新たな世界遺産、「神が宿る島」沖ノ島――。神様はなぜそこに祀られることになったのか?

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公開日:2017/9/16

『史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説』(宗像善樹/右文書院)

 平成29年夏――日本に新たな世界遺産が誕生した。「神が宿る島」とも言われる“沖ノ島”である。世界遺産と聞くと「すごい」と思う人も多いだろうが、では沖ノ島について、あなたはどの程度ご存じだろうか。まずは基本的な情報として、沖ノ島を含む宗像大社では宗像三女神を信仰しているということは押さえておきたい。世界遺産登録を機に大々的に名の知れた沖ノ島――折角の機会だから、この島についての造詣を深めてみてはいかがだろう。『史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説』(宗像善樹/右文書院)では、この沖ノ島に伝わる信仰の歴史や文化を追求している。

 沖ノ島を含む宗像大社に祀られているのは、宗像三女神と称される3柱の女神だ。この宗像三女神は、それぞれ田心姫神(たごりひめのかみ)・湍津姫神(たぎつひめのかみ)・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)と呼ばれ、またこの3柱は天照大神の御子神でもある。この3柱のうち、長女神である田心姫神が沖ノ島の沖津宮に祀られる神だ。ちなみに、この宗像三女神の姉妹順は史料によって若干の差異があるが、ここでは日本書紀に倣っている。この宗像三女神がなぜ今の宗像大社に祀られるようになったかというと、神話上では以下の神勅が下ったためとされている。

天照大神は三女神を筑紫国に降す際にして、「汝三神宜しく道中に降居して、を助け奉り、天孫に祭かれよ」

 尚、この神勅は現代語に訳すと以下のような意味になる。

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「三女神は道中に降臨し、海域の守護神となって天孫のまつりごとを助け、また天孫の祭祀を受けられよ」

 こうして地上に降臨した三女神は、現在それぞれ田心姫神は沖ノ島の沖津宮に、湍津姫命は大島の中津宮に、市杵島姫神は宗像市田島の辺津宮に祀られている。ちなみに、これらの宮の社殿には「奉助天孫而為天孫所祭」と書かれた扁額があり、先述した「天孫を助け奉り、天孫に祭かれよ」という天照大神の神勅によって三女神がこの血に降臨したことが示されている。

 宗像三女神を祀る三の宮のうち、特に田心姫神を祀る沖津宮ひいては沖ノ島は最も神聖な島であるとされ、島全体がご神体であるとみなされていたことから上陸の際はみそぎをしなければならないという掟もあった程だ。ちなみに、沖ノ島に関する掟は他にも「お言わず様」という島の中のことを誰にも語ってはならない掟や、島にあるものは小枝・草から小石のひとつに至るまで何も持ち出してはならないという掟もある。

 元々宗像三女神は、大陸及び古代朝鮮半島への海上交通を守護する玄界灘の神として、筑紫国の海人族(宗像氏)に信仰されていた、つまり地方神であった。それが、神功皇后の三韓(馬韓、辰韓、弁韓)征伐成功や遣隋使・遣唐使の派遣に代表される朝鮮半島との交流が緊密化した影響により、宗像三女神は国家神として朝廷に祀られるようになったとされている。これが5世紀以降の話である。元は地方神…つまり特定の地域でのみ信仰を集めていた神である宗像三女神が国家神に転じた背景には、当時の人間達の外交が恙なく行われることへの願いがあったことだろう。そして、それが遥か時を超えて現代に至り、その存在が全世界に認知されたこと…つまり、またも日本の外交の一助になってくれたことを考えると、3柱の女神は今尚宗像大社に坐して日本を見守ってくれているのかもしれない。

 最後に、先にも名前が出た宗像氏という一族について少し触れよう。この宗像氏は古代筑紫国に存在した豪族だ。この宗像氏は沖ノ島も勢力下に置いており、優れた航海技術によって日本と大陸の交易・交通において重要な役割を担い、また宗像大社の祭祀をも務めていた。尚、“ムナカタ”の苗字は現代にもちらほら見受けられるが、このムナカタさんの先祖は一説にはここで取り上げた宗像氏であるという。宗像氏は南北朝時代の動乱によって一族離散し、各地に散っていった。その子孫が今のムナカタさんなのだとか。本書では、宗像氏の古代から戦国時代までの総覧も掲載されているため、宗像大社の祭祀に深くかかわった一族の顛末を覗ってみるのもいいかもしれない。

文=柚兎