会社がなくなり、2億円が消えた──二転三転する迫真サスペンス『清算』著者・伊岡瞬インタビュー

文芸・カルチャー

公開日:2023/12/7

 ※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2024年1月号からの転載です。

伊岡瞬さん

 「最初に断っておきたいのですが、登場人物はすべて架空のキャラクターです。実際はとても家族的で温かい職場でした」
 開口一番、伊岡さんがそう述べたのには理由がある。『清算』は、伊岡さんの実体験から着想を得たサスペンス。かつて勤めていた広告会社が解散・清算されることになり、その実務に携わった経験が生かされている。

取材・文=野本由起 写真=干川 修

「私は以前ある広告会社に勤務していました。入社後数年して例のバブル景気が到来し、今では考えられませんが、企業には広告費に糸目をつけないというような風潮さえありました。私の在籍した会社も恩恵を浴しました。しかし、夢の時間は長く続かず、やがてバブルが弾け、リーマンショックが追い打ちをかけ、長く続く不況の時代になります。赤字基調から抜け出す見込みが立たなくなったため、傷が浅いうちにと解散することになったのです」

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 倒産を扱った小説はあっても、解散・清算を描いた作品は珍しい。そもそも両者には、どのような違いがあるのだろうか。

「乱暴に言ってしまうと、『倒産』は『やるだけやったけど、もうお手上げです』と白旗を上げてしまうケース。一方の『清算』は、債権者の合意を得た上で円満に会社を閉じる。まだ体力があるうちに会社の存続に見切りをつけ、できる限り債務を返済する、あるいは納得のうえで債務放棄してもらう制度で、根気を要する幕引きです。この作業にあたる責任者を『清算人』と呼びますが、わたしはその補助業務をしました。あまり聞かない経験をしたので、小説にしたら面白いだろうとは思っていましたが、実体験の記憶も生々しく、関係者も多数いるためなかなか踏み切れずにいました。しかし十年以上の時間が経って自分の中でもある程度整理がつき、編集者の勧めもあって今回挑戦することにしました」

 伊岡さんが専業作家になったのも、この会社の解散がきっかけだったそう。

「当時の私は50歳。社内でこそ、ある程度のキャリアがありましたが、社外に出れば特別な資格も持たないただの失業者です。だったらと妻が背中を押してくれて専業になり、すべての時間とエネルギーを注ぎ込んで書いた勝負作が『代償』でした」

 この作品が50万部を超えるヒットとなり、一躍ベストセラー作家に。

「自分の人生にとっても大きな分岐点だったあの体験を、今回小説にすることによって、ようやく私の『清算』が完了したのかもしれません」

実体験に基づいて描いた解散・清算業務

 本作は三章から成り、第一章では主人公の畑井が勤める広告会社「八千代アドバンス」が解散に至るまでが描かれる。経営陣に突然呼び出され、会社の解散を言い渡された畑井。制作部の次長だった彼は総務部長に任命され、解散の作業を指揮することになる。会社に命じられると首を横に振れない畑井の姿に、自分を重ねる読者も多いだろう。

「僕が描く主人公は、頼りないお人よしが多いんです。畑井も、従順な会社員の平均像。できる範囲でベストを尽くそうとしますが、自分の限界も知っています。そんな彼がどんどんトラブルに巻き込まれていくさまを描きたいと思いました」

 解散に向けた手続き、残された社員の再就職の斡旋なども、リアルに描かれる。

「畑井と一緒に、解散・清算の手続きを勉強し直しました(笑)。当時は驚くほどたくさんの書類を作っていましたね。取締役会や株主総会の招集と決議に関する書類を作り、社外取締役などに押印してもらうために関係先を回ります。社員の再就職にあたっては、面談に付き添って行ったりもしました」

 解散作業だけでも大変だが、周囲の人々も次々に厄介事を持ち込んでくる。思い付きのように畑井に作業を命じる常務、噂好きでなにかと口を挟んでくる元総務部長、訴訟を企てる営業部員、7年前に退社したが、今も給料が未払いだとゴネる元社員。彼らの人物造形がまた絶妙だ。

「架空の人物であるがゆえ、リアリティを出すことに力を注ぎました。いそうもないけれど、もしかしたらいるかもしれない、という人物象を作るのにいつも苦労します」

 親会社である大手新聞社と八千代アドバンスの関係性など、企業小説としても面白い。

「今回、大手新聞社系列という背景の設定をするにあたって、取材もしました。編集局、広告局などさまざまな部署に分かれていて、それぞれの局が独立した会社のような構造になっていたりします。会社が巨大だと社歴や年齢だけでは測れないヒエラルキーも生じる。そのあたりも虚実織り交ぜて物語にしました」

二転三転する物語を楽しんでほしい

 なんとか会社を解散させたものの、畑井は引き続き清算作業を請け負うことになる。ここからが第二章の始まりだ。

「解散後はもう従業員ではないので、やるべきことをやれば出退勤や勤務時間も自由です。しかし身分的にはボートで水上に浮いているようなもの。とりあえず飲み食いするものはあるものの、下には海しかない。そんな不安定な状態です」

 こうした中、事件が起きる。畑井を含む4人は、小さな一室で清算作業にあたっていたが、手提げ金庫で保管していた通帳と銀行印が、元社員と共に消えてしまったのだ。口座に入っていた額は2億円。本来なら、債務の返済に充てる金だった。

「2億円が消えたくだりは、当然ながらフィクションです。ただ、あまり具体的には言えませんが、私が清算作業をしていた当時も貴重品の管理を甘く考えていた部分はありました。清算部屋にはIDカードがなければ入れませんし、そんなところに大事なものが仕舞われていると知っているのは清算室の人間だけ、という背景もあります。しかし、後になって振り返ってみれば、あれは危険だったなと痛感し、そんな経験を小説にしてみたいと思うようになりました」

 本来なら清算は倒産に比べて穏便に進むはずだが、小説ではとんでもない事態になっていく。2億円を前にしても、実際に手を出す人はそうはいないだろう。だが、絶対に魔が差すことがないといえるだろうか。

「今、無人販売所での盗難が問題になっていますね。人はふと魔がさすことがあります。ましてや身近に2億円があると知れば、手を出す人もいるかもしれません。『本来、自分はこれくらいの給与や退職金がもらえたはずだ』と、数千万円引き出して通帳を戻しておく人がいるかもしれない。価値観や人生観にもよりますが、『貰ってくれといってるようなもの』『もっと厳重にしまっておかないそっちが悪い』と思う人もいるかもしれません」

 2億円はどこへ消えたのか。畑井たちが行方を追う中、さらなる事件も起きてしまう。

「2億円を持ち出した犯人捜しと同時に、二転三転する物語を楽しんでいただきたい。読者の関心を飽きさせないよう、先へ先へとつないでいければ、と願いながら書きました」

 2億円の消失と、新たな事件はどう関係しているのか。もしかしたら偶然が重なっただけなのか。第三章のラストに至るまで、読者の興味を惹きつけて離さない。

「会社勤めをしている方に、是非読んでいただきたいと思います。実務的な流れはほぼ正確ですので、『清算』の参考テキストとしても使えるのではないかと思います(笑)」

伊岡瞬
いおか・しゅん●1960年、東京都生まれ。広告会社勤務を経て、2005年『いつか、虹の向こうへ』で第25回横溝正史ミステリ大賞とテレビ東京賞をW受賞しデビュー。16年『代償』で啓文堂書店文庫大賞を受賞し、同書は50万部を超えるベストセラーに。19年には『悪寒』で再び啓文堂書店文庫大賞を、20年『痣』で徳間文庫大賞を受賞。他の著書に『残像』『仮面』『本性』など。

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