「人は対話することによってほんの少し近づくことはできる」――芦沢央さんが最新作『神の悪手』に込めた将棋と人への想い《インタビュー》

文芸・カルチャー

公開日:2021/7/10

詰将棋を解く爽快感は、ミステリを読み解くのと似ている

――「弱い者」の語り手は、被災地の対局指導をするプロ棋士の北上です。避難所で出会った小学生に思わぬ才能を覚え興奮しますが……。

芦沢 もともと、避難所でしばしば起きる事件について、いつか書かなければと思っていたんです。将棋は電気を使わないし、一度ルールを覚えてしまえば飽きずに延々と遊ぶことができるから、避難所でも推奨されていると知って、今回テーマに選びました。ただ、『カインは言わなかった』を書いたときにも感じたことですが、最近は発言者の当事者性を問う風潮が強くなっていて……。被災地にいたから“わかる”、被災地にいない人は“何もわからない”という分断を招いているような気がしていたんです。

――北上も、かつて自分が被災した経験があるから、他の人たちよりも現地の人に寄り添えるという自負を抱いていましたね。

芦沢 でも、同じ被災者であっても、年齢や性別、被災の程度によって目にする光景は全然ちがうはずでしょう。目の前にいる小学生が何を感じ、どうしたいと思っているのか、北上は本当にわかるのか? 被災した経験のない人には、本当にわからないのか? ということも描きたいと思いました。

――そこで、北上と対比的に描かれるのが、石埜という女流棋士ですね。

芦沢 「奨励会では、女に負けたら坊主という罰ゲームがあった」という話を知って衝撃を受けたというのがあります。「女は弱い」「棋士になれなくても女流棋士という受け皿がある彼女たちと、自分たちは覚悟が違う」という考え方があったとも聞きました。今はまた違うようですが、こういう分断の奥にあるものを探りたいと思ったんです。そうしたいろいろなモヤモヤをどうミステリとして見せていけるか、挑戦してみたいと。

――次々と思いこみが覆されていく驚きは、芦沢さんならではですよね。個人的には3作目の「ミイラ」がいちばん好きでした。テーマは詰将棋。雑誌に投稿される詰将棋が、果たして本当に問題として成立するのか? を検証する常坂が語り手です。

芦沢 ずいぶんマニアックな題材になってしまいましたが(笑)、構成的には自分でもいちばん上手にかけたなと思っています。詰将棋って、単なる論理パズルかと思いきや、対局以上に将棋の本質を浮かび上がらせるものなんですね。「棋は対話なり」という言葉どおり、将棋とは対局者同士の対話。詰将棋も、作成者と回答者だけでなく、作成者と常坂のような検証者が、じかに会うことがないまま作品を通じて交流を重ねるものなんだ、ということを知ったんです。相手がどういうルールにのっとって、どういう意図でその問題をつくったのかが見えたときの爽快感は、ミステリで伏線回収されたときのそれとも似ていて、ぜひテーマとして扱ってみたかった。

――それで、奇妙な法則に縛られた詰将棋を送ってくる園田という作成者と、常坂の交流を描こうと。

芦沢 園田くんは、世間の常識とは外れた場所で育っていて、“死”の概念も人とはちがう。誰からも理解されないかもしれないけど、詰将棋を挟むことで、常坂は彼の本質を理解できるかもしれないと……。「弱い者」とは逆に、当事者じゃないからこそ寄り添えるものもあるんじゃないか、ということを描きたかった。ネタバレにつながるので詳しくは言えませんが、将棋って、死の概念が希薄だなと感じたのも大きいです。相手から奪った駒は自分の手として再利用し、王(玉)将を追い落とすのではなく、あと一手で落とせますよ、というところで勝負は終わる。誰も死なないっていうのは、おもしろいなと。

――続く「盤上の糸」もまた、他人には理解されにくい景色を見ている人の物語でした。18歳のときに事故にあい、両親と、視覚で認識する力を失いながらも、プロ棋士として名をなす亀海要。そしてそんな彼に向かう、対局者……。

芦沢 実際に、要のような棋士の方がいるわけではないんですけれど、昔読んだ『妻を帽子とまちがえた男』というノンフィクションで、失認症状のある方はチェスが強いという記載があって。だったら将棋もできるんじゃないかなと思ったんですよね。園田くんとは別の形で将棋に生かされ、世界と繋がることのできている要と、AIの出す“正解”の一手を探し続ける対局者。それぞれの頭のなかを映し出すことで、対局に挑む棋士がどれほど孤独か、どれほどのものを背負いながら自らの一手を検証し、前に進んでいるのかということを描けたらなと思いました。観戦してる人はね、気軽に「なんでそんな手を打つんだ」とかいうんですけど。

――野球などのスポーツ観戦でも「俺なら打てる」とかヤジ飛ばす人はいますもんね。

芦沢 そう。聞くと、打てるわけないだろ! って思うんですけど(笑)、でもヤジを飛ばす人たちのなかには「勝ってほしい」という想いも強くあって。間違いのひとつもない対局を観たいなら、AI同士のシミュレーションを観ていればいい。そうではなく、人と人との対局を一生懸命に観てしまうということは、人の心を躍動させるものは単純な勝ち負けや強さのなかにだけあるわけじゃない、ってことじゃないかなと書いていて思いました。

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人は対話によって育っていくのだと、改めて感じた

――駒師について書かれた「恩返し」でも、未熟な部分にこそ成長の余地がある、ということが描かれていましたね。

芦沢 そうですね。技術が洗練されればされるほど、駒は均一化されて個性がなくなっていく、というお話をうかがって。どんな人も最初から完成されているわけではなく、コミュニケーションのなかで磨かれて、育っていくものなんだなと改めて感じました。棋士の方は、どんなタイトルをとっても、頂点に立ったように見えても、さらなる高みをめざして研鑽し、将棋の真理を追究していく。羽生先生も、コンピューターを使った研究をとりいれてからは指し方が変わったと言われているそうで、あれほどの人でもまだまだ精進しようとされている、その姿と駒師の矜持が重なり、「恩返し」は生まれました。

――「恩返し」に登場する棋士は、勝手に羽生九段を重ねて読んでしまいました。

芦沢 「恩返し」に限らず、全編通じて影響は大いに受けていると思います。羽生先生の出されている本も夢中で読みましたし、将棋に向きあう姿勢や哲学みたいなものに感銘を受けているので……。

――「棋は対話なり」を連想させる作品集、と羽生九段から推薦文が寄せられたように、まさに盤上の対話を通じて人と人との繋がりを描いた作品集でした。

芦沢 ありがとうございます。私が小説を書く根源には「いつ自分も間違えるともしれない」「自分が今、間違えずに生きていられるのはただ運がよかっただけ」というおそれがあって。だからこそ、ちょっとした運命のいたずらや歯車のズレによって人生が狂わされてしまう人たちを書いてしまうわけですが、それでも、将棋に対する想いによって新しい場所へと踏み出せる人たちの姿を、今作では描けたんじゃないかなと思います。人と人とが完全にわかりあうことはできないかもしれないけれど、対話することによって、ほんの少し近づくことはできるのかもしれない。そう思える作品を書けたことがとても嬉しいですし、これからも小説を書き続けていきたいと、今は強く思っています。

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