筒井康隆の最後の短編集は「誤変換」だらけ? 意味のない文章によって高められた「物語性への飢餓感」の先にある快楽

文芸・カルチャー

更新日:2023/11/22

ジャックポット
ジャックポット』(筒井康隆/新潮社)

 スロットマシーンなどには「ジャックポット」と呼ばれる大当たりがあり、それまでの敗者たちの掛け金が累積されており、ギャンブルの聖地、ラスベガスのカジノのスロットマシーンにおいては、うまくジャックポットを引き当てれば1億円を超える当たりが出るらしい。

 そんな快楽物質・エンドルフィンが脳内で激しく垂れ流されるような「大当たり」の光景を、筒井康隆は、2020年に見舞われた「コロナ」や「息子の死」と重ねて『ジャックポット』(新潮社)という最後の短編小説集で表現している。

 ただし、この短編小説集を終始読書の快楽に浸らせてくれるような作品だと思っていると、手痛いしっぺ返しを受けることになるだろう。この小説集はあまりに実験的過ぎる私小説集だからだ。物語としての流れよりも、語感、言葉のリズム、言葉遊び、ダジャレ、誤変換ともとれる同音異義語の濫用にまみれている。起承転結のある物語を想像して手に取った読者は、困惑し、ある場合には怒りさえ覚えてしまうかもしれない。実際、文章の頭と尻が逆転するページがあるのだが、この読みづらさには苛立ちが湧き起こるだろう。

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“か便配宅てしば飛をンーロドに雲闇。っぇち”

 本書は、物語の流れは一旦頭からすっぽり抜き出して傍にでも置いておき、リズム重視、語感重視、体全体で読み進めていくのが良さそうだ。

“今日は土曜日か。いや欠曜日。明日は家曜日か。いや睡曜日。”

“しあわせなら手を鳴らそう。ばきっ、べきっ。しあわせなら足ならそう。ぼきっ、ばきっ。自分の手足をへし折ってどうするんですか。死にたい老人百万人。死にたくない老人百万人。”

 意味はないのだが、語感が心地よい。

“昔からアメリカは銃社会だった。何人死んだことか。全米ライフル協会は人口調節機関か。なんだとテロを防ぐためだと。同時多発テロは銃で防げたかい。”

 と、突然「銃」に関する記述が始まることもあるが、やはりリズムが実に良い。それでも「銃」を捨てないアメリカ人を揶揄した後に、「ボウリング・フォー・コロンバイン」という高校生銃乱射事件を扱ったドキュメンタリーで銃規制を訴えたマイケル・ムーアを皮肉って、「マイケル・ムーアの敗北」と短文を差し込んでいる。

 この「多くは説明しないが、分かる人にだけ分かる」という不親切なスタイルも、ひとつの特徴だ。もっと教養があれば、さらに面白く読めるかもしれないのに、というもどかしさが読者を見舞う。「意味の分からない文章」と思うことが、そもそも読者としての敗北なのかもしれない。

超実験的で難解な短編の最後に差し込まれる「大当たり」に脳汁が止まらない

 この短編集の作りそのものにも、ジャックポット的要素=エンドルフィンの放出が仕組まれているのではないかと、僕は思う。読者に蓄積された苦しみ、苛立ちの経験は、その後の快楽を強める。つまり、語感やリズムを重視した冒頭の短編から積もっていた「物語性への飢餓感」ともいえるものが最高潮に高まった際に訪れる、最後の短編「川のほとり」が、まさにジャックポットともいえるのだ。

「川のほとり」は、筒井康隆自身が、51歳で亡くなった画家だった息子と三途の川の傍で出会う様子が描かれている。三途の川のほとりで行われる息子とのやりとりには、亡くなった息子への思いが滲み出ている。

 そういえばと振り返ると、筒井康隆の作品の中には、画家をやっている、あるいは絵を描いている人間が多く登場することを思い出す。作家人生の傍には、いつも息子がいたのだと想像される。それを「大当たり」とも言える、最後にもってきた構成が良い。

 本書は、筒井康隆自身の視点から描かれた私小説的な作りになっている。最後の短編「川のほとり」は、実際に見た夢ではないらしいが、筒井康隆の息子への思いが露見している。彼の奇想天外な作家人生を振り返るには、本書はとても重要な意味をもっているといえるだろう。ひょっとすると、筒井康隆をもっと知りたいと思う読者にとって、本書は「ジャックポット=大当たり」と呼ぶにふさわしい作品なのではないだろうか。

文=奥井雄義

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