ストロングゼロ、プチ整形、セックス、恋愛依存――「屈強な虚無」に侵食される女性を描く。金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』

小説・エッセイ

公開日:2021/8/7

金原ひとみさん

金原ひとみさんの『アンソーシャル ディスタンス』は、コロナ以前/コロナ後の人間の精神のあり方を可視化した短編集だ。5つの短編はそれぞれに、ある状況へと追いつめられていく主人公の姿が、一人称の視点で語られる。冒頭を飾る「ストロングゼロ」は、うつ状態に陥った恋人を自宅で看護する日々に消耗した女性編集者の桝本美奈が、高アルコール飲料に依存していく物語だ。

(取材・文=榎本正樹 撮影=冨永智子)

「フランスから帰国後すぐに書き始めた短編です。外国から帰ってきて、日本でのお酒の飲み方の特殊性を痛感しました。仕事帰りにコンビニの駐車場で普通にお酒を飲んでいる人がいたりと、とてもカジュアルなんですね。欧米では、そういう飲み方をしている人は目にしないので、単純に興味が湧きました。24時間営業のコンビニでいつでもお酒を買えますし、ネットで注文すれば、翌日には配送してもらえる。日本ではアルコールを取り巻く環境が整いすぎているがゆえに、場合によっては蟻地獄のような状況が生じうる。それがとても怖いと思いましたし、私自身も片足を突っこんでいる実感があり、高アルコール飲料に侵食されていく女性を書いてみようと思いました」

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 アルコール度の強さを表す「ストロング」に、「ゼロ」という相反する概念が加えられたストロングゼロは、矛盾を内包しているがゆえに不思議な吸引力がある言葉だ。
「タイトルは迷ったんです。商品名を使っていいのだろうかと思い悩みながらも、ストロングゼロを『屈強な虚無』と訳せると思いついたその瞬間、このタイトルで小説が完成すると思いました(笑)。日常に翻弄されている主人公はすごく弱っていて、その結果アルコールに蝕まれていくわけですが、一方でふてぶてしい部分もあって、自分を省みることなくひたすら依存に突き進んでいくんですね。虚無を抱えつつ屈強に生きている姿が、お酒の名前にぴったりだと思いました」

 ほぼ一日寝たきり状態の恋人は生きる力を失い、ゼロに近づいていく。そんな彼に食事を与え、介護しなければ生活は破綻してしまう。強気にふるまう彼女だが、時間の経過とともにゼロが浸潤してくる。本性を見失った彼女は、職場でもストロングを飲み始め、同僚の元彼と浮気をし、初対面の男と体を重ねる。彼女の精神は臨界点に達し、そして崩壊する。

「いま自分が何をしているのかわからなくなる感じ。たとえばタクシーで目が覚めて、どこに向かっているのかわからなくなる状況って、お酒をある程度飲む人だったら経験があると思うし、そういう精神状況の時は仕事もうまく回らなくなっていきますよね。自分が破滅に向かっていることは明らかにわかるのに、どうしようもない手詰まり状態。破綻に突き進んでいることを自覚しながらも、飲むことでそれを忘れるという、完璧な負のスパイラルを生きているのが主人公なんです。

 すべての短編の主人公は何かに依存しています。何かに依存したり執着しにくい時代だと思うんです。多くの人がマイルドな生き方を志すようになっています。これがないと生きていけないという、その人にとっての最優先事項を全面に押しだしている人物に関心があります。依存は時として生きるための力になると思います」

整形というバグ修正の世界に入りこむ

 2作目の「デバッガー」は、11歳年下の恋人に老化を悟られないために、美容整形の世界にのめりこんでいく35歳の女性クリエイティブディレクター森川愛菜の物語だ。金原さんがデビュー以来追求してきた現代人の身体感覚が、身体のバグ修正という視点によってとらえ直される。

「整形をテーマに、現代日本を生きる女性から見える世界を可視化した短編を書いてみよう、という思いつきから始まった小説です。先ほどのアルコールの話にもつながりますが、海外から日本に帰ってくると、途端に他人の目が気になり始めます。老いとか劣化のような言葉が日常的に耳に入ってきますし、特に若い女性が自分の容姿に対して他人の目を通して自分を見て、恐怖心を抱く状況が興味深かった。整形という正解のない世界に入りこんでいった主人公が、結果バグだらけになっていくという滑稽さも加味された作品ですが、私自身切実な問題として痛感しています」

 バグを修正すべく整形に奔走する主人公の「私の私による私のための施術」は、「巨大な取り返しのつかないバグを引き起こ」すに至る。彼女は自問自答する。「私は一体、誰と恋愛していたのだろう。そもそもこれは恋愛だったのだろうか」と。

「そうなんです。小説を書きながら、結局彼女と彼との関わりあいは恋愛じゃなかったんじゃないかという結論に到りました。生きることと人と関わることは切り離せないわけで、生きている以上、どうしても人間関係が絡んでくるし、その中で濃厚な関係を築く人が出てくるのは自然なことだけれど、それを恋愛と呼ぶことで別物として扱っているというか、その言葉が免罪符になって、普通の思考回路であれば絶対にしないような行動へと人を駆り立ててしまう。でも結局、人間は一人ひとり個人として他者に関わっているだけで、他者に何を委託しているのかは人それぞれ違うということが見えてくるラストになったと思います」

自分自身を持て余す30代女性の心の揺らぎ

「コンスキエンティア」では、セックスレスの夫、取引先の男性、そして友人の弟という3人の男性の間を揺れ動く、化粧品会社に勤務する30歳の小路茜音の姿が描かれる。

「結果的に恋愛依存をテーマにした作品になりましたが、彼女が意図的に複合的な恋愛関係を作りあげたわけではなく、気づいたらそうなっていたという不思議な話になりました。彼女の場合、自分がきちんと収まる場所がなく、浮遊する身体を持て余している感じですね」

 自分では制御できない獰猛な欲望を持て余している主人公は、一方で「打ち勝つことのできない強大な無」にとらわれている。孤立感と虚無感に苛まれる彼女のコンスキエンティア(良心)が白日の下に晒される。

「主人公のように自分自身に翻弄されている女性って、結構多いんじゃないでしょうか。ある程度、先々の可能性が見えてきた30代から40代の女性が、目前の現実に自分自身をバランスよく配置することができないような状況に遭遇して混乱してしまう。私も自分自身を持て余している感覚を抱くことがあって、自分をどう処したらいいのかわからなくなることがあります。社会の中での30代女性の位置づけも最近揺らいできていると思いますし、結婚とか出産とか育児とか、人生の重大局面が重くのしかかる時期でもあります。そういう中で自分自身がどういう存在なのかわからなくなっていき、凧のようにふわふわ揺らいでいく瞬間が、『コンスキエンティア』には表現されていると思います」

 3人の男の間を凧のように揺らぎながら、誰に会いたいのかさえわからなくなる主人公に、有名服飾デザイナーとの出会いがもたらされる。3人から4人へと、彼女の男関係はさらに錯綜していく。
「彼女の内面がさらに分裂していくみたいな感じですよね(笑)。彼女は、4人の男性それぞれに見せる顔によってメイクを使い分けます。彼女の化粧に対する真摯な情熱が、自分とは何なのかをよりわからなくさせている要因になっているんです」

コロナ時代の空気感を表現する

「ストロングゼロ」から「コンスキエンティア」までの3作品は、コロナ禍以前に発表された。表題作は2020年春のコロナ禍に突入したまさにそのタイミングで書かれた。物語内時間は2020年の春休み。コロナ禍初期の空気感を写しとるべく執筆された作品とのことだ。

「コロナの脅威について騒がれ始めた時期で、春休みに大学生の卒業旅行がキャンセルされたニュースが印象に残りました。正論でなぎ倒されてしまう人たちの声が無視される状況に不安を感じました。“コロナなんて知らねぇよ。こっちにはもっと大きな問題があるんだ”と心の中で叫ぶ、生きることで精いっぱいの人たちを書きたいと思いました」

「アンソーシャル ディスタンス」では、収録短編の中で唯一、女性と男性の視点が入れ替わる趣向が導入されている。

「大学3年生の小嶺沙南は希死念慮を持っていて、視野が狭く、コロナに目を向けない子なので、もう少し広い視点から状況を把握できる人物として彼氏である大学4年生の幸希の視点を入れることにしました。彼はアグレッシヴである彼女とは正反対の“無難な男の子”です。小説に普通の視点を入れたい気持ちもあって、一人称多視点の語りを導入しました」

 自分たちの思い出のバンドが公演中止になる報を受け、コロナの脅威を実感した沙南と幸希は、大きな衝撃を受ける。

「直接的な形で、コロナが自分たちの生活に影響を与えてきたという。私もちょうどその頃、好きなバンドのライブの公演中止や延期の知らせをもらって落ちこみました。ライブハウスでクラスターが発生したことで、ものすごい叩かれ方をしたことに強い憤りも感じました。鬼の首を取ったかのように攻め立てる人たちの恐ろしさを目の当たりにして、“音楽がなきゃ、ライブがなきゃ死んじゃう人”の代表として、二人を出したいと思いました」

 世の中へのテロを幸希に呼びかける沙南だが、暴力衝動は自分たち自身に向けられる。沙南と幸希は鎌倉へと心中の旅に出る。生と死のどちらにも転びうる先の読めない物語進行に、片時も目を離せない。ひたすら死に向かおうとする沙南と、生への可能性を模索する幸希。ある想像に導かれた幸希は、自分のささやかな思いを沙南に伝える。そしてそれが小さな希望へとつながっていく。

「あの場所に彼が辿り着けたことが、コロナがもたらした唯一のポジティブな影響といえるかもしれません。構想の初期段階では、旅行から帰った二人が旅先でもらったコロナを周囲の人間にうつしまくって、嫌いな人たちがみんな死んでしまう話にしてしまおうかと思ったんですが、さすがにそれは逸脱し過ぎると考え直し、現実的な範囲で彼らが救われる状況を考え、幸希の“幸福な想像”をきっかけに二人が生の世界に帰還する流れになりました。もちろん彼女にとっては旅先で死んでしまったほうが楽だったかもしれませんが、事なかれ主義の彼の浅はかな想像が、彼女にあと少し先を見てみようかなという気持ちに持っていけたのかな、と」

コロナ時代を生き延びるための新たな処世術として

 最終短編「テクノブレイク」は、コロナに対する価値観の違いにより、恋人との間に対立が生じた主人公の芽衣が、内側へと閉じていく物語だ。テクノブレイクとは、過度のマスターべーションによって身体異常を引き起こす症状を表す言葉である。

「『アンソーシャル ディスタンス』の前にプロットを立てていた別の短編があったのですが、コロナ禍の今を書かねばということで『アンソーシャル ディスタンス』を優先させました。別のプロットでは、主に拒食の話を書こうと考えていました。拒食や過食の話は割と書き尽くされたというか、ある程度消費されてきた気もしていたので、拒食の話はやめて、コロナと食とセックスを組み合わせる話として再構成しました。『アンソーシャル ディスタンス』ではコロナを気にしない人を書いたので、今度は極端にコロナを気にする人を登場させようと思いました。自分の中にも両極端の気持ちがあるので、その両側からアプローチしたいと思ったんです」

 私たちはコロナ禍を通して、それまで隠されていた人間の本心が可視化される状況をつぶさに見る機会を与えられた。そこには自分自身の本心も含まれる。コロナは人間の表と裏の顔を映しだす鏡となった。
「彼女は恋人に対して彼はこんな人だったのかと驚くし、彼は彼で彼女の本音に触れてうんざりします。同時に、彼女は自分自身に対しても、こんな人間だったのかと驚いているんですよね。他人に対しても自分に対しても驚きを感じることで、世界がひっくり返ったような瞬間だったと思いますね」

 作中には、登録相手の位置情報を24時間共有するスマホのアプリ、ゼンリーが登場する。主人公は、スマホ搭載の高解像度のカメラで恋人とのセックス動画を撮影する。テクノロジーに依存する人間のメンタリティが描かれる。

「パソコンやスマホで完結してしまう時代を私たちは生きています。時代状況を考えると、個人が自宅に引きこもるステイホームは合理的ですよね。今あえて外に出て大人数で何かをすることは現実的に不可能ですし。そういう中で、本当に最小単位にまで自分の生活を縮小してしまったのが、ラストの彼女の姿だと思います」

 コロナ前は無邪気に快楽を貪っていた主人公であるが、コロナによって恋人との間に距離ができた彼女は、ゼンリーで彼の現在位置を確認するようになる。3週間ぶりに自宅で彼との対面が叶うも、スマホでの盗撮が露見し、信頼関係を失う。彼女は、自分と彼のセックス動画を編集し、デリバリーで注文した激辛の食事を食べ、彼とのセックス動画を観賞して、オナニーをする。自分の部屋の中ですべてが完結してしまうようなエコシステムの中を彼女は生きる。ステイホームのライフスタイルは、私たち皆が置かれている状況でもある。主人公の生き方は、コロナ時代を生き延びるための新たな処世術といえるかもしれない。

「芽衣には自分の置かれた状況と世の中の状況を照合して、最適値を行動へと結びつける才能があります。彼女は最終的に、ほとんどのものを削ぎ落そうという結論に至ります。自分を楽しませてくれるエンターテインメントとしてのセックス動画と、偏愛する食べ物があれば他には何もいらない、と。普通の人はなかなかそこまで到達できないと思うんですけど、現代人の最終形態みたいなところに、退化ではなくて進化の形で主人公が辿り着いたことは、私の中でハッピーエンドです」

 コロナの渦中でコロナをテーマに小説を書く、そうした金原さんの創作態度は今後も変わらないのだろうか。

「今後ワクチンによってコロナが鎮圧されていく中で、元に戻るところと戻らないところがはっきり見えてくるはずです。人類が新たなフェーズに入ったなと思えるシグナルを感じたら、そこをテーマに書いてみたいと思います」

 

金原ひとみ
かねはら・ひとみ●1983年生まれ。『蛇にピアス』で第27回すばる文学賞、第130回芥川龍之介賞を受賞。『トリップ・トラップ』で第27回織田作之助賞、『マザーズ』で第22回Bunkamuraドゥマゴ文学賞、『アタラクシア』で第5回渡辺淳一文学賞など受賞作多数。他の著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『ハイドラ』『マリアージュ・マリアージュ』『持たざる者』『軽薄』『クラウドガール』『パリの砂漠、東京の蜃気楼』など。