「メンブレ」はいいけど、生理的に無理な略語とは? 若手川柳人ふたりの合同批評会「川柳を見つけて」イベントレポート

文芸・カルチャー

公開日:2023/12/8

 シルバー川柳でもない、サラリーマン川柳でもない、「現代川柳」というジャンルをご存じだろうか。2022年、暮田真名『ふりょの星』(左右社)、ササキリユウイチ『馬場にオムライス』(私家版)が刊行された。2023年11月、20代の若手川柳人ふたりの合同批評会「川柳を見つけて」には、パネラーとして穂村弘、平岡直子、郡司和斗、川合大祐が登壇し、会場、オンライン合わせて50名を超える若手川柳人が詰めかけた。

川柳を見つけて

 批評会では、暮田の『ふりょの星』は穂村と平岡、ササキリの『馬場にオムライス』は郡司と川合が担当。歌人・穂村弘は、暮田の世界と「既存の世界」とのズレを語った。それは韻文と散文の違いでもある重要な指摘だ。

穂村 「暮田さんの作品を見たときに、ずいぶんストレートでクイックだなあという印象を受けました。散文的な言葉の流れをズラしたり、音を重視したり、カテゴリーを越境したり。様々なことが起きていて、読者の中にある『既存の、多数者の、散文的な世界像』の変革が起きる。見た瞬間に(世界像が)破壊されて再構築されるという印象を受けました。

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谷底に寿司が落ちたら嫌でしょう(暮田真名)
【穂村改作】床に寿司が落ちたら嫌でしょう

ネバーランドの残り湯を見ろ
【穂村改作】健康ランドの残り湯を見ろ

 暮田さんの作品と、既存の世界像との比較をしてみました。我々が無意識のうちに共有している世界像があると思っていて。既存の世界像というのか、多数者が共有する世界像というのか、『散文的に構築された世界像』という言い方をしてみたいんですけど。韻文を我々が書いて、それをそういうものに縁がない人に見せると読みにくい。その読みにくく、なんとなく苦痛を感じるものの正体が何かというと、我々がすでに内面化している「既存の世界像」の変革を求められるということかなあと思います。作家性とは別に、韻文は我々が内面化している『既存の多数者の世界像』を組み替えることを、大なり小なり要求してくる」

川柳を見つけて

 歌人・川柳人の平岡直子は、暮田とプライベートでも親交があるという。暮田の普段の言葉の扱い方から触れ、その作風の魅力を解説した。

平岡 「暮田さんの話を聞いていると、略語が多く出てくるんですよ。『メンブレ』とか『ログボ』とか。でも『生理的に無理な略語もあるんです』って言うんですね。『作り置き』を『つくおき』って略すのがどうしても許せないんだ、『作り置き』という言葉のいいところを損なっている気がする、と。『作り置き』には、丁寧な暮らしみたいな文脈がある。一音略してしまう丁寧じゃなさに対する腑に落ちなさ。韻文を扱うということはそういうことだよなという納得感があって。『作り置き』を情報として伝達するときに、正確性を期すなら『作り置き』って略さずに言うのもいいし、効率性を重視するなら『つくおき』って略すのが早くなる。正確性や効率性ではない部分でその言葉がどうしてその響きなのかとか、どうしてその長さなのかとかに、向き合って必然性を探っていく。短詩を作るのはそういうことだなと思っています。

 かなしみと枯山水がこみ上げる(暮田真名)
 県道のかたちになった犬がくる
 狭心症の鰯もいるよ
 非常口にはグリーンカレー

 言葉の見せ方、言葉の新しい魅力が強く出ているなと思う作品を挙げました。言葉と言葉の組み合わせに意外性があって、常識的な文脈ではすごくびっくりするような組み合わせをされているんですけど、なんの根拠もないわけではなく、なんらかの連絡が行われている。暮田さんの川柳は、言葉の見せ方に重点が置かれた作風だと思っています。言葉一つ一つの本来の魅力とか隠れた魅力とか、一つ一つの言葉が活躍できる形が追求されている」

川柳を見つけて

 続いてササキリユウイチ『馬場にオムライス』の批評である。歌人の郡司和斗は、ササキリの句のモチーフと文体から作品を読み取った。

郡司 「句集を読んでいて気になるのは性的な句とその多さです。性的なモチーフから、アプローチとして、言語の世界を拡張しようとする意思を感じとりました。

 性的な釣鐘の音で笑い死ぬ(ササキリユウイチ)

 句集の冒頭にあるこの句は、その宣言のようです。性的なモチーフといっても少しメタ的で、意識が滲み出ている。句集には、間接的なものも含めると膨大な性的な句があるんですよね。しかしそれは、セクハラ的に相手の反応を引き出すための句ではなく、真面目すぎる世界に対する防衛的なつぶやきとして読めます。例えば思弁的実在論に代表されるように、世界は次の瞬間に姿を変えるという世界観も流行っていましたが、イレギュラーも込み込みで世界はある。ある種の混乱とか不快さに対して、自分の中で正気を保つ、という防衛です。

 また、上五の音数の余りが目立つと思います。個人的な体感として、初句七音にするのは難しいなあというのがあります。初句五音だと逃げ切れたものが、七音にすると急に逃げ切れなくなる。意味やイメージの要素が増加するから当然ですよね。

 腐った喉でささやく馬場にオムライス(ササキリユウイチ)
 角の傷んだノートが稲妻に着地
 腰のまがった未規定性も寺上がり

 七七と五七五が同時に句の中に内包された感じ。このリズム感の変化は短歌で初句七音にするよりも驚きと衝撃があると思いました。

 また、句集からは独特なその口調から、固有の声の響きを感じます、

 鴉出せ(黙っていろ)おい鴉出せ(ササキリユウイチ)
 いやはや暑い!みにくいですな、神の子は!

 共感は求めていないんだけど、呼びかけの形を取ることで他者の存在が前提になっている。過激でドメスティックな、ディオニュソス的な書き振りでありながら、同時に何かを伝えたがっている。それは句集に通底する美意識なのだと思います。句集に貫かれる一つの倫理が見えてくる」

川柳を見つけて

 川柳人の川合大祐は、冒頭で「まず最初に言っておかないといけないのは、『ああ、下手な句が揃っているなあ』って思ったんですね」と発言。会場をざわつかせた。

「私にとってこの中の句というのは、基本的に下手な句が多いです。この中の句を『うまい』と言われたら、その時を限りに川柳書きを辞めなきゃいけないなあとまで思いました。ただ、下手な句を集めた句集に、存在意義がないのかというと、それはまったくそうではないということを前提に置きたいと思います。

 助詞で終わる、体言止めへの対応がこの句集には見受けられます。

 切り分ける谺の反省文集を(ササキリユウイチ)

『切り分ける谺』だけで一句を成していて、『反省文集を』というのが、ややはみ出している気がするんですね。なんではみ出しているかというと、『を』という不全性にあると思うんです。不全感はどこからきて、なにを目指しているのか。それは言葉を静止させる、ということ。言葉の冷凍パッケージングではないかと思う。下手な言葉を使う、たどたどしい言葉を使うというのは、世界が不安定な状態に置かれていることだと思います。不安定な世界の表現がなされている、下手であることの受難がある。それでいうと、『馬場にオムライス』の中で『いい句』というのが、すなわち世界であると言えると思います。定型=世界のある切り取りかた、パッケージングなわけです。いくつか挙げます。

 以上のようにチを食べています(ササキリユウイチ)
 このあいだ〈現実公園〉で寝てた
 丁寧に開けよ意味が減るじゃねえか
 腰のまがった未規定性も寺上がり

 川柳に定型という形式を前提としつつ、破綻させる、いわば、形式がないことによって、ある、という形の句集が『馬場にオムライス』の特色の一つではないかと思っています。作者は、世界をこの本の中に閉じ込めることに成功しました。同時に、世界の中に作者はいる。世界と作者は入れ子構造になっているわけです。世界と作者が一体化している。一体化行為がすなわち言葉であるもので、一体化するものとは、それはメシアです。メシアの殉教というのが、『馬場にオムライス』の作者の宿命ではないか」

川柳を見つけて

 合同批評会「川柳を見つけて」を受けて、暮田真名さんは「自分が何を考えていたのかが明確になりました」と微笑む。ササキリユウイチさんは「自分の技術が知的ではないという読みがあったが、では胎児の言語はどう残るのか?という問いにおいて、それがダメだとは思わない」という。発起人の小池正博さんは、「暮田さんは言語感覚が優れている作家、ササキリさんは理知的で哲学的な作家。この世代的にも近い二人を通して、若い人を川柳に呼び込むことができれば」と語った。

 2020年代に入り、川柳句集の出版が続いている。アンソロジー『はじめまして現代川柳』(小池正博:編/書肆侃侃房/2020)の出版を皮切りに、川合大祐『リバー・ワールド』(書肆侃侃房/2021)、湊圭伍『そら耳のつづきを』(書肆侃侃房/2021)、飯島章友『成長痛の月』(素粒社/2021)、平岡直子『Ladies and』(左右社/2022)、なかはられいこ『くちびるにウエハース』(左右社/2022)……そして『ふりょの星』『馬場にオムライス』である。今後「現代川柳」がどう作られ、読まれ、展開していくのか。それが「川柳を見つけて」の会場の熱気から垣間見えた。

川柳を見つけて

取材・文=高松霞

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