愛犬の死が近づいている――中年男性と老犬の静かで愛に溢れた一日。“生きる”とは何かを見つめ直すオランダのベストセラー小説【書評】

文芸・カルチャー

公開日:2023/8/9

ある犬の飼い主の一日
ある犬の飼い主の一日』(サンダー・コラールト:著、長山さき:訳/新潮社)

“心臓が鼓動している––ヘンク・ファン・ドールンは目を覚ましてそう思う”

 こうして始まる『ある犬の飼い主の一日』(サンダー・コラールト:著、長山さき:訳/新潮社)は、オランダを舞台にひとりの中年の男が朝に目を覚まし眠りにつくまでの一日を描いた、とてもシンプルな物語だ。主人公のヘンクは集中治療室看護師の56歳。ならず者という意味のスフルクという名の老犬と暮らす独身の中年である。彼にとっての何気ない一日の始まりは、スフルクの異変によって、人生の大きな転換点となっていく。

 物語にはヘンクとスフルクのほか、弟のフレーク、その娘である14歳になる姪のローザ、浮気が原因で別れた元妻のリディア、そしてスフルクの散歩中に出会った女性ミアといった人々が登場する。彼らとの関わりの中で紡がれる思慮深く思索に富んだヘンクの言葉は教養とユーモアにあふれるが、どこか拒絶と諦めといった感情が含まれている。それは集中治療室看護師であるヘンクにとって、死というものが身近であるゆえの人生観から来るものなのだろう。しかし、そうしたヘンクの諦観は愛犬スフルクの病気によって覆される。この日、“死”が近いうちに愛犬に訪れるとヘンクは知る。スフルクと共に生きる時間が有限であると気付き、また、彼自身にとって生とはどういうことかに思いを巡らす一日へと変わっていくのである。

 かといって本書はもの悲しく暗い物語ではない。何事にも考えを巡らし、結果ポジティブなほうへと転がるヘンクの行動は読者の心までをも前向きにさせてくれる。また56歳という人生を折り返したヘンクの存在が、“生”と“死”を淡いグラデーションのようにしているのが印象的だ。彼の片方には“生”の象徴である14歳の姪ローザが存在し、もう片方には“死”の象徴としてのスフルクがいることで、生と死の真ん中に立つヘンクの存在が際立ってくる。ローザは恋人との悩みをヘンクに相談し、ヘンクもまた自分の思いをローザに打ち明ける。また会話こそないものの、ヘンクとスフルクとの交感は静謐ながら慈愛に満ちている。こうした生と死の象徴である両者の中間に位置するヘンクが結末で見出す“生きる”ことの意味は、清々しいほどとても人間的なのだ。

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 犬を飼うということは、飼い主にとても大きな意味を与えてくれるものである。その意味とは、犬がそばにいる、ただそれだけである。犬がそばにいてくれることで、飼い主の人生を豊かな色に染めてくれる。本書では彼とスフルクとの交感が控えめに描かれるが、一度でも犬を飼ったことのある読者ならば犬の細かなしぐさに関心をもつヘンクから、スフルクという老犬がいかに大切な存在であったかがとても強く伝わってくるだろう。

 また『ある犬の飼い主の一日』は中年男の一日を描くという、とてもシンプルな物語であるものの、ある出来事を二人の人物の視点から描いたり、するりと人物の視点が変わっていたりと、その語り口は独特で、そうした構成も含めてとても印象深い小説である。

文=すずきたけし

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