「あらゆることを書き尽くした」巨匠・筒井康隆、最後の作品集はSF、ブラックユーモア、グロテスクなど全ジャンル詰め込み〈インタビュー〉

文芸・カルチャー

公開日:2023/11/16

筒井康隆さん

時をかける少女』『日本以外全部沈没』『七瀬ふたたび』『残像に口紅を』など、時代を超えて読み継がれる数々の傑作を生み出してきた巨匠・筒井康隆さん。そんな巨匠が自ら、「これがおそらくわが最後の作品集になるだろう」と宣言する掌篇小説集『カーテンコール』(新潮社)がこのたび上梓された。今年89歳を迎えられた筒井さんは、どのような思いで、この作品集を紡ぎ上げたのか。文学界や愛読者たちの間で話題を呼んでいる本作の執筆の裏話を伺った。

(取材・文=アサトーミナミ 撮影=金澤正平)

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「もうこれ以上はないな」と思える“最後の作品集”

「わが最後の作品集になるだろう」との言葉を聞いた時、おそらく多くの筒井康隆ファンたちは、「読まないわけにはいかない」と思うのと同時に、「そうはいっても筒井先生ならば、これからまだまだたくさんの作品を書き続けてくれるのではないか」とも思ってしまったのではないだろうか。なぜなら、巨匠・筒井康隆は、これまで何度も引退を仄めかす発言で世間をザワつかせてきた小説家だからだ。1993年から3年3か月に及んだ「断筆宣言」も衝撃的だったが、2015年には『モナドの領域』(新潮社)を「最後の長編小説」として発表し、「もうこれ以上書くことはない」と述べていた。だが、2021年には短編集『ジャックポット』(新潮社)を刊行。そして、今回の掌篇小説集『カーテンコール』の刊行に至ったのだが、本当にこれが“最後の作品集”となってしまうのだろうか。

「そうですね。これは書いている最中から、『もうこれ以上はないな』と思って、書けるだけ書きました。10枚以上のものがもう書けなくなって、10枚くらいでまとめたらいいなって思って、掌篇集の形で書いていきました」

 前作の短編集『ジャックポット』は、現代音楽や現代美術に張り合おうと言語遊戯を突き詰めた実験小説が多かったが、今回の掌篇小説集『カーテンコール』は、読者を愉しませることに主眼を置いた、エンターテインメント色の強い作品ばかりが収録されている。

「昔はそういうふうにまとめなかったんですよ。うちで本にしてくれっていう出版社がいくつもあって選んでいられなくて、結局、その時期その時期で書いたものを、ごちゃごちゃに集めてお渡ししてた。だけど、年をとってくると、やはり身の回りはきちんとしなきゃいけないっていうそういう美学があるんですよね。だから『ジャックポット』は実験小説でそろえて、今度はエンタメばかりで」

「どうしてエンタメ色の強い作品の執筆に気持ちが向いたのか」と問えば、筒井さんは、「これが最後だから一冊くらいバーッてバカ売れする本がほしいと思って(笑)」と笑う。その目論見通り、発売前には重版が決定。“最後の作品集”は、文学界や愛読家からすでに大きな注目を集めている。

筒井康隆さん

「長く生きる」ということの意味——かつての盟友たちが登場する掌篇「プレイバック」

『カーテンコール』はそのタイトルに相応しく、筒井さんの集大成ともいえる作品集だ。SF、ドタバタ、ブラックユーモア、グロテスク、怪談、言葉遊び、私小説。そこには筒井作品を象徴するオールジャンルが25篇も収められている。短編よりも短い6ページくらいの掌篇がメインだから読みやすく、元々の筒井ファンはもちろんのこと、彼の著作に初めて触れる人にとっても手に取りやすいだろう。

 特に、印象的なのは、「プレイバック」という作品だ。この作品では、筒井康隆を思わせる病床の語り手のもとに、『時をかける少女』や『パプリカ』など、過去の筒井作品の主人公たちが次々と現れていく。そして、ラストに登場するのは、小松左京や星新一など、今は亡きかつての盟友たち。たとえば、『日本沈没』(小松左京/光文社)のパロディ『日本以外全部沈没』に対して、小松左京は「おれの『日本沈没』の、たった三十枚のパロディで儲けやがって」なんてセリフを吐き、星新一は、「そもそもがおれのアイディアだ」とそれに応戦していく。そんな展開にはSFファンならば思わず吹き出さずにはいられない。

「小松さんはやっぱりよくも悪くも親分でしたね。『東京行って泊まり先がない』って言うと、『よし、やってやろう』って部屋をとってくれたりね。でも、全部自分の手柄にしたがった。僕のパーティーだっていうのに出てきて演説してね、『筒井康隆がやったように思われているけど、これこれを先にやったのは私です』なんて言ったりするんだから(笑)」

 筒井さんはそう盟友の思い出を語るが、受けた影響は計り知れない。今でも、筒井さんは、評伝『星新一―一〇〇一話をつくった人』(最相葉月/新潮社)を読み返しては、そのたび、小松左京にしろ、星新一にしろ、「なんてすごい人なのだろう」と思い返すのだという。特に、星新一については、筒井さんは「ショートショートというのは、星新一が書いた掌篇のことであると僕は理解しています」「掌篇を書こうとすると、星さんに似たものができてしまうのは仕方のないことですよね」などとその偉大さを語った。

 しかし、そんな盟友たちは筒井さんを置いて、一足先に鬼籍に入ってしまった。さらに、今年3月には、親交の深かった大江健三郎も死去。筒井さんは“文学界最後の巨匠”と呼ばれる存在となってしまった。「プレイバック」は、読む者をクスッと笑わす小説であるとともに、今は亡き作家たちのことを思い出させ、私たちを不意にジーンとさせてくる。生き残った筒井さんが、「長く生きる」ということの意味を、自身に向けて改めて問い返した作品でもあるのだ。

筒井康隆さん

「文学やるなら常識捨てて、世間の糾弾身に受けて、何でも書くのがまともな作家」

 筒井さんは、「もうあらゆることを書き尽くした」と言う。だが、それでも新刊『カーテンコール』には、25篇もの作品が収められた。「そのアイディアはどこから生まれるのか」と問えば、「どこから出てくるかと言われれば、頭の中からなんだよね(笑)」と筒井さんはおちゃらけるが、どうやらキッカケは様々らしい。美食への興味から「原始人が今こんな美味しい料理食べたらかえって不味いと思うんじゃないか」と考え始めて生まれたのだというSF「美食禍」、自宅の窓からマネキンが見えたという実体験から生まれた怪異譚「手を振る娘」、人間の感情を一切描かないで表に出た行動だけで書くという形式をとったハードボイルド「武装市民」。ひとり息子の画家・伸輔さんの死の直後に書かれた私小説「川のほとり」。「『川のほとり』を除くと、この掌篇集の中で一番推したい」という、何かが始まりそうな緊迫感ある兄妹の会話「夜は更けてゆく」。——創作のキッカケも、その内容も実にバラエティ豊かだ。

 この掌篇集に収められた作品は、2020年末から書きためられたものだという。2020年といえば、世の中が新型コロナウイルスの脅威に見舞われ始めた頃。「コロナ追分」では、筒井さんはそんなコロナ禍を、追分節のリズムに乗せて、徹底的に風刺してみせた。未知のウイルスに振り回され続けた日々を茶化したその内容には、思わず悪い笑みが漏れてしまうが、終盤で紡がれるのは、“不謹慎”を恐れる者たちへの苦言だ。

「文学やるなら常識捨てて、世間の糾弾身に受けて、何でも書くのがまともな作家」。

 この掌篇に書かれたそんな言葉は、現代の多くの作家たちに鋭く突き刺さるのではないだろうか。筒井さんは語る。

「作家ではっきり書いている奴がいるんだよね。『コロナのことになると何も言えなくなる』って。『それなら作家辞めろ!』って思いますよ」
「小説には生真面目さなんてものは必要がない。だいたい真面目とか不真面目とか考えるのがおかしい。思った通り書けばいい」

 思い返してみれば、筒井康隆ほど、ブラックユーモアの効いた作品を世に送り出してきた作家は他にはいない。その作品、発言は時に波紋を呼び、トラブルとなることも少なくはなかった。だが、それでこそ、作家だ。「コロナ追分」には、そんな筒井さんが貫き通してきた作家としての矜持が詰まっている。

筒井康隆さん

“最後の作品集”の先にあるものは?

『カーテンコール』に収められた25篇はとにかく多彩。それを読めば読むほど、これが筒井さんの“最後の作品集”になるということが名残惜しくてたまらなくなる。だが、筒井さんはこれで作家を引退するというわけではない。現在も「波」誌(新潮社)で「老耄美食日記」を連載しており、「エッセーは生きている限り書くだろう」と語る。また、谷崎潤一郎賞や山田風太郎賞の選考委員を務め、それらは「素晴らしい作品に巡り会えることがあるからなかなかやめられない」のだそうだ。

 筒井さんは、この“最後の作品集”の先、どんな活躍をみせてくれるのだろうか。世間をあっと驚かせるような何かを、またもや生み出してくれるのではないか。『カーテンコール』は、幕切れの挨拶であるはず。だが、そのこの上ないユーモアに触れるたび、つい「アンコール!」と叫びたくなる。『カーテンコール』を読めば、「巨匠・筒井康隆」のこれまでに思いを馳せるとともに、“これから先”を期待してしまう人は少なくないだろう。

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