「作品を生かすか殺すかは、翻訳の出来が左右する」 藤井光編『Next creator book 文芸翻訳入門―言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち』

文芸・カルチャー

2017/7/13

『Next creator book 文芸翻訳入門―言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち』(藤井光:編/フィルムアート社)

昔から英語や外国語はからっきしだが、私は海外文学が好きだ。海外文学には、よく巻末に訳者あとがきが収録されている。学生時代、私が特に気に入っている作家の翻訳書で、次のような一文を見つけ、衝撃を受けた。

「(翻訳者自身の)英語の読解力は、きわめて貧しい」と。さらに日本語訳の仕事を引き受けた理由は、自分の文体を新しくするのに有効だと考えたから、とあった。

え、そういうノリでいいの? でもその翻訳者の文は、どうも好きになれない……。そのとき初めて、私は翻訳者というポジションの重大さを知った。元が同一の作品でも、翻訳者によって文体や全体のトーン、ときには原文の解釈の仕方が違うということも。

そんな翻訳書の魅力や、難しさ・楽しさについて語っているのが、『Next creator book 文芸翻訳入門―言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち』(藤井光:編/フィルムアート社)。本書は、基本的に翻訳者を目指す人向けに書かれている。しかし、翻訳者の苦悩や工夫、喜びについて知っていると、読者目線でも翻訳書の行間を読む楽しみが広がるだろう。

個人的に興味深かったのは、「翻訳授業の現場から」という章。ここでは、翻訳の講義さながらに英語の例文が提示され、それに対する学生の翻訳文を紹介したあと、著者が解説を加えていく。ちなみに、著者である藤井光氏は、同志社大学文学部英文学科の准教授。だからなのか、この章は一貫して学生たちに語りかける形式で、テンポよく読み進めることができる。

本書の中で度々持ち上がるのが、翻訳は「どこまでやればいいのか」問題。著者は翻訳者としても活躍している人物であり、翻訳という作業について、以下のように語っている箇所がある。

言葉は変わるものであって翻訳はそれとともに更新されていくのも自然なことだとは言えるだろう。ただし、言葉を扱う者にとって厄介なのは、古きよきものを守るべき場合もあり、新しいものを意欲的に取り入れたとしても、すぐに廃れてしまうような流行語や若者言葉をあまり安易に取り込むと、新訳の賞味期限を短いものにしてしまうという危険があるということだ。

つまり「現代の日本語にあわせてどのくらい新しくするのか」と、「原文の文脈に忠実に寄りそう」という方向性のバランスをどうするか。語順の変更や文体の選択など、翻訳者の裁量ひとつで原文の雰囲気はガラッと変わってしまう。

たとえば「When I was little, I was afraid of the dark.」という例文。素直に訳せば「小さい頃、わたしは暗闇がこわかった」だが、元の例文は口語と文語のどちらでも使える。だから「子供の時分、わたしは暗がりを恐ろしいものだと思った」や「子供のころはですね、ぼくは暗いところがどうにも駄目だったんですよ」でも問題はない。

しかし、「幼少の砌、己は闇といふものにたいして甚だしく怯懦であった」のような逸脱はNG。原文はここまで古風な言いまわしではないからだ。

どう訳せばよいかは、原文に指示が書いてあると著者は語る。要するに、小説の文として古ければ古く、実験的であれば実験的に訳せばよい。ただし、そこの判断は詰まる所、翻訳者が原語の小説の文体にどれほど知見を持っているかにかかっている。

巻末での著者の言葉どおり「作品を生かすか殺すかは、翻訳の出来が左右する」のだ。海外の作品に詰まった優れた表現を、日本語として送り出すことの喜びと責任が、翻訳者にはある。素晴らしい翻訳書に出合ったら、原作者とともに翻訳者にも注目してみるのはどうだろうか。新しい発見や、それまでとは異なる解釈がきっと見つかるはずだ。

文=上原純(Office Ti+)