「生きてるってコスパ悪くない?」自殺の名所として観光地化しようと目論む町おこしコンサルタントに自殺小説を依頼されて……

文芸・カルチャー

更新日:2023/9/13

ウェルテルタウンでやすらかに
ウェルテルタウンでやすらかに』(西尾維新/講談社)

 多作で知られる作家・西尾維新氏の作品で、筆者が最も愛読したのが『少女不十分』(講談社)だ。そして、新刊『ウェルテルタウンでやすらかに』(講談社)は、同作に限りなく近い感触がある。ライトノベルやミステリをまたぐ作風で知られ、多くの小説がアニメ化されている西尾氏だが、またひとつ、金字塔を打ち立てた。そう断言して構わないだろう。

 主人公は自殺小説の大家と言われる作家・言祝寿長(ことほぎ・ことなが)。彼のもとへ、寂れゆく安楽市(あんらくし)の町おこしのために小説を書いてほしい、という依頼が舞い込む。依頼主は、町おこしコンサルタントを名乗る生前没後郎(いくまえ・ぼつごろう)。見るからに怪しげな彼が、途轍もなくうさんくさい話を持ち出すのだ。

 彼は、言祝が書く自殺小説の舞台を聖地巡礼してもらうことで、安楽市を「自殺の名所」として観光地化しようという。当然断ると思いきや、言祝は依頼を引き受ける。彼にはそうせざるを得ない事情があった。言祝は中学生の頃まで同市に住んでおり、ある事情によって、家族ごと夜逃げしなければならなかったのだ。

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 言祝には、はかりごとがあった。あえて依頼を引き受け、内側からこのうろんな構想を阻止しようというものだ。生前の説明によると、自殺の方法は幾つかあり、観光客は好きなものを選んでいい。市庁舎からの飛び降り。河川での入水。森林公園の樹海を運用する首つり。銭湯と連動したリストカット。市民病院と提携しての服毒、等々。

 設定は毒々しく血なまぐさいが、西尾氏らしいテンポの良い会話が続くため、決して重い話には感じられない。むしろ、言祝や生前らのやりとりは、小気味よく爽快ですらある。また、02年の「戯言シリーズ」から続く、エキセントリックで型破りなキャラの造形もさすがに慣れている。茶目っ気溢れるネーミング・センスも不変で、それでこそ西尾維新!と何度も快哉を叫びたくなった。

 登場人物について触れよう。言祝が街唯一の宿泊施設である民宿ピラミッドに着くと、支配人を名乗る喪中ミーラ(もなか・みーら)が待ち受けている。彼女の作る料理は舌がとろけそうなほど美味で、言祝は夢中で食事をたいらげる。喪中の料理の腕前についての記述は、実は最後の最後に活きてくる。ここではまだフラグが立った状態である。

 同じ宿に泊まっているのが、ネットで絶大な人気を誇るボクっ子、餓飢童きせき(がきどう・きせき)。動画サイトの世界では超がつく人気者であり、イメージとしてはYouTubeやニコニコ動画に君臨するヒロイン、といったところか。言祝は彼女から、ボクが自殺するそれっぽい理由を創作してほしいと、またもや依頼を受ける。彼女は、ここで死ねばファンが後追いしてくれるだろうと話す。そうした自殺の連鎖はウェルテル効果と呼ばれており、ウェルテルタウンの呼称もここからきている。

 彼女はあっけらかんと〈生きてるってコスパ悪くない?〉とのたまう。自殺肯定論者の彼女は、なんで死んじゃいけないの?と執拗に言祝に訴え続ける。言祝はその場では彼女の勢いに気圧されてしまう。悲しいかな彼女の主張は正論である、と。

 そんな彼女の自死をくいとめるのに、言祝の中学生の元カノである管針物子(くだはり・ぶっこ)が妙案を提示する。管針が死なない(というか死ねない)のは、推しの舞台の最前列のチケットが当たったから。つまり、推しを見つけてなんらかの沼に沈めてしまえばいい、という魂胆だ。

 筆者も覚えがある。希死念慮に苛まれながらも、一体何度エンタメやサブカルチャーに救われてきたことか。好きな漫画の次回が楽しみだから死ねない。深夜アニメのシーズン2が始まるから死ねない。著者である西尾氏も小説で多くの人を救ってきたはずだ。この主張を餓飢童がどう受け止めたのかは、作品を手にとって見てほしい。これが本書の隠しテーマだからだ。

 それにしても昨今、「推し」という概念の一般化/普及を実感する。ゲームやアニメのキャラ等はもちろん、片思いの相手も推し、学校の先生も推し、ホストクラブのホストも推し、ハンバーグに添えられたポテト推し……。『推し、燃ゆ』という(推しが炎上する)小説が芥川賞を獲ったのも記憶に新しい。推しは際限なく増殖し、拡張し、自殺など忘れさせてしまう。餓飢童を思いとどまらせる説得材料として、これは最適解だと思う。

 その後、いかさまコンサルタントの生前は忽然と姿を消し、彼を招いた市長は逃亡したままである。終盤、物語のトーンが変わる。ハッピーエンドかどうかは答えづらいが、町は変わった。予想していなかった形で急速に変わるのだ。

 なお、本書は紙の書籍よりも先に、朗読から成るオーディオブックという形で企画、販売された。西尾氏は、その点はなるべく意識せずに執筆したそうだが、オーディオブックだったからこそ、〈小説という表現ジャンルの不思議さと真摯に向き合って書けるような感覚がありましたね〉と語っている。当然、書籍とオーディオブックを比べながら西尾氏を「推す」のもありだ。西尾氏の小説の読者のひとりとして、筆者が死ねない/死なない理由のひとつは、彼の新作を味読したいからである。

文=土佐有明

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