「変わらない店によって、いつもの自分が今日も肯定される」鋭い言葉にドキリとする片岡義男の珈琲エッセイ本

暮らし

2018/1/18

そのとき僕に閃いたのは、珈琲そのものについてではなく、それ以外の珈琲についてなら、僕にも書けることはあるのではないか、ということだった。

『珈琲が呼ぶ』(光文社)のあとがきで片岡義男氏はそう書いている。350ページを超えるこの本には、全45篇の書き下ろしエッセイが収録されているが、先の言葉通り「珈琲そのもの」について書かれた本ではない。喫茶店のガイドでもない。

 では何が書かれているのか。

 たとえば冒頭に収録されている「『コーヒーでいいや』と言う人がいる」は、珈琲の注文の仕方についてのエッセイだ。片岡氏は「コーヒーがいい」と「コーヒーでいい」の違いを考える。そして、それを選んで特定した…という意味合いの強い「が」に対し、「で」は汎用的な広がりを持っており、「コーヒーでいいや、と言うときのコーヒーは日常そのものなのだ」と書く。日系3世として英語と親しみながら育ち、日本語・英語に関する評論も多い彼ならではの珈琲のエッセイだ。

「喫茶店のコーヒーについて語るとき、大事なのは椅子だ」では、京都の喫茶店「静香」の椅子について、肘掛け、座面、背もたれ、脚と、部分部分を綿密に描写。それが工夫された椅子であり、時間の経過の中で修理の必要が出てくること、店主が椅子を1脚ずつ修理に出しており、それにより店の雰囲気が「いつまでも変わらない」と思える状態が維持されていること等々を書き連ねていくのだが、その先の文章にドキッとする。

いきつけの喫茶店がいつもとおなじである、なんら変わっていない、とはどのような意味のことなのか。この店は今日もいつもとおなじだ、と客が感じる。客もまた変わりたくないのだろう。いつものままに自分は続いている、あるいは、そうありたいと、望んでいる。店はけっしておなじではない。昨日の店とは、どこかがほんの少しだけ、微妙に異なっている。客もそうだ。しかし、変わらない店は、変わらない自分というものと、均衡している。変わらない店は、いつもの自分をそのままに受けとめてくれる。変わらない店によって、いつもの自分が今日も肯定される。
『珈琲が呼ぶ』より

 いわゆる昔ながらの喫茶店を訪れて、その“何も変わっていなさ”を目の当たりにしたとき、「何かいいなぁ」「この空間、落ち着くなぁ」と漠然と感じていた心地よさが、言葉で解きほぐされていく快感がこの文章にはある。そして珈琲や喫茶店との関わりの中で、突如として「自分」が浮かび上がってきて、その深層心理まで解き明かされてしまったような驚きもある。珈琲や喫茶店について書いた文章で、ここまで読んでいる自分が揺さぶられるものには、なかなか出会えない。すごい文章だ。

 なお本書には、彼が愛好する映画や音楽にまつわる珈琲の話も多く、ポップカルチャーやサブカルチャーが好きな人でも楽しく読むことができるはず。たとえばタランティーノの「パルプ・フィクション」の珈琲が登場する場面についての話もあるし、ボブ・ディランの「One More Cup of Coffee」や高田渡の「コーヒーブルース」について書いた文章もある。

「しょうこりもなく、オールド・ストーリーを」では、「ダーティ・ハリー4」について言及。ハリー・キャラハン(クリント・イーストウッド)が「この店でもう何年もブラック・コーヒーを買ってきたが、今日のブラック・コーヒーには砂糖がしこたま入っていた。だから文句を言いに来た」とカフェに現れ、強盗犯たちを撃ち倒すシーンが解説されているのだが、珈琲の本でこんなにカッコいいセリフに出会えたことに興奮してしまった。

 なお片岡氏は、こんなに珈琲が似合い、喫茶店が似合う人はいない…と思える作家だが、小説に珈琲が出てくることはあっても、書き下ろしの珈琲エッセイ本はこれが初めてなのだそうだ。

 珈琲がある場所では、物語が生まれ、人と人との関係が進展していく。この本はそんなことを気づかせてくれる。けっして珈琲が主役の本ではないが、珈琲を通して人間を描き、文化を描き、物語を紡いでいく本だ。

文=古澤誠一郎