「学生時代だったら、ぜったい仲良くならなかった」と実際に言われた。中学時代の「友達」と大人の「友達」の価値観。寺地はるなさんインタビュー

文芸・カルチャー

公開日:2023/8/30

 今年、『川のほとりに立つ者は』で2023年本屋大賞9位に入賞した寺地はるなさん。2021年には『水を縫う』で河合隼雄物語賞を受賞するなど、さまざまな賞にもノミネートされ、今もっとも注目されている作家の一人だ。そんな寺地さんの最新作『わたしたちに翼はいらない』(新潮社)は地方都市を舞台に、人間関係のしがらみから抜け出せずにもがく人たちを描いた物語。発売前重版も決定し、ますます注目を集める同作に、寺地さんがこめた想いとは。

(取材・文=立花もも 撮影=後藤利江)

寺地はるなさん

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「学生時代に知り合っていたら、ぜったい仲良くならなかったですよね」と実際に言われた

――本作では“友達”って何なんだろうと考えさせられました。中学時代の同級生で、地元の王様だった大樹と結婚し、そのまま人間関係を保ち続けている莉子。友達はいないと言い切る、シングルマザーの朱音。かつて自分をいじめていた大樹と会社で再会し、恨みを募らせる園田。地方都市に生きる人たちのしがらみも、ひしひしと迫ってきて。

寺地はるなさん(以下、寺地) 良くも悪くも、学生時代のことを引きずり続けてしまうことってありますよね。莉子が、同じ保育園に娘を預ける朱音に、「学生時代に知り合っていたら、ぜったい仲良くならなかったですよね」って言う場面があるんですけど、私も実際、同じことを言われた経験があって。そのときの私は30代後半で、20年近くもさかのぼって比較されたことにものすごく驚いたんです。

――いまだに「早生まれだから学年違い」とか、学生時代を基準に話してしまうことも多いですよね。

寺地:ありますね。莉子のように、いまだに中学時代のヒエラルキーの中にいて、かわいいともてはやされていたときと同じ感覚で生きている人の気持ちは、私には正直、あまりわからないのですが、わからないからこそ書いてみたいとも思いました。中学時代の3年間と、大人になってからの3年間は、どんなふうに重みが違うんだろう、というのも考えてみたかった。

――書いてみて、莉子に対する理解は深まりましたか?

寺地:どうでしょう。「わかった」と思った瞬間、その人に近づこうとする努力をやめてしまう気がするので、私は基本的に、登場人物のことも「わかった」つもりにならないようにしているんですよ。ただ、最初は「いけすかない子だな」と思っていたのが、だんだん愛着はわいてきました。彼女のことは、とくに好きではないけど、幸せになってほしい。

――おっしゃるとおり、読みながら、莉子に愛着がわいてくるのが不思議でした。たぶん、朱音のように自立して生きている女性のほうが、共感したり憧れたりしやすいと思うんです。莉子は甘ったれだし、自分本位が抜けきらない。好きとも共感とも違うのだけど、なぜだか応援したくなってしまう。

寺地:朱音は、あまり迷わない人だから、読み手としては心を寄せにくい部分があるのかもしれませんね。迷わないぶん、かたくなで不器用なところがあるし、父親の面倒を見なくてはいけないから街を離れられないと思っていたけれど、実はその役割に朱音自身が依存していたのだというような、ちょっとした弱さもある。でも、莉子のほうが圧倒的に、ぐるぐる悩んで、感情の振れ幅が大きいですから。

寺地はるなさん

――寺地さんが、莉子に心を寄せてしまった場面はありますか?

寺地:大樹に対して「離婚するぐらいなら、死んでほしい」と思う場面かな。私は夫に対してそう思ったことはないけれど、「死んでほしい」と思ってしまった相手は過去にいます。でもそれは決して、殺したいほど憎んでいるのではなく、私の世界から消えてほしい、ということで……。あまり褒められた感情ではないですが、一度もそういう想いを抱いたことのない人って、果たして世の中にどれくらいいるんだろうかと思います。

――物語の冒頭で自殺しようとした園田にも、通じるものがある気がします。

寺地:そうなんです。彼は死にたかったわけではなく、消えてなくなってしまいたい、すべてをリセットしてなかったことにしたい、と思っていた。でも、死に対する感情は弱いからといって本当に死なないわけではなく……「今なら死ねるかもしれない」とひょいと壁を越えてしまう人はいるんじゃないかとも思います。

――消えてなくなってしまいたい、あるいは消えてほしい。破壊衝動ともまた違う、しがらみを引きずったまま生きることのしんどさが、三者三様に描かれているのがおもしろかったです。

寺地はるなさん

最初は女2人だけの物語だった

寺地:最初は、莉子と朱音だけの物語のつもりでした。以前、莉子を主人公に短編を書いたことがあって、『希望のゆくえ』という短編集に収録されるはずだったんですが、テイストがあわないということで外したんです。でも、これは長編で読んでみたいと言っていただいて、物語をふくらませていくうちに、しがらみから逃れられない生きづらさに、年齢や男女の区別はないはずだと思うようになって。もうちょっと、広い視座で物語をとらえてみたいと、園田を加えました。

――別に殴られていたわけじゃない、大金を要求されたわけでもない。けれどいじめとしか言いようのないふるまいをされて、今も引きずっている園田のつらさは、共感する人も多い気がします。「そんなひどいことをされたわけじゃないのに、いつまでも引きずるのはどうか」と他人に言われてしまう絶望も含めて。

寺地:他人から見てちっぽけなことだったとしても、どうしたって許せないことはありますし、許さなくていいとも思います。『白ゆき紅ばら』という小説でも書きましたが、それを忘れて幸せになりなさい、それが一番の復讐ですよ、というのはごまかしでしかないんですよね。だってそんなの、傷つけた側には関係のないことなんだから。だから、社会的に間違っているかもしれないけれど、園田の復讐したいという気持ちは否定したくなかったし、ないものとしても扱いたくなかった。

――あるきっかけで園田と知り合った朱音が、彼に復讐してもいい、と言って肯定するシーンが好きでした。過去に似た想いをしたことのある彼女が〈わたしが『強く生きていく』というポリシーを持つことは、ちっとも間違ってない。でもそれはそれとして彼らはちゃんと罪を償うべきだった〉と言うところも。

寺地:本作のタイトルは、学生時代の朱音が先生から言われた「雲に届くように高く飛べ、きみには翼がある」という言葉からきています。幸せになるのが一番の復讐だとか、いじめる奴のことなんか気にせず我が道を行けとか、世の中には美しい励ましの言葉がたくさんあります。もちろんそれも一つの選択肢ではあるけれど、朱音がつらさを乗り越えたことと、朱音を傷つけた人たちにはなんの関係もないんです。美しい言葉で大衆を動かそうとする人の言葉は疑ったほうがいい場合も多いし、それを否定する生き方があってもいいのではないかと思いました。

――そんな朱音が、一貫して、莉子のことを「友達じゃない」と言い切り、「私に友達はいない」とブレないところが好きでした。友達をつくることにしがみつかず、かといって孤高を貫いているわけでもない。傷つけてきた人たちにも先生の言葉にも依らずに生きようとしているのがカッコよくて。

寺地はるなさん

寺地:私自身、友達をつくることにこだわっていた時期があるんです。一度目は、地元の佐賀から大阪に出てきたとき。二度目は、作家としてデビューして単行本が出始めた頃。知り合いがいなくてさみしかった、仕事のちょっとした話を相談できる相手がほしい。理由はいろいろありましたが、それって、自分の欠けた穴を埋めるために他人を利用しようとしているのと同じだな、ものすごく自分勝手な都合で友達をほしがっているな、と気づいてからは、友達をほしいと思うことをやめました。

――確かに……。でも、同じ目線で話し合える相手を大人になってからなかなか見つけられなくて、友達がほしい、と思っている人はけっこういる気がします。学生時代の友人はいるけれど、今の自分には友達がいないな、と感じている人とか。

寺地:でも、果たして友達って、いなきゃいけないものなんでしょうか。私、ネガティブな意味あいで「友達少なそうだよね」と言われることがときどきあるんですけれど、それが悪口として成立してしまう価値観もどうなんだ、と思うんです。あと、映画などのフィクションでも、どんなに地味で友達がいないとされている子にも、たった一人の親友みたいな存在がいたりする。もちろん友情の物語は美しいですし、そのほうが感情移入もしやすいのだろうけれど、友達が一人もいない子がいてもいいじゃないかと思いますし、友達=自分の理解者という価値観のせいでしんどくなっている人もいるんじゃないかなあ、と。

――わかりやすく友達と言い合える関係ではないけれど、ただの顔見知りよりは親しい、名前のつけがたい相手にこそ救われることも、けっこうありますよね。

寺地:そうですね。どんなときも頼れて、本音を言い合えて、困ったときは駆けつけてくれる。そんな人ばかりが大切なわけじゃない、というのは書きたかったことの一つかもしれません。人って、けっこう自分のことしか考えていないことが多いと思うんですけれど、目の前で困っている人がいたら、見過ごすのは気分が悪いから、という理由で助けたりする。朱音が、通りがかりの他人だった園田に手を差し伸べたように。自分がどういう人間か、なんて、正しくとらえられる人は少ないと思うけど、自分はどうありたいか、は誰しも明確に思い描くことができる。理想の自分に近づくための行為の積み重ねで、学生時代の友達とはまた違う形で、人と繋がっていくこともできるんじゃないかと思います。

寺地はるなさん

結婚して、子どもがいて、何不自由ない生活をして……これは本当に望んだ幸せ?

――莉子が「私は、私が望んだとおりに幸せだろうか」と思う場面がありました。それは、自分がどうありたいか、ということを彼女がいちばん見失っていたからなのでしょうか。

寺地:友達と同様、幸せの概念にも人は縛られすぎている気がします。結婚して、子どもがいて、何不自由なく生活していて、世間が思い描く幸せな家庭を莉子は手に入れたけれど、だからといって本当にそれが自分の望んだことなのか、必要なものなのか、という疑問を抱いたことが、彼女にとっては大きな一歩だったんじゃないでしょうか。一生、疑問を抱くことなく終える人も、たくさんいますからね。疑問を抱く余地がないのは、本当に幸せだからなのかもしれないけれど、苦しいのに幸せなはずだと思い込むのは、とてもつらいだろうと思います。

――中学時代のヒエラルキーに縛られている莉子が、当時は歯牙にもかけなかった園田と距離を縮めていくところも、おもしろかったです。結果的にそれが、園田にとっては大樹への復讐にも近づいていくという。

寺地:時間をかけてつくりあげてきた自分らしさと居場所を、中学時代に自分をいじめてきた大樹に再会したというだけで壊されたような感覚に陥る、あっというまにあの頃に引き戻されてしまうというのは、園田にとってとてもつらいことだろうと思います。ただ、園田もまた誰かにとっては加害者になりうる存在なのだ、ということは常に意識していました。エピソードとして具体的には書きませんでしたが、これまでの人生で彼もまた誰かを無自覚に傷つけたことはあるはず。でも自分では、気づいていない。その“わかってなさ”は、随所で読者の方にも伝わるようにしたいな、と。

――加害と被害の曖昧さは、莉子と朱音の関係でも描かれますね。朱音の娘が莉子の娘にイヤな思いをさせられていたのは事実だけど、糾弾の場がもうけられたとたん、莉子が追い詰められ、傷つけられる立場になる。自業自得の部分はあるとはいえ、あっけなく立場は反転するのだというところも、読んでいてひやりとしました。

寺地:同じ景色を共有しているつもりでも、あたりまえですが、人によって感じ方は違うし、真実もまるで異なります。価値観も生き方もまるで違う三人の視点で物語を描いたことで、その違いやわかりあえなさがより克明に浮かび上がった気がしました。たとえば、莉子は最初、園田の存在をすっかり忘れていて、それは当時よりも彼が垢抜けていたからというのもあるのですが、実は同級生だったということを知らされたとき、私は最初、焦るだろうなと思ったんです。「夫がいじめてた相手じゃん、やばい」と。園田もそうなることを予想していたでしょうが、ふと「莉子が本当にそんな殊勝なことを思うだろうか?」と。

――実際は「実は私のことが好きだったんじゃないか」「私に釣りあいたいと思って容姿も磨いたんじゃないか」と考えていましたよね。あそこは、めちゃくちゃおもしろかったです。勘違いも甚だしいですが、確かに莉子ならそう思うだろう、と。

寺地:大樹のモラハラで自尊心を損なわれてはいますが、基本的に莉子は自分に自信がある。だから、朱音が頻繁に自分に声をかけてくるのも「自分と友達になりたがってるんだ」なんて勘違いをする。実際は、娘同士のトラブルについて話し合おうとしていただけなのに。そういうすれ違いは、おそらく仲のいい友人同士でも起きている。でも私たちは気づかないまま、なんとなく納得しながら、なんとなく関係を続けていく。それもおもしろいな、と思います。園田が自分では震えていると感じていた声を、莉子は優しく囁くような声だと好意的に受け止めるなど、誤解して人を結び付けることもありますしね。

寺地はるなさん

過去より未来にもっと最高な瞬間は待っているはず

――本作は「“黒テラチ”の真骨頂」だと担当編集者さんのコメントがありました。確かに、どこまでいってもわかりあえない、すれ違っては傷つけあう人の姿が描かれているんですけれど、その底に光る人の良心みたいなものが描かれていた気もします。

寺地:先ほど言った、「自分はどういう人間でありたいか」と考えることが、良心ともいえるかもしれませんね。本作では、人によって見え方・感じ方が違うということを表現するために、同じ場面をそれぞれの立場で書いてみたりもしたんです。作中では莉子の視点だけで語られることを、朱音は、園田は、実はどう思っていたのか。原稿の中には入れなかったけれど、三者三様の景色を逐一考えていたので、これまでになく時間がかかった作品でした。でも、そのぶん密度の高い作品になったかなと思います。学生時代の記憶は良くも悪くも濃密で、あの頃がいちばんよかったという人を否定するつもりはないけれど、でも、過去より未来にもっと最高な瞬間は待っているはずだし、つくっていきたいとも思うから。

――今、十代で、まさに狭いしがらみの渦中にいる人たちにも、本作は響く気がします。

寺地:そうですね。読者の多くは三十代後半とかの大人だと思うんですが、十代の子たちにも届いてくれたらいいなと思います。あなたの今いる人間関係も、決して揺るがないように感じている立ち位置も、永遠じゃないんだよと。何十年かたったとき、小説の内容を忘れてしまったとしても、そのことをふと思い出すような作品であってくれたら、嬉しいです。

寺地はるなさん

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