豊臣秀吉も就活に失敗し婚活に苦労した!? 新たな切り口で描かれる出世道『秀吉の活』

文芸・カルチャー

2018/2/14

『秀吉の活』(木下昌樹/幻冬舎)

『秀吉の活』(木下昌樹/幻冬舎)は日本人なら知らない人はいないであろう歴史上の人物・豊臣秀吉を題材にした小説だ。周知のとおり、秀吉は大河ドラマをはじめ多くの小説やドラマに描かれている。これまでの作品との違いは、その切り口。本作は秀吉のライフステージを10個に分けた530ページの長編小説だ。

 私にとって最も印象的な章は4章の「天下人の凡活」である。当時は弓や刀での戦い方から鉄砲に移行しつつあるときで、まだまだその効果的な使用法が広く認識されていなかった。多くの武将が鉄砲は役に立たないと考える中で藤吉郎(のちの秀吉)は「弓はもう古い」と先見性を発揮する。刀や弓の方が有用だと考える武将たちに鉄砲使用を説き合戦に赴くが、思いがけないトラブルで苦境に陥る。そこを救ったのが浅野又右衛門の部隊。藤吉郎に説得された又右衛門は鉄砲で戦うことを渋りつつも、弓部隊と融合したみごとな戦術で藤吉郎の窮地を救うのだ。しかし、又右衛門は最後まで弓の名人として一生を終える。敵大将との一騎打ちは弓。双方喉元に矢が刺さりつつも、安らかな最期を迎えるのだ。その満足げな死に顔を見ながら藤吉郎は「何かを極めずして活きた人生は送れない」と決意し、信長に問う。

「おいらは何を極めればいいのですか」
「……(中略)貴様には何の才もない。(中略)だが、それでいい。貴様は凡人を極めろ。(中略)誰にでもできることを、誰よりも愚直にやり続けろ。それが大きな結果を生むことを、草履取りや薪奉行で学んだはずだ」

 従来、秀吉は人たらしで知略に優れた人物として描かれることが多かったように思われる。しかし、本作では何の才もない迷惑な人物として描かれている点に新鮮味を覚えるだろう。秀吉の人生のテーマは「活きた仕事」「活きた人生」を全うすること。子どもの頃、実父に「生きる」と「活きる」の違いを教えられたのちの天下人は、人生のさまざまな局面で「活きる」ためにはどうしたらよいかを自問していくことになる。

 多くの作品と同様に秀吉の物語は天下人になるまでがおもしろく、その後は下降線を描いていく。特に右腕だった弟が死んでからは、人生の後半に近づいていることが分かる記述が多くなる。朝鮮出兵の折に武将たちに虎狩りをさせ、その肉を強壮剤とするシーンには悲壮感さえ漂う。最終章の10章では、老人となった秀吉は夢と現実の区別ができなくなり、人との会話中に意識を失ったり、失禁したりしてしまう。もはやどのように人生を終わらせればよいのか、焦るばかりで具体的な行動に思いが至らなくなってしまうのだ。夢の中で信長と何度も対話をするようになるが、かつての君主は幻となっても手厳しい。

「志半ばの人生だったが、己は活きて活きて、活き抜いた。日ノ本の誰よりもな。そのことに比べれば、寿命の長短など、ささいなことだ。(中略)藤吉郎よ、もし、本当に我が子が可愛ければ、活きた人生を送らせろ。(中略)活きるとは何かを、藤吉郎のもう幾ばくも残されていない寿命の全てを使って、伝えろ。(中略)それこそが、お主の活きた終わり方だ」

 そして、秀吉はかつて実父にそうしてもらったように、幼い息子に「活」の字を教える。息子・秀頼は十数年後、徳川家康の手で23歳の短い人生を終えることになるが、武芸に秀で、多くの書物を後世に残す。戦乱の世にあっても活きた人生を送ったといえるかもしれない。本書はすでに秀吉の物語を知っている人でも違った切り口を楽しめる作品となっている。

文=いづつえり