ヨシタケシンスケ『りんごかもしれない』が「こどもの本総選挙」1位獲得!デビュー作受賞を経て、絵本作家としての10年を振り返るインタビュー

文芸・カルチャー

更新日:2024/2/13

ヨシタケシンスケ

「小学生による小学生のための『最強の本』決定戦!」と謳われる、「小学生がえらぶ! “こどもの本”総選挙」。2023年に結果が発表された第3回では16万もの票が集まった。第4回となる今回、1位に輝いたのはヨシタケシンスケ氏の『りんごかもしれない』(ブロンズ新社)。第3回でも4位に入賞するほどの人気作だが、なんとヨシタケシンスケ氏のデビュー作で、2013年の発売から丸10年が経っている。本記事ではそんなヨシタケシンスケ氏に、デビューからの10年や絵本作家としてのご自身を語っていただいた。

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――「こどもの本総選挙」1位おめでとうございます!

ヨシタケシンスケ(以下、ヨシタケ):ありがとうございます。いやあ、人生ほんとうに何が起きるかわからないですね。しかも選んでいただいたのは、10年前に描いたデビュー作の『りんごかもしれない』。イラストレーターだった僕が、右も左もわからないなか、編集者さんの「りんごでもなんでもいいから、一つのものをいろんな視点で見ようとするお話はどうですか」というお題にこたえてつくった本。

 本当に「りんごに見えるけど、そうじゃないかもしれない」と妄想するだけのつくりになっていて、ここまでシンプルな絵本は二度とつくれないなとも思いますし、絵本作家としてのスタート地点に立たせてくれた作品でもある。僕には王道の絵本はつくれない、と思っていたのに、今も大切に読んでくれる人たちがこんなにたくさんいるなんて、なんて幸せなんだろうと。

――なぜ王道の本をつくれないと思ったんですか?

ヨシタケ:僕は、絵本作家からいちばん遠いところにいると思っていたんですよ。お話をつくって、絵を描いて、さらにきれいな色をつけるなんて、そんなことは一つもできない。資質もないと思っていた。読むのは好きだったからたくさんの絵本に触れてきたけど、それで十分満足していて、つくる側にまわるなんてことは、考えたこともなかったんですよね。おこがましい、とさえ思っていた。

 それでも、僕にしかできない何かがある、と編集者の方に励まされ、試行錯誤の末にできたのが『りんごかもしれない』だったので、僕の原点というか、いろんなものがこの一冊には詰まっているなあ、と思います。

ヨシタケシンスケ

――10年たった今、ヨシタケさんにしかできない何か、というのはなんだとご自身では思われますか。

ヨシタケ:なんだろうなあ。「かもしれない」というキーワードでくくればなんだってできる、というのは『りんごかもしれない』をつくったときの、大いなる発見だったんですよ。その発見は、絵本作家としてのこの10年を決定づけるものだった気がする。想像するのは自由だし、誰にも怒られない、文句を言われる筋合いはないよね、って。それは、僕がとことん怒られるのを忌避する人間だったからこそ、生まれたものだと思うんですけど。

――子どもたちにとって「怒られないようにする」というのは、窮屈さと同義であることが多いと思うんですよ。でもヨシタケさんは、「楽しむ」ことを両立させている。それがすごいな、と。

ヨシタケ:もともとは、全然両立していなかったんです。怒られないようにふるまう、隙間を縫うってことは、そんなに苦もなくできるタイプだったし、窮屈ってほど我慢をしていたわけじゃない。自分に非がないことをいかに証明できるか、みたいなことばっかり考えていたけど、それ自体は苦痛でもなかったんです。でも一方で、若者っぽいことができない自分がいやでもあったんですよ。

――若者っぽいこと?

ヨシタケ:「これはのちのち黒歴史みたいなことになるからやめとこう」ってブレーキをかけてしまう子どもだったんです。たとえば、写真集がボロボロになるまで読み返してコンサートに行くほど好きなアイドルがいる、ってあとから振り返ればこっぱずかしいかもしれないけど、そのときにしか発散できない熱情もあるじゃないですか。

 馬鹿やっている友達を冷めた目で見ていた僕は、「大人っぽい自分」を気取っているカッコ悪い人間だって自覚もあって、だからといってそんな自分を捨てることもできずに過ごしてきた。今は、流行に乗って、子どもっぽい人間関係の荒波に揉まれて、段階を踏んで価値観を醸成し、大人になっていくことはものすごく大事なことなんだと痛感しています。そして、大人が冷めた目で誘導し、その芽を摘んでしまうことは大きな罪なのだと。

――確かに、黒歴史が大人にしてくれるところはありますね。

ヨシタケ:やっぱり人は、痛い目を見なければ成長しないといいますか。重傷を負う必要はないけど、どこまでなら大丈夫で、どこから怪我をするのか、みたいなことは体感として必要な場合もあると思うんですよね。とはいえ、僕みたいなタイプがむりやり痛い目に遭いに行く必要はない、というのも本音なんですけど。

――怒られなければ理解できなかったタイプとしては、痛い目に遭わずに理解できるならそれに越したことはない、と思います(笑)。

ヨシタケ:実際、空気を読んで、怒られないよう、人に喜ばれるようふるまってきた僕のスタンスは、仕事をするうえでものすごく役立っていますしね。伝えたいことを誤解がないようちゃんと伝える、というのは、イラストにせよ絵本にせよ、商品である以上はとても大切なことで。そのときどきにもっともふさわしい表現を探り当てつつ、自分の言いたいことを言える、というのは僕の武器かもしれません。あと、教職についている方なんかにお話を聞くと、最近の子どもは僕みたいなタイプが多いみたいで。

――空気を読む、というか、ものすごくまわりをちゃんと見て、判断できている子は多い気がします。

ヨシタケ:ハングリー精神に欠けるとか、言うことはちゃんと聞くけど言った以上のことはやらないとか、そういうネガティブな表現をされることも多いんですけど、僕もまさにそういう子どもだったんですよね。40年くらい時代を先取りしていたんだなって(笑)。

――(笑)。確かに、ヨシタケさん世代はとくに、根性論とかがむしゃらに頑張るとかが推奨されていた時代ですよね。

ヨシタケ:根性論をふりかざしたくなる気持ちもわかるんですよ。実際、それで成果をあげてきた人たちも大勢いるんでしょうし。でも、よそと比べればそりゃあ足りないものはたくさんあるだろうけれど、基本的に生活にさほどの不自由がなかった僕は「ハングリーになれ」と言われても困ってしまったし、とくに物質的により豊かになった今の子たちに、それは無茶な話だろうとも思うんですよね。かわりに彼らが身につけた、事を荒立てないように空気を読む能力を、大人たちはよくないことのように言ってくれる。

――めちゃくちゃ大事な能力で、事を荒立てないに越したことはないのに。

ヨシタケ:そう。だから僕は、そういう子たちに「きみたちは悪くないよ」「空気を読むっていうのはそれはそれでけっこうな気苦労があるもんだよね」みたいに言ってあげたいなと思うんですよ。反抗期もなく、流されるまま生きてきたような人間が、40歳になって急に絵本作家になることもある。

 クリエイティブとはいちばん縁遠いと思っていた「怒られないようにする」力が、いちばん役に立っていたりもするよ、って。僕自身が今も「こんなことあるんだ!」って驚いているからこそ、そしてかつての自分に「そういうこともあるよ」って教えてあげたい気持ちになっているからこそ、シェアする気持ちで作品をつくっていきたいなあと思うんです。

ヨシタケシンスケ

――ヨシタケシンスケ完全読本のタイトルは『ものは言いよう』ですが、ともすれば屁理屈と怒られてしまいそうな、いろんな表現を使って、ヨシタケさんは固定観念から自由になっている気がするんですよね。それが、子どもだけでなく大人たちのことも、解放してくれるんだろうなと。

ヨシタケ:大人としてやらなきゃいけないことの一つは、子どもたちの選択肢を増やすことで、そのためにも選ぶ余裕を与えたり、失敗する権利を行使させてあげたりしなきゃいけない。時代を40年先取りした男としては(笑)、その経験をフル活用して、「きみの言っていることはわかるけど、こういうこともあるかもしれないよねー」とか「残念ながら僕はそれじゃないんだなー、でもきみはきみでいいと思うよ」みたいに、意見の違う他者と軋轢を起こさないようにしながら、自分の腑に落ちる答えを探り当てていくという方法を描いていきたいな、と思うんです。

 どうしても意思の疎通ができないことって、世の中にはたくさんあるし、かなしいかな、避けられないことではあるんだけれど、その軋轢をどこまで減らすことができるか、地に足のついた着地点を探っていきたいな、と。

――難しいなと思うのは、「ものは言いよう」って、先ほども言った屁理屈と、そして「論破」につながりやすくもあるじゃないですか。それこそ、誤解されないよう伝えるために、どう意識していらっしゃるのかな、と。

ヨシタケ:論破の何がむかつくって、言い終えたあとにどや顔されることだと思うんですよね。論破されることそれ自体ではなく、「言ったった」感のあるその顔に腹が立つんだと。

――確かに!(笑)

ヨシタケ:僕が作品でも描いている「ものは言いよう」は、相手を打ち負かすためではなく、あくまで相手の矛先をちょっとずらして、自分がすり抜けていくためのものなんですよ。そのためには、相手を怒らせるというのは全然得策ではなくて。世の中のいろんな問題を解決して変えていくために必要なのは、物議を醸すことだけじゃないんじゃないか、相手をおだてたり共感したりしながら、ちょっとずつ角度を変えていくことで成しえることもあるんじゃないか、と思うんです。そういう平和的な方法を探していきたいなあ、と。まあ、気持ちはわかるんですけどね。論破するのって気持ちがいいでしょう。

――スカッとしますよね。

ヨシタケ:でも、そのスカッとした快感は長持ちしないし、相手にもおそらく、早々に飽きられる。長い目で見たら負け試合の土俵に立ったも同然、ということのほうが多い気がします。だったら、その場は負けたように見えても一歩引いて、戦わずに勝つ道を選ぶのもアリなんじゃないのかな、って。戦うべき場所はそこじゃないし、本当に力を発揮しなきゃいけないときのために温存しておこうよ、と思ったりもします。

 僕は「逃げる」とか「諦める」って言葉を肯定的に使うんですけど、負け惜しみでもなんでもいいから自分を守るための言い訳はどんどんすればいいと思うし、それで相手が反論しにくくなるなら別にいいんじゃない?って気持ちがあるからなんですよね。世の中いろんなことがあるけど、最終的にはあなたが幸せだと思えるならそれでいいんだよ、って。

――論破といちばん違うのは、ヨシタケさんには必ず「きみの言っていることはわかるけど」とか「きみはきみでいいと思うよ」っていう相手に対する肯定があることですよね。実際、相手の価値観を受けいれられるかどうかは別として、存在そのものを否定しないというか。

ヨシタケ:否定しても、誰も得しないから(笑)。いつの時代でも、どんな文化でも、たいていの人は脛をぶつけると痛いし、背中が痒くても届かないし、好きな人に褒められると嬉しい。そういう理屈抜きの感覚に届くようなものを描きたいですし、その過程で「そういう言い方もあるのか」「でもこういう言い方もできるよね」「じゃあこっちはどうだろう?」って拾い集めていきたいんです。

 まあ、論破にハマっていた時期があったとして、それはそれでさっき言った黒歴史みたいなもので、その実りのなさをのちのち痛感してのたうちまわる、みたいなことも、あっていいと思いますけどね(笑)。

――そのスタンスが「かもしれない」という一言に集約されている気がします。

ヨシタケ:ああ、そうですね。そして、40歳になったからこそ、そういう選択肢を広げていくような絵本がつくれたのかなあ、とも思います。それまでは、自分の持っているものの使い方がわかっていなくて、有効活用できずにいたから。そうそう、ヨシタケ家の家訓に「人生のピークは遅い方がいい」というのがあるんですよ。

――その心は?

ヨシタケ:神童と呼ばれていた人たちが、大人になってからあんまり幸せそうじゃないことって、わりとあるよなあと思って。あまりに早いうちに人生のピークが訪れると「あの頃はよかった」と振り返るばかりになってしまう。それに対して、子どもの頃は人よりちょっと遅れていたけど、少しずつ、一歩ずつ、自分なりに右肩上がりの人生を歩んでいる人のほうが、派手さはないかもしれないけれど、自分の現状に満足していることが多い気がするんです。

 もちろん、だから神童はダメ、ってことでは決してないんですけれど、今がいまいちだと思っていても、ささいな経験がのちのちどんな可能性に結びつくかわからないし、コンプレックスが強みに変わることもあるんだよ、ってこともまた、かたちにしていけたらと思います。そう思えた方が、みんな、気楽に失敗もできるでしょう。

ヨシタケシンスケ

――そのスタンスは変わらないながら、ヨシタケさんの作風は少しずつ変わっている気がするんです。たとえば『メメンとモリ』は、これまでにないストーリー調というか、短編集のような趣ですよね。

ヨシタケ:そうなんですよ。「これなら怒られないかな」「今回も大丈夫だった」「だったらこれはどう?」「それも大丈夫ならこれは?」と繰り返しているうちに、危ない橋を渡りたくなってきた(笑)。そういう破滅願望も、実はずーっと抱えている人間なんです。

――でも、破滅願望と「怒られたくない」って、実は隣り合わせのような気がしますね。

ヨシタケ:そうなんです。人の言うことを聞くのがうまい自分は、そのうち壊れたりするんじゃないかという恐怖心と、壊れたときにやっと自分が自分になれたような気がしてホッとするんじゃないだろうか、という予感が物心ついたときから同居していた。

 だから、絵本作家になって、さぞや立派なお父さんなんでしょうみたいなことを言われることが増えると「いや、違うんです、毎日いやらしいことばっかり考えてるんです」みたいに言いたくなる。隠しているけど、バレてほしくもあって、ときどき露悪的な絵本……『ころべばいいのに』みたいなものも描いてしまう。こいつ案外ひどい奴だな、って思われたくなっちゃうというか。

――その矛盾は誰しも抱えている気がします。

ヨシタケ:それもひっくるめて人間ですよね。今まではいいところばっかりが見られすぎた感があるので、ちゃんとバランスを取りたい。僕という材料をいい方に組み立てるとこうなります、悪い方に組み立てるとこうなります、どちらも同じ人間から生まれています、と作品で示すことで、それ自体が一つのメッセージになればいいな、と。それが絵本作家としての僕の誠意なんじゃないかと。

――ヨシタケさんって、人を信頼はしているんだけど、自分もふくめ、誰に対しても過度な期待を寄せていない感じがして、その正直さもまた支持される理由なのかなと思います。

ヨシタケ:何事も期待しないでおくほうが楽しめますからね。あくまで僕は、ですけれど、見返りを期待しないほうが自由でいられるんです。過剰に期待すると世の中を減点方式で見るようになって、つらいんですよ。100点であるべき世界が80点だった、どうしてあの人は60点のことしかしてくれないんだ、とか思っていちいち怒るのも悲しむのもしんどい。だったら、今日はゼロスタートで「今日は40点もあった、すごい!」って思いたい。「夢は基本的に叶わないけど、別に頑張っちゃダメじゃないんだよ」って言われたほうが、安心して頑張れる。

 もちろん、「頑張れば夢は叶うし、叶わないのは努力が足りないからだ」って言われたほうが燃えるというのであれば、それを選べばいい。ただ僕は「どうせ失敗するよ」と言われたら、失敗ありきで頑張って、ほれみろと言われたら「ですよねー、でも僕は楽しかったからいいんです!」って胸を張れるんです。

――絵本作家としても、評価されている、成功している、という以前に、ヨシタケさんはご自身が「どうなるかわからないけど、こっちのほうが楽しい」という感覚で道を選んでいらっしゃる気がして、それも素敵だなあと思います。

ヨシタケ:そうですねえ。手広くやることはできないけど、手持ちの材料で角度を変えて何ができるかを考えるだけで意外とやれるというのは、この10年で得た実感で、僕はそういうタイプなんだなと思えたことも、自分をラクにさせてくれた気がします。ただ、これまでは過去の自分に向けて描いている感覚が強いんですけど、今後は未来の自分に向けて描くんじゃないかなという気がしていて。

――それはなぜでしょう。

ヨシタケ:この2~3年で、ガクッと年を取っちゃって。モテたいって気持ちがなくなり、どうでもよくなっちゃったのが自分でもすごく怖いんですよ。

――モテたいって思っていたんですか……?

ヨシタケ:若いときの原動力って、なんだかんだ言ってそれが大きいと思うんですよね。ちやほやされたいし、褒められたいんです。でもそういう感情がなくなってしまうと、世の中で起きている問題の多くに感情移入ができなくなって、一言で言えば枯れてしまう。

 たとえば子どもが生まれたとき、それまでは犯罪者に対して「ひどいことだけど、そういうことをしてしまう気持ちもわかる」と思っていた気持ちがなくなって「なんてひどいことを」という憤りのほうが強くなった。それは悪いことではないけれど、世界の半分が見えなくなったような感覚に陥ったんです。それと同じで、今の僕には世界の多くが見えなくなりつつある。そのことがとてもおそろしい。

――想像力、とはまた別の話ですよね。体感として、失われてしまうというのは。

ヨシタケ:以前は、いかがわしいことも描いてみたい、なんて思っていたけど、興味がなくなってしまった。でも、生きるということは欲が減退することでもあって、「なんで自分は生きているのか」と見失いかける瞬間がおそらく誰しも訪れる。これからどんどん高齢者が中心になっていく世の中で、その問いに対する救いを見出せるようなものを、10年後、さらに欲を失ってしまうだろう僕のためにも、描いていきたいなと。

――たとえばうつ病の方とか、欲を取りもどすことができずに苦しんでいる人は、高齢者でなくてもけっこう多い気がします。

ヨシタケ:そう思います。だから、10年後の僕のためというのが出発点ではあるけれど、年齢問わず、その救いを必要としている方にも届くものが描けたらいいですね。世界の手触りが失われてしまったときにどうすればいいのか、基本的にはどうにもならないことが多いんだけど、なにか着地点を見つけられたらな、と。

 そういう状態のときって、たぶん本を読もうという気持ちにもなれないと思うんです。絵本、というメディアはそういう意味でも、可能性があるのかなと。……と思っていたときに、絵本ではないんですけれど、自殺防止に関するお仕事の依頼が来て。どこかで発表できるはずですが、その仕事を通じて、今の僕だからこそ言えることがあるかもしれないな、と思えたのは嬉しかった。絵本作家として何ができるのか考えながら、これからの10年を歩んでいきたいと思います。

取材・文=立花もも、撮影=金澤正平

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