞かされてたんです。母はごぐふつうの主婦で、特別な人間ではなかったんですが、のどかな口調で『ゆうべ、奥の和室に死んだおばあちゃんが来たのよ』なんて話し始めて。そういう環境で育ったせいか、小学校のころから怪奇小説が大好きになり、後に文学書を読むようになってからも、内外の恐怖小説を愛読していました」

 1985年に小説家としてデビュー後、まだJホラーという言葉すらなかった1988年にモダンホラー小説の大傑作『墓地を見おろす家』を世に送った。

「今でこそ、ロングセラーになって、あのころまだ生まれていなかったような若い世代の読者を中心に読み継がれているようですが、当時はまったくと言っていいほど、話題にもならなかった(笑)。信じられないほど地味なジャンルでしたから」

 だが口コミで少しずつ読者が増えていき、やがて小池さんはこのジャンルの第一人者になった。

「幻想怪奇の短編はいくつも書いてきましたが、長編は『墓地を見おろす家』もふくめ、ほんの数冊しかありません。『アナベル・リイ』はその意味でも、本当に久しぶりに書いたゴースト・ストーリーです」

翻訳小説的文体が醸し出すひたひたと迫りくる恐怖

 物語は還暦を過ぎた女性・悦子の手記の体裁をとり、千佳代という女の霊が起こした、身の毛もよだつ出来事の数々が語られる。

「私が書く幻想怪奇小説には、わかりやすいモンスターは出てきません。あくまでも気配と心理で勝負するものばかり。ですので、今回も千佳代という若い女性の人物造形をどうするかが重要なファクターでした。可愛らしくて人懐っこいけれども、特別な才能があるわけではない普通の子。けれども、どことなく不穏な空気を漂わせている。彼女をどう描くかによって、本作が成功するかどうかが決まると思っていました」

 クールなタイプの悦子に対し、千佳代は「あなたはたった一人の友」と真っ直ぐな、だがどこか粘ついた好意を送り続ける。同時に、誰もが憧れる都会的で頭のいい飯沼一也の心をも射止め、結婚するに至った。

 幸せの絶頂だった千佳代。だが、無情にも急病によって天に召されてしまう。

 しかし、彼女は消えていなかった。死から数カ月経って、突然姿を現し始めたのだ。

「生前の千佳代は、決して人を恨んだり呪ったりするような子ではなかったのです。けれども、亡霊となって現れた彼女は、かつて親しくしていた人に取りついたようになって、害を加え始める。本人の意志とは関係なく、生前の思いの波長が複雑に折り重なった時、摩訶不思議な現象が否応なく起こってしまうのではないか。作者のそういう想像が生んだ物語です」

 千佳代は、悦子と、かつて飯沼と一度だけ性的な関係を持ったことがある多恵子の前にのみ姿を現す。
 だが、陰々滅々と恨み言を述べるわけでも、襲いかかってくるわけでもない。部屋の隅に、ただひっそりと佇むだけ。
それが、何よりも怖い。

「大切にしているのは気配です。人間の第六感と死者が発するオーラが一致した瞬間に湧きあがる恐怖をどう描くか。それが怪奇幻想文学の核を成すと私は思っています。現実世界では起こり得ないことを書く場合、昔の通俗的な怪談のようにはっきりした因果を持ち込むのは、あまり好きではない。私の書くこのジャンルの作品は、いつも原因はよくわからないし、どうしてその結末にいたったのかも理屈では説明されていない。でも、その、わからないことを畳みかけるように描写することによって、読んでいる人にひたひたと迫ってくる恐怖の感情が伝わるんじゃないかと思っています。この作品の底流には、千佳代が悦子に抱いた分析しがたい異様な執着がある。千佳代が数十年にわたって悦子の前に出現し続ける原因は、単純な恨みや復讐心、嫉妬などではありません。なにか得体の知れない、強い想いがある。それが恐怖を生むのだと思います。そこをどう描ききるか。なまじな表現では伝わらないぞという覚悟をもって挑みました」

 千佳代の影に怯える二人だったが、やがて多恵子には新恋人ができ、悦子も飯沼に接近する。千佳代のもたらす闇にも負けない幸福が、すぐそこまでやってきているはずだった。
 けれども、本当の恐怖は、そこからが本番だったのだ。

伴侶との永訣が生んだ至高の怪奇幻想文学

「『野性時代』で連載をというお話をいただいた頃、夫の藤田宜永の肺に癌が見つかりました。2019年暮れ、第1回目の原稿をお渡した頃には、すでに希望の光が消えるような状況になっていました」

 本作の構想から起筆までの期間は、大切な人の看護期間に重なっていた。

「発見された時はステージ4でしたから、かなりまずい状態であることはすでにわかっていました。そんな彼に寄り添う傍らで、ロマンティックな恋愛小説やはらはらするようなサスペンスを書く気分には、とてもなれませんでした。でも、得意とする幻想怪奇小説ならば、執筆中だけでも、現実に抱えている諸問題から遠く離れることができる、と思ったんです。本作は、作者の人生の、とても厳しい情況の中から生まれました」

 だが、第2回の原稿を書き上げる前に、大きな悲しみに直面することになった。

「夫は年が明けた1月末に力尽きてしまいました。覚悟していたとはいえ、自分が空っぽになってしまったような日々が続きました。休載やむなし、です。3月に入ってやっと少し書けそうな気がしてきたので、なんとか再開したんですが、私の精神状態は彼が元気だった頃と全く違う次元に入っていました。見ている風景が全く違った。薄いベールの向こう側にかつての私がいて、今の私はそのベールを通して世界を見ている。本書はそんな、なんとも言えない齟齬を感じながら書いた作品です。だから、同じ幻想怪奇でも、従来作とは少しテイストが違うかもしれません」

 つらい現実をほんのひと時でも忘れさせてくれる。それが幻想怪奇というジャンルの力なのかもしれない。

「生きている以上、何がおこるかわからない。受け入れて前に進んでいくほかはない。この作品は、執筆中の作者自身のメンタリティに大きな変化があった時期と重なっていたため、大多数の人に求められるような物語にはならなかったかもしれないな、とも思います。でも、ポーの詩の『アナベル・リイ』がそうであるように、この物語にも『ただひとつの正しい解釈』があるわけではない。あやふやな世界を自由に泳ぎながら、ただ存分に怖がっていただけたら、作者としてはそれだけで満足です」

 

小池真理子
こいけ・まりこ●1952年、東京都生まれ。エッセイストとして活躍後、85年に『あなたから逃れられない』で小説デビュー。89年、『妻の女友達』で日本推理作家協会賞(短編部門)、95年『恋』で直木賞、98年『欲望』で島清恋愛文学賞、2006年『虹の彼方』で柴田錬三郎賞、13年『沈黙のひと』で吉川英治文学賞を受賞。近著に夫の藤田宜永との最後の日々を綴ったエッセイ集『月夜の森の梟』がある。

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