“植物人間”の母から、愛を受けとった私の26年間。現役医師が描く親子の絆【書評】

文芸・カルチャー

更新日:2023/7/21

植物少女
植物少女』(朝比奈秋/朝日新聞出版)

 第36回三島由紀夫賞を受賞した朝比奈秋『植物少女』(朝日新聞出版)は、植物状態に陥った母と、その娘の四半世紀の物語である。主人公の「わたし」(=美桜)の母は、彼女を産んだ日に植物状態となってしまう。美桜を出産したときに発症した脳出血により、大脳のほとんどが壊死。生きるための機能だけが残った、いわゆる植物状態となる。だが、本書が突出しているのは、悲壮な難病ものや痛ましい闘病記とは決定的に異なるところだ。

 美桜にとって母のいる病院は、幼い頃から通い続けてきた遊び場のようなもの。やんちゃで手のつけられない美桜は、母をつねったり、勝手に髪を染めたり、ピアスの穴をあけたり、母の母乳を飲んだりと、もう好き勝手し放題。シリアスな題材の割に牧歌的な雰囲気があるのは、美桜の語り口が軽やかだからだ。筆者の周りにも、こういういたずら好きの親戚の子供っていたなあと、微笑んでしまったほどだ。

 母と娘の関係は完全に一方通行というわけではない。例えば、病床の上で常に〈首を左に捻ってそっぽを向いた〉状態にある母の体は動かないが、食事の時は例外である。美桜は、食べ物を載せたスプーンを母の口に入れようとする。母がそれを咀嚼すると〈まるでタイミングがわかったようにゴクッと飲みくだし〉〈唇をもごもごと動かして催促しだす〉のだ。

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 母は、首は捻れて目には黒目が見えず、表情もなく声を発することもない。美桜を抱きしめることもできない。ただただ、息をして生きているだけだ。だが、読んでいてふと気づく。息をしているだけで、美桜はもう十分に母から愛を受け取っているのだと。翻って、筆者は、友人や家族や恋人らと、言葉を使ってやりとりできるありがたさをあらためて嚙み締めた。

 母親のしつけを受けずに育ってきた美桜が、病室の他の患者や看護師らと関わり成長していく姿も描かれる。美桜は成長していくうちに、無邪気で無垢な子供ではいられなくもなることがある。だが、その葛藤も含めて、本書は逞しく生きる美桜の成長譚でもある。乳児だった美桜は心身ともに大人への階段を上ってゆくのだ。

 美桜の父と祖母の苦悩と煩悶、母の担当看護師たちとの温かい交流も、淡々と描かれる。息をしているだけの存在ながら、間違いなく生きていること、人間としてそこに在ることの尊さを、美桜は母のそばで学んだのではないか。抑制された筆致であるがゆえに、母の死に立ち会った者たちの喪失感がよけいに胸に沁みる。

 著者の朝比奈氏は現役の医師。デビュー作『私の盲端』(朝日新聞出版)で大腸癌のせいで人工肛門となった女子大生の姿を描出した。また、最新刊『あなたの燃える左手で』(河出書房新社)は、男性がハンガリーの病院で手の移植手術を受けるが、麻酔から覚めると、繋がっていたのは見知らぬ白人の手だった、という話だ。

 なるほど、朝比奈氏の著作は、現役の医師だからこそ書けた部分はある。実体験が反映されているのだろう、病院内のディティールの形容はさすがで、リアルな描写が目立っている。そして、多くの読者がそこに言及する。確かに、朝比奈氏が医師であることが、小説を書く上でプラスに働いたのは間違いない。ただ当然だが、医師であれば、誰でも朝比奈氏のような小説が書けるわけではない。物語のとっかかりが病院や医師だったとしても、人間を描く、という意味で彼は他の小説家と出発点は変わらないはずだ。親子関係や病院内での生死を通じて、人間の奥深さやままならなさ、業の深さを描く、朝比奈氏はそんな作家だと思う。

文=土佐有明

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