衝撃のラスト12分間。佐村河内守を追ったドキュメンタリー映画『FAKE』公開!【森 達也×浅野いにお×木村綾子(前編)】

映画

2016/6/4


 実に15年ぶりの森達也監督作品となる『FAKE』が6月4日(土)より公開される。被写体となったのは、「ゴーストライター騒動」として世間を賑わせた佐村河内守氏。本作をもとに、かねてから森作品のファンだったと語るマンガ家・浅野いにおさんと、二人を繋いだ作家・木村綾子さんとの鼎談が開かれた。
 『チャンキ』『A3』などの活字作品にも触れながら、『FAKE』が生まれた理由のひとつである“今この国に対する違和感”について伺っていった――。

【プロフィール】
(写真右)森達也(もり・たつや)●1956年広島県呉市生まれ。映画監督、作家。ドキュメンタリーを中心に数々の作品を制作。98年オウム真理教の荒木浩を主人公とする映画『A』、2001年には続編『A2』を公開。著書に『放送禁止歌』『ドキュメンタリーは嘘をつく』『オカルト』『A3』『死刑のある国ニッポン』、近刊では初の長編小説作品『チャンキ』他。

(写真左)浅野いにお(あさの・いにお)●1980年生まれ、茨城県出身。マンガ家。2001年『宇宙からコンニチハ』で第1回GX新人賞に入賞。主な作品に『素晴らしい世界』『虹ヶ原ホログラフ』『おざなり君』、『うみべの女の子』『おやすみプンプン』他多数。『ソラニン』は宮﨑あおい主演で映画化された。現在はビックコミックスピリッツにて『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』連載中。

(写真中)木村綾子(きむら・あやこ)●1980年生まれ。作家、本屋B&Bスタッフ。「太宰治検定」企画運営。中央大学大学院にて太宰治を研究し、以降、文筆業をはじめとし、ブックディレクション、イベントプランニングなども幅広く行う。著書に『いまさら入門 太宰治』(講談社+α文庫)、『太宰治と歩く文学散歩』(角川書店)、『太宰治のお伽草紙』(源)など多数。『水道橋博士のメルマ旬報』『LaLaBegin』連載中。

 

感想を言うことさえ試される、視点と解釈が錯綜する『FAKE』

浅野 いままさに最終試写が終わって、まずは感想を言いたいんですが……。『FAKE』に出てくる人物や出来事の、どのポイントに焦点をあてて言語化すればいいのか混乱してるっていうのが、実は正直な気持ちなんです。

木村 映画の舞台になっているのは、ほとんど閉ざされた佐村河内家の一室で、出てくる人物も少ない。基本的には、佐村河内守さんと奥様、その二人のところにやってくるメディア関係者、というシンプルな構図なんですが……。観客という立場として、寄り添う視点が変わっていく。結果的にどこにポイントをあてるかによって、自分の世間へのまなざしが暴かれてしまう、試されているという怯えも感じました。

 どんな形でもメディアに関わっている人はとくにそういう感想を抱くかもしれない。さっきも会場の外にいたら、「あの、森さん、えっと映画……」と声をかけてくれた人がいたのだけど、その後、何を言えばいいのか自分で分からなくなってしまったのか、口ごもってしまう。考えたらこのパターンは多いです。

木村 あと、とても印象的だったのは……。手を叩いて爆笑、っていうのとは違うんですが、どうしようもなくこみ上げてきてしまう可笑しさ、のようなシーンがいくつもあって、会場に笑いが起きていたこと。でも、笑ってしまうと同時に、「あれ? なんで私はいま笑ったんだ? なにが可笑しかったんだ?」 っていう自問が生じて。笑ってしまった自分に対して急に客観的になって戸惑う、っていうような空気を、何度か感じました。

 笑いって生理反応なんだけど、同時に人のガードを下げるものでもあるから。完全に他人事と思って笑ってしまったわけじゃないと気づいたのちに、ボディブローのように効いてくるっていうのもあると思うんです。……どのシーンで笑いが起きたかっていうのは、気になるけれど。

浅野 今回の作品は、日本のメディアに対する反論というのをかなりわかりやすくやっていますよね。そもそも森さんってずっとそういう人だったと思うんだけど、ここまで真っ向から言うんだ、というのは感じました。

 そんなに明確でしたか。

浅野 はい。特に表れていたのは、日本のメディア関係者と外国人ジャーナリストが、それぞれに佐村河内さんに迫っていくシーン。非常に対照的だったんですよね。翻訳がかかるほど言葉が簡略化されてダイレクトな追求になっていくのは当然なんだけど、ものづくりにおける“怠慢”を暴かれて、ああして追い込まれていく姿っていうのは、同じものをつくっている人間として見てられなかったです。

木村 逆に言うと、人はいかに本音を隠すために言葉で装飾しているかを浮き彫りにしていたというか。言葉って凶器なんだよなあと。

浅野 佐村河内さんっていうのは、ここまで追いつめられて、生活まで激変するほどのことをしたんだろうか? っていうそもそもの問題にも立ち返っちゃいましたね。それでまず非常に興味を抱いたのは、こういう作品の被写体に、なぜ佐村河内さんを扱おうと思ったかということなんです。別に彼じゃなくても、話題にのぼる人はいたわけで。でもなぜ彼だったのか。

 ……えーとね、たまたま会っちゃったから。

木村 最初から興味があって、こういう作品をつくろうと思っていたわけじゃなかった。

 うん。二年前の夏にKADOKAWAの編集者から、「佐村河内守さんを本にしたいから一度会ってほしい」と熱心に誘われました。気乗りはしなかったけれど会って話してみて、……どのタイミングだったかなあ……、2時間くらい話をしている中で、「あなたを映画に撮りたい」と、僕からお願いしました。

浅野 作品になると確信が持てた、そのきっかけっていうのは何だったんですか?

 ひとことにしちゃえば、絵になるなあと思ったから。つまり彼を作品にするなら活字ではないと思ったんです。

木村 実際にこうした作品ができあがって、しかもタイトルが『FAKE』という。ここに込めた意図にも興味があります。

 意図はほとんどないです。撮影中はずっと『FAKE(仮)』だったんですけど、最後までこれに優るタイトルが思いつかなかったというだけ。そもそもタイトルって、内容を凝縮させるから嫌なんですよ。本当はタイトルなしが一番いいんだけれども、さすがにそうはゆかないから、毎回無理やりつけてるんです。

浅野 それは僕のマンガに対する感覚にも近いですね。やっぱり作品に触れた上で、それぞれに内容を受け取ってほしいわけで。

木村 今回の作品に関しては、ドキュメンタリー映画として敢えて『FAKE』と名乗ってはいるけれど、でも、フェイクが一体何を指しているのかは明確に示さず観た人に委ねる、という効果を生んでいますね。

浅野 そう。だからこそ他の人がこの映画をどう観たのかを知りたくなる。言うのも聞くのも、同時に怖くもあるんだけど。

マンガ家・浅野いにおが読む、森達也初の長編青春小説『チャンキ』

木村 『FAKE』の前作にあたる作品は、森さん初の長編小説『チャンキ』になりますよね。私が森さんと初めてゆっくりお話ししたのは、2015年の11月にB&Bで開催した『チャンキ』刊行記念イベントでした。その後すぐに、「あの森達也さんが小説を書いたから、読んでみて!」って、浅野くんに話したのを覚えてます。同世代で、森さんの作品について語り合える相手としてまず浮かんだのが、浅野くんだったんです。そしたら浅野くんも、森さんの作品のずっとファンだったと教えてくれて。

浅野 そもそも僕は活字を読む習慣がなくて、それは単になかなか読み進められないからなんですけど……。昔から、森さんの作品はどれもスルスル読めたんですよね。おそらくそれは、気にかけている部分が近いから、書かれていることに違和感なく読み進められているんだろうなと思うんですけど。

木村 「森さんの作品を通すと、自分の価値観の答え合わせができる」とも言っていたよね。

浅野 森さんの作品で最初に読んだのは『職業欄はエスパー』だったんです。そこに出てくる当事者と、周りの人の目に映るギャップってのが面白く読めたんですよ。結局僕は、個人の実像を置き去りにして、集団がある特定の人物を歪んで捉えてしまうことに興味がある。そういうものに巻き込まれると、抗えない感じ、飲み込まれるしかない感じが当然のように人間の感覚に備わってしまって、気づいたら順応している。そこに違和感や恐怖心があったんです。

 『チャンキ』はどうでしたか?

浅野 非常に読みやすかったです。青春小説っていう側面もあるんですけど、起こっている事象のほとんどが現実に起きてることに置き換えられる。だからイメージもしやすくて、完全な創作とは思えなかったんです。……これまでドキュメンタリー作家と認識されていた森さんが、なぜこうしたフィクションに手を出したのかが、だから気になりました。構想のようなものはずっとあったんですか?

 構想というか、自分以外のみんなが死んでいくという状況の中で、18歳の男子高生は何を思うんだろうというテーマを書いてみたいという思いはずっとありました。そういう部分では、浅野さんにはシンパシーというか、そういったものを感じていました。いま連載している……えっと、正しく言えるか自信がなくて申し訳ないんだけど。

木村 『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』ですね(笑)。

浅野 僕もフルで言ったことないんで大丈夫です(笑)。

木村 『チャンキ』の“タナトス”を、『デデデデ(略)』の“侵略者”に置き換えたら、とか、思春期を送る生活の中で常に死が身近にある設定とか……。2つの作品に共通する部分を浅野くんがどう読んだのかが、私は知りたかったんです。それに『チャンキ』は完結しているけど、『デデデデ』は連載中。その違いにも興味があって。

浅野 普段森さんはドキュメンタリー作家として、実際に生きている被写体を撮っていますよね。その場合、完結するポイントというのはある程度向こうからやってくると思うんですけど、創作物は自分でポイントを作らなくちゃいけない。つまりコントロールできてしまう。『チャンキ』を読んで僕がすごく興味を持ったのはそこですね。何を思って終わりと判断したのか。

 もともと『小説新潮』で連載していたものなので、最後どうするかはほとんど考えずに書いていたんです。でも規定の文字数をはるかに超えてしまったから、仕方なくエンディングを作った。……でもそれっていうのは、たぶんドキュメンタリーもそうですね。戦略的にプランしていた通りに完結したことは、ほとんどないですよ。

浅野 普通、創作物のストーリーってのは、流れがもっと明確というか。でも『チャンキ』は読んでると異様なライブ感があって。展開や全体のバランスがちょっとおかしいなとは感じました(笑)。

 伏線をうまく回収できてない個所がいくつかあって……。

浅野 でもそこが、おそらくこれが作者の意図的に、完璧につくられたものではないという印象を読者に与えるのにうまく作用していて。僕は読んでいて楽しかったんです。うまく出来過ぎているものってつまらないんですよ。作り手が物語をコントロールしているのが見え見えだと、癪に障るというか。

 そうかあ。

浅野 そういう意味で終わり方がすごくよかったです。実際に“タナトス”ってのが何なのかを一切回収せずに、可能性だけ示すだけ示して終わっていく感じが。それにこの物語に関しては、“タナトス”の実体は実のところ重要ではなくて、それに対してどう思うか、何を考えるかっていうのが大事なのであって。

 これまでも他のドキュメンタリーやノンフィクション作品を撮ったり書いたりしながら、最初に「これを追おう」と思ったことは途中からけっこうどうでもよくなってしまうことが多かった。真犯人は誰かとか真実は何かとか、どうでもよくなってしまうと言っちゃうと語弊があるけれど、それによって人や状況はどう変わったか、どう変わらなかったかということに興味が移ってしまう。周りからはやっぱり「最初の設定は守ってください」って言われてしまうんだけれども、それはジャーナリズム的観点からの正論であって、僕がやってるのはジャーナリズムじゃないから。

木村 フィクションという創作物に対しても、森さんが対象に向ける姿勢は一貫している、と。

浅野 書いてて楽しかったですか?

 うん。楽しかったですね。人がどんどん死んでいくのが。

浅野 森さんって、『チャンキ』のような状況が日本に訪れることを心のどっかで期待してる感覚があったりするのかなあ、とも感じました。こういう設定って、作家の期待の具現化だったりするから。

 ……あるかもしれない。

浅野 僕もそうなんですよね。結局こういう状況に惹かれてしまうから書いてしまうんだと思います。何かのきっかけで、今の世界が底を打って変わっていく期待というか。

木村 『チャンキ』の中でとても印象的な言葉があって、それは、「日本人はもっと自分たちに絶望したほうがいい。絶望が足りない。」っていうセリフなんです。それによってチャンキは世界への抗い方に気づいていくんですよね。だから私にはこの言葉が、悲観的には思えなかったんです。

 友部正人さんの歌(注※『6月の雨の夜、チルチルミチルは』)の中に、“知らないことでまんまるなのに、知ると欠けてしまうものがある”っていう歌詞があるんです。……たしかにそうですね。でも、欠けてダメかって言うと、僕はどんどん欠けていいと思うんです。たくさん欠ければそれは新しい形になるし、知らないままのまんまるよりも、知って欠けたほうがいいと思う。一時的には不幸だけど、知らないまま幸せに死にたくない。

浅野 ……これは余談になるかもしれないんですけど。途中のエピソードで、チャンキが「カメ地区」に行った後、孤立していきますよね? そこで友達たちが、チャンキの残したラーメンを食べるんです。あそこがすごく感動しました。

 そこを評価してくれたのは嬉しい。

浅野 友達の心境もすごく想像できたんですよ。ここでこう行動しないと、友達と言えないじゃないかというちょっと無理した決意。

木村 マンガ家として、コマのイメージが浮かんだ?

浅野 うん。ああいうシーンこそ大切に描きたい部分だと感じた。

取材・文=木村綾子 写真=野村佐紀子

後編へ続く】視点を変えれば、ぜんぜん違うものが見えてくる