「LGBTQ」の「Q」って何?対話形式で性と身体を学ぶ1冊

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公開日:2023/9/28

慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話
慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』(森山至貴、能町みね子/朝日出版社)

 LGBTQの最後の「Q」は「Queer(クィア)」もしくは「Questioning(クエスチョニング)」の頭文字で、クエスチョニングは「自分の性別や性的指向を探している状態の人」を指すらしい。

 ……という段階まで、何となくの知識を持っている人は日本でも増えているだろう。

 ただ、「じゃあ『クィア』って何なのか?」と聞かれたら、一言で説明できる人はほとんどいないはずだ。

 教科書的な解答としては「性的少数者全般を指す言葉」「規範的ではないとされる性のあり方を包括的にあらわす言葉」といった説明がされるが、何かピンとこない……。

 筆者もそんな状態の1人で、そのモヤモヤを解消できるかと思って読んでみたのが『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』(森山至貴、能町みね子/朝日出版社)だった。

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 300ページを超える対談形式のこの書籍では、「クィアとは何か」「クィアな発想とは何か」「クィア・スタディーズという学問とは何か」について、さまざまな解答がなされている。

 いくつかを列挙すると以下のようなものだ。

・クィアとは「壮大なその他」である。
・クィアとは「一緒くたにしない」考え方である。
・クィアとは「みんな」から取りこぼされるものに向き合おうとするときに、そこに出てくるスローガンである
・クィアとは「『みんな』でいられない、『みんな』でいたくない『みんな』のためのもの」である
・クィア・スタディーズは、今の世の中で支配的な「異性愛中心主義」※を正すことを目指している
※異性愛者のほうが同性愛者よりも「上」で「正しい」とするような基準を持ち、異性愛者以外を「逸脱」とするような考え方

 これは筆者が読んでいて、非常に腑に落ちた言葉を抜粋したものだが、こうした定義だけを覚えても「自分はクィアについて理解できた」とはならないだろう。

「何かのカテゴリーや言葉の箱に、人を分類して“わかった気”になる」というのは、この本で語られるクィアの発想からは正反対のものだからだ。

 クィア・スタディーズを専門とする研究者(森山さん)とエッセイスト(能町さん)の2人の「理論」や「体験」を土台にした対話をじっくり読むことで、薄ぼんやりと「クィア」という言葉の指すものが見えてくる。

 そして「性別」「恋愛」「結婚」「家族」「幸福」といったトピックについて、自分が「普通」だと思っていたことや、そもそも前提を疑って考えてもみなかったことについて、深く考えることができる。

『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ――性と身体をめぐるクィアな対話』はそんな本なのだ。

「わかった」「受け入れた」というマジョリティの傲慢さ

 本書で特に面白いと感じた部分は、こうしたテーマを学んだ人が使ってしまいがちな「わかった」「理解した」「受け入れた」といった言葉の傲慢さだ。

 能町さんは本書で「自分の気持ちはそもそも『わかってくれ』でもないんです。知識としてとりあえず『知ってくれ』ですね」「『受け入れる』なんてことは前提も前提。だって、いるんだから」と書いている。

 それを受けて森山さんは「『受け入れる』とか『わかる』はこっち側が媚びを売ることとしばしば組み合わさっていて、『下手に出るので受け入れてください』って感じが嫌なんです」「だから『慣れろや』がちょうどいいのかなって」と書いている。

 こうした著者たちの言葉は、「自分は性的マイノリティについて多少の理解はあるほうだ」という自負のある人こそ、ドキッとさせられるものだろう。

 自分たちを認めない、受け入れないなんて態度は論外だと強く言い切る。マジョリティ側が傲慢な態度を見せたら、躊躇せず反論する。そして、「別にあんたたちにはもう合わせませんから」といった強気の姿勢を崩さない……。

 この好戦的な態度もクィアの要素の一つだそうだが、その態度の裏には「だって、おかしいのは自分じゃなくて、今の世の中のほうだから」という確固たる自信と強さが感じられる。その凛とした姿勢は、素朴な感想で申し訳ないが非常にカッコいいものだと感じられた。

 なお森山さんは本書で「当人の代わりに大事なことを言うために学問があるんじゃないか」とも書いていた。本書の読者が「クィアとは何か」を考え、その知識を得ることは、「『みんな』でいられない、『みんな』でいたくない『みんな』」がより生きやすい世の中を作っていく大きな力となるはずだ。

文=古澤誠一郎

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