宮本輝 Interview long Version 2010年9月号

インタビューロングバージョン

更新日:2013/8/19

働き盛りの男女4人の“宝探し”
数十年の時を照らす物語の厚み

『三千枚の金貨』は、一本の桜の古木と金貨にまつわる謎解きの物語だ。主人公の斉木光生は夜中の病院の談話室で、見知らぬ男(芹沢由郎)から突然話しかけられる。和歌山県の某所にある桜の木の根元に埋めた3000枚のメイプルリーフ金貨をもし見つけることができたら、それらをすべてもらえるというのだ。読者の想像力を刺激する「桜の木」と「金貨」の取り合わせは、宮本さん自身の個人的なエピソードを出発点にしている。
「この小説の依頼があった頃、『にぎやかな天地』の取材で和歌山県の湯浅町にある古い醤油屋さんを訪ねました。ところが道を間違えて、とんでもない山奥に入ってしまった。後戻りできないし、約束の時間もあるので、とにかく直進しようと、どんどん山の中に入っていきました。そのうち農道に入り、ついには行き止まりになってしまった。結局、Uターンできずにバックしながら戻りました。戻ってくる時にきれいな場所だなぁ、と思ったんです。ちょうど桜が満開の季節で、山桜がきれいでした。その時に自分が見た一本の桜と農家と、その前に拡がっている畑の情景が頭に残ったんですね。
息子が生まれた頃に、お子さんの誕生日に毎年1枚メイプルリーフ金貨をというCMをやっていて、その影響で1/4オンスの金貨を3年間買い続けました。ずっと忘れていたんですが、その金貨が机の奥から出てきたんです。ネットで現在の価格を調べると、ずいぶん値上がりしている。金持ちはこうやってお金を儲けるのかと思いました(笑)。いまのうちに換えてしまえと、3枚の金貨を売却しに行ったんです。こうして、30年近く前に買ったメイプルリーフ金貨と和歌山の山桜の記憶が僕の中で重なった。桜の木の下に金貨を埋めてやろうと考えたわけですね」
ところがここで、宮本さんは不思議な体験をする。
「小説を書く前に、あの場所をもう一度見ておこうと思いました。そして桜の季節に再び訪れたんです。ところがどこを探しても見つからない。以前、同行した者に、延々と拡がる畑があって、その向こうに山があって、山の麓に立派な桜の木が立っていて、その横に農家があったけれど、あれどこやねんと訊いたんですが、そういうものはなかったというんですね。つまり、僕が脳内で創ってしまった風景だったみたいなんです。これまで俺はこうやって小説を書いてきたのか。『泥の河』から始まってすべてが幻想かい、みたいな(笑)。自分の足下が崩れていく感覚にとらわれました。立ち直るのに、けっこう時間がかかりましたね。しかしそれもいいだろう、これも俺だと思い直しました。人間60歳を過ぎると、開き直りが早い(笑)。ところが最後の最後で、掲載紙の『BRIO』が休刊になってしまった。自分の計算ではあと50枚程度と考えていたのですが、残りを書き下ろしで書こうと思っても、モチベーションが上がらない。気力を取り戻すのに半年かかりました。いろんな意味で元手がかかっている小説なんです」

40代の彼らが見つめる
20年前と20年後

宮本さんは雑誌連載を行う際、読者層を意識して執筆するルールをみずからに課している。『BRIO』は、30代前半から40歳前後の働き盛りの男性をターゲットにしたグラビア雑誌だ。その結果、導きだされた登場人物が、文具会社マミヤに勤務する斉木光生、宇津木民平、川岸知之ら43歳の男たちだ。物語は、40代の彼らのライフスタイルにスポットを当てながら進行する。
「『四十にして惑わず』という言葉がありますが、40歳になったら何事にも迷わなくなるという意味ではなく、40歳になると周囲に惑わすものがたくさん出てくるから気をつけよ、という警句と考えるようになりました。40代に入ると、収入は増えてくるし、外に出る機会も増える。そうすると、いろいろなことが起こってくるんですよ。特に男性の場合、酒と女と金です(笑)。これが3点セットになるんですね。まさに負のスパイラル的状況(笑)。40の男が、通らざるをえない関所みたいなものです。
僕が40代になって実感したことは、残りの人生は少ないということでした。50になった時も、60になった時も感じなかった意識です。僕の中学時代、40代男性はおじさんというより、じいさんのイメージでしたからね。自分もそういう年齢になったんだな、と。男にも更年期はあって、僕もネガティブな状況に陥りました。僕の場合、小説を書く仕事に救われた部分があります。小説家は長生きしなければ負けだと思っています。自分には60代という一つの目安がありました。60代になって書く作品を自分で期待する気持ちがあった。だから苦しい40代を乗り越えることができたわけです」
いまこの時代、働き盛りの40代がどのように生きるべきかというモデルが存在しないことに問題があると、宮本さんはいう。
「40代男性のみならず、現代人は心理的、経済的に追いこまれています。それは日本だけじゃない、世界的な『気分』として共有されています。でも『気分』である限り、自分の力で払拭できる。そこで僕は、『時を待つ』ことの重要性を訴えたいんです。この作品では20年という年月がキーワードになっています。40代に入ってからの20年は、ずいぶん長いですよ。45歳の人は65歳になるわけですから。そう考えると、桜の木の下に埋められた3000枚の金貨は、歳月のメタファーといえるわけです」
斉木、宇津木、川岸の3人は、銀座の行きつけのバーのママで元看護師の室井沙都の協力を得て、金貨探しの旅に出る。30歳になる沙都は、末期ガンで入院した芹沢の担当看護師であり、芹沢の愛人であり芹沢の没後亡くなった室井絹華の妹でもあった。芹沢と絹華の一人娘で18歳の由菜を愛する沙都は、姪のために金貨を手に入れようとする。男たちもまた沙都の考えに賛同する。約20年前に作成された芹沢由郎についての調査報告書を読んだ斉木らは、虐げられ疎外され続けた芹沢の不遇の人生の顛末を知る。推察と考察を重ね、ついに宝の在り処に辿り着いた彼らは、ある決断を下す。彼らの人生は、20年後の未来に託される。斉木たちが導きだした結論は、20年という長期のスパンで人生や家族や社会について考えることの重要性を意味している。
「そのように読みとっていただけるのであれば、作者として本当に嬉しいですね。芹沢由郎の調査報告書から始まって斉木たちの20年後を考えると、この物語は40年間を展望しているわけです。20年は、過ぎてしまえばあっという間です。でもこれからの20年は非常に長い。そのことの意味をどうとらえるかということです」
宮本さんは現在、毎日新聞で『三十光年の星たち』を連載中だ。この作品にも、30光年と30年という「永遠」と「瞬間」のような時間を対比して、人生をとらえる視点がある。
「芥川賞をいただいた時に、自分はこれからこういう小説を書いていきたい、作家として自分を磨いていきたいという決意を述べたんです。そうしたらある人から、『決意なんか信じない。30年後の姿を見せろ』と言われました。ショックを受けました。でもしばらくして、本当にそうだなと思いました。30年経って俺の決意がどういうものであったかがわかる、一人の人間を判断するのに30年の歳月が必要なんだ、と。ものすごく深いことを教えてもらい感謝しています。30年の間に何が起きるかわかりません。病気になるかもしれないし、事故や天災で死ぬかもしれない。それはそれとして、自分は30年先を目指そうと思いました。芥川賞受賞時、僕は30歳でしたから、30年後は60歳。あれから30年経った宮本が、こういうものを書きましたということを報告する気持ちで、いまは一作一作と向きあっています」

時間をかけねば到達しえない
“プロ”の世界を実感すること

「一人の人間の性根というか、その人が本物か偽物かを見極めるのに、30年かかるということです。『十年一剣を磨く』という言葉がありますが、一剣を10年ではなく20年磨いたらどうなるだろう、30年磨いたらどうなるだろう、ということです。最近、職人さんや匠の世界に惹かれます。この間も京都の有名な染織家にお会いしました。化学薬品は一切使わずに自然のもので染める、実に奥深い気持ちのいい色が出せる職人さんなんです。その人は15歳で弟子入りして、いま55歳です。40年間、毎日狭い工房でひたすら染料となる草花を煮て、煎じ、染める作業を40年間やってきた。この人が出せない色はないんです。化学染料ではないから、その日の湿気や温度や布の織り方の違いなどで、出てくる色が微妙に変わってくるんですね。でも色見本と同じ色を出すと決めたら、その色は絶対出るんです。気難しい職人だと思われそうですが、ごく普通の人です。とてつもない技術をもった染織家であるにもかかわらず、何でも教えてくれます。つまり、秘伝がないんです。しかし誰も真似できない」
『三千枚の金貨』は、世代間の伝達と継承の物語ともいえる。沙都は姉の遺したショット・バーを継ぎ、蕎麦打ちに興味をもった斉木の小6の息子・康生は、祖母の蕎麦店を継ぐ決意を述べる。重役を務める62歳の瀬川は、自費を投じて設営した施設で若いゴルファーの育成に専念する。その他、作中には職人気質をもった人々が登場し、伝統空間である祗園も重要な舞台として選ばれている。
「一つのことをやり遂げるには時間がかかります。職人さんの世界を見てきて、つくづく思いましたね。焼き物でも、職人さんが何回ろくろを回したかが大切なんですね。20年、30年の時間をかけなければ到達しえない職人の世界が、いまどんどん崩壊しています。後継者はいるんです。しかし徒弟制度が崩壊している。いまの子は休みが欲しいんですね。残業や休日出勤を嫌がる。そういう子には壁があるんです。プロの世界に飛翔するためには、越えなければならない壁がある。その壁を越えるためには最低でも20年かかる、ということです。一般人でも同じことです。大学を卒業して入社すると23歳ですか。60歳で定年としても、役員や相談役として残って63ぐらいまで働くとしたら、だいたい40年の年月をサラリーマンとして働くわけです。職人の世界とは違いますが、その人が40年間で何をやり遂げ、そこで何を掴むのかが重要だと思います」
そのように考えると、18年間ひたすらゴルフ練習場に通い続け、一度もコースに出ようとしないコーヒー専門店を営む43歳の長谷俊幸のエピソードが、興味深いものとして映る。長谷にとってゴルフ練習場通いは、一つの修練としてとらえられているのかもしれない。
「長谷は不思議な人ですね。ゴルフに限らず、どんなスポーツでも奥が深いということです。さらにいえば、プロがいかにすごいかということですね。アマチュアがなぜアマチュアかというと、ひょっとしたら自分もまぐれでプロに勝てるかもしれないと思ってしまうようなところ。プロには逆立ちしても勝てない。それがしみじみわかった時に、プロへの階段を一歩上ることができる。
サラリーマン時代に1年ほどビリヤードに凝って、習いに行ってたんです。少しうまくなったことで天狗になって、僕を教えてくれるレッスンプロの先生に対して、このじいさん大したことないじゃないかと思ったんですね。夜10時に店が閉まるんですが、ある日、帰りかけると変な客が入ってくる。玉突きをやりに来た人じゃないんです。これから何が始まるのかなと見ていたら、相当なお金をかけての賭けビリヤードが始まりました。まずいなと思って帰ろうとしたら、先生から『宮本さん、ちょっと見ていく?』と、誘われました。そこで先生は、いままで僕に教えてくれたものはいったい何だったのかと思われるような、すごいプレーをするわけです。腕自慢の挑戦者をカモにして、勝ち続けました。タバコを吸う時の先生の手は震えているんですよ。そんな手でキューを突かれへんと思うわけだけれど、キューをもつとびしっとなる。プロの凄さを見せつけられました。僕はそれでビリヤードをやめました(笑)」

advertisement

長年積み重ねた作家の「勘」が
物語の深部を掴み流れを紡ぐ

社長の間宮健之介とともに、株式会社マミヤの創立に参加した斉木、宇津木、川岸の三人は「三銃士」と呼ばれ、社内で責任ある立場の役職に就いている。三銃士といえば、アレクサンドル・デュマの名作『三銃士』を想起する読者は多いはずだ。三銃士とダルタニャンを加えた3+1の人物配置は、そのまま斉木、宇津木、川岸の3人と沙都の関係に当てはめることができる(ダルタニャンは青年ではあるが)。『三銃士』は全三部からなる『ダルタニャン物語』の第一部である。続く第二部のタイトルは、『二十年後』という。「20年後」は『三千枚の金貨』の重要キーワードでもある。このように見ていくと、『ダルタニャン物語』と『三千枚の金貨』は不思議な連関を見せる作品でもあることがわかる。
「いまその話を聞いて、僕もびっくりしました。昔からの知り合いが経営する会社で、その社長が特に信を置く3人の社員がいたんです。会社名は伏せますが、その3人は陰で『〇〇の三銃士』と呼ばれていました。仲のいい3人で、将来会社を背負っていくだろうとの期待があり、現実に3人は役員になりましたが、彼ら3人をモデルに『マミヤ三銃士』として使わせてもらいました。うーん、『ダルタニャン物語』ですか。まったく考えていなかった(笑)」
作家の無意識が物語の深部を直感的に掴まえたと表現するしかない事態に、驚愕させられる。おそらくは聖杯探求譚というベーシックで原型的な物語の構造が、「三銃士」というキーワードに結びつき、結果として世界文学の名作との不思議なイメージ連鎖をもたらすことになったのではないだろうか。
『三千枚の金貨』は、世界文学的な長編小説の構造を備えた作品でもある。細部を彩る魅惑的なエピソードの数々が開示され、時に複雑に絡みあい、本流へと流れこみ、それらは壮大な物語として編成されていく。宮本さんは長編小説をどのように構想し、書き進めていかれるのだろうか。長編小説の設計論について伺った。
「まず最初に行うのが、読者に何を伝えたいのか自分の中で鮮明にすることです。つまり、物語の芯をつくる作業。それさえできれば、そこから葉っぱが生えたり、根がはびこってきたりして、いつの間にか一本の木として生長が期待できる形になります。生長した木のどこを剪定し接木するかは、僕が生きてきた六十数年の時間の中で、どれだけ自分のポケットの中にいろんなものを拾って入れてきたかに負うところが大きいですね。つまり、出たとこ勝負です(笑)」
長年の作家生活の間で培われた「勘」。それもまた、先ほど宮本さんが述べられた職人的な技術の賜といえるかもしれない。
「シルクロードの乾河道で斉木がガイドに写真を撮ってもらうシーンが、銀座の大通りを歩いていく光生の後ろ姿を撮影する沙都のラストと重なる予感はありました。でも具体的にどういう形でつながるかはわからない。現代の東京と乾河道はつながるだろうという、あくまで勘です。僕が乾河道に立った時にそういうことを感じていたのかもしれません。天山山脈を見た時も、砂漠に消えていく青年を見た時も、それらを小説の中で活用しようと考えていたわけではありません。異なる場所に存在していても、同じ時代を共有している人間が、自分の人生を『旅人』として生きている。そういう感覚をこの作品の中にちりばめたかったんです。ちりばめるだけでは小説にならないので、桜の木や金貨や20年といったキーワードによって結びつける。それらをどのように結びつけるかが職人の芸ですね」
昨年、司馬遼太郎賞を受賞した『骸骨ビルの庭』において強調されたのは、民衆の生き延びる力の肯定であった。この作品においても登場人物の言を借りて、「国家権力」に拮抗しうるのは「民主主義国家における本源的な政治力」=「民衆」の力という論が展開される。
「50代の終わりぐらいから、それまで僕の中でオブラートに包んできたものを外に出していこうという気持ちに変わりつつあります。民衆に支持されないものは、長持ちしません。新聞の見出しとなるような出来事は表面的なもので、『水底のゆるやかな動き』こそが歴史をかたちづくるというアーノルド・J・トインビーの有名な言葉があります。『水底のゆるやかな動き』こそが民衆の力だと思うんです。僕らは世の中を表面的に見てしまいがちです。若者はこれからどうなんねんとか、この国の将来をどうするねんとかいうけれど、若者は大きな可能性を秘めているし、国の将来を案じることはない。政治家は民衆を騙したつもりでしょうが、民衆はそんなにバカではないんです。その民衆がつくりあげていくものこそが、いちばん強いんですね。民衆の代表としての43歳の男を、乾河道から銀座へと移動させてみた。その意味で僕は、とてもロマンティックな小説を書いたと思っているんです」