生誕100年安部公房『箱男』ってどんな話? 永瀬正敏・浅野忠信・佐藤浩市らで映画化予定の実験作

文芸・カルチャー

公開日:2024/4/8

箱男(新潮文庫)
箱男(新潮文庫)』(安部公房/新潮社)

 2024年は小説家・安部公房生誕100周年。本記事でご紹介するのは、同氏の著作の中でも実験的なことで知られる1973年の作品『箱男(新潮文庫)』(安部公房/新潮社)です。永瀬正敏・浅野忠信・佐藤浩市などが出演する映画版も2024年に公開予定で、2月のベルリン映画祭でプレミア上映がおこなわれたニュースは話題となりました。まずは簡単にあらすじをご紹介します。

 社会とのつながりを絶ち、ダンボール箱をかぶって町をさまよいながら生きる「箱男」は、ダンボールにあけられた小窓から世の中を見つめる。全国にはかなりの数の「箱男」がいるといわれているが、そのうちの一人である「ぼく」は、看護師の女性から箱を売ってほしいと尋ねられる。抵抗感を覚えつつ「ぼく」が彼女の病院を訪ねると、「贋の箱男」である医師と出会う…

 本書を詠み進める上で厄介だけれどもある意味ユニークな点は「物語が誰によって書かれているか」というのが撹乱される感覚にあります。物語の最初は「ぼく」が腰のあたりまで丈のあるダンボールをすっぽりかぶりながら、「箱男が、箱の中で、箱男の記録をつけている」という状態でスタートするのですが、途中で書き手や描写の対象がどんどん変わっていきます。

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 主観描写が客観描写になったり、箱が全く関係ない話が入ってきたり、書き手が「本当のこと」を語らなかったり混沌とした構成での展開に、どんな読者でもおそらく一度は「ん?」とページをめくる手を止めてしまうのではないかと思います。同氏の著作の中でも「難解」と評されるのも納得です。

 しかし、そこで諦めてしまうのはもったいないので、読む上でいくつかの指針をお伝えできればと思います。まず、タイトルの解釈についてです。英語のタイトルは“The Box Man”で「その(一人の)箱男」と訳すことができるのですが、「箱男と呼ばれる複数の人物の集合体」が主人公(箱男)なのだと考えると、混乱が少なくなると思います。

 ですがそもそも、なぜ読者側がわざわざそんな心構えまでして読み進めなければいけないのかと、疑問に思う方もいらっしゃるでしょう。そこも補足できればと思います。

 本書の冒頭で「あなたも箱男を見たことがあるはずだ」と、やや煽り口調で語り手は読者に問いかけます。

君だって、目撃したことくらいはあるに違いない。しかしそれを認めたくない気持ちも同じくらいよく分る。見て見ぬふりは、なにも君だけとは限らないのだ。べつに底意がなくても、本能的に眼をそむけたくなるものらしい。

 つまり、ここが読み手を選ぶ(がゆえに読むと深い地点に到達できる)点だと思うのですが、「箱男」という「人物」のことを指すだけではなく、私たち読者の心の奥底(箱でいうならば底面の四隅のような場所)にこびりついた「偏見・固定観念」のことも同時に指しているということです。

「みんなこう思っている(し、自分もそう思う)」。逆に、「みんなはこう思っている(けど、自分はこう思う)」。本書が書かれた1970年代にも、メディアの発信する情報の氾濫によってそのような混乱が生じていた背景があります。しかし、現代社会のほうがよりそうした状況が、「混乱」を通り越して当たり前となり、個々人の「偏見・固定観念」に自覚的になりやすいため、本作の難解さというのは軽減しているように思えます。

馴れてしまえば、どこにいようと、時間は箱男を中心に、同心円を描いてまわりはじめるのだ。遠景は速く過ぎ去るのだが、近景は遅々として進まず、中心では完全に静止してしまっているので、全く退屈するということがないのである。箱の中で退屈するようではいずれ贋物にきまっている。
そこで、考えてみてほしいのだ。いったい誰が、箱男ではなかったのか。誰が、箱男になりそこなったのか。

 言いたいことを好きなときに投げ放てるネット空間は、社会が分裂しているように人々に感じさせることも多い。しかし、箱の中に放り込まれるように、ありとあらゆるノイズから個人が引き剥がされたら、個人に一体何が残るのか? そんなふうに安部公房が時代を超えて訴えかけているように思える、このタイミングで映画化されたのも納得の一冊です。

文=神保慶政

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