自己表現としての文字——デジタルメッセージによってわたしたちが忘れてしまったもの

文芸・カルチャー

2018/2/16

『文字に美はありや。』(伊集院 静/文藝春秋)

 文字に美はありや(美しい、美しくないということがあるのか)、という問いは、伊集院静氏を歴代の名筆、名蹟をたどる旅へと駆り立てた。3年半に及ぶ旅の集大成が40話の随筆集『文字に美はありや。』(伊集院 静/文藝春秋)である。果たして著者はこの旅で出会う文字から何を感じたのか。本書は『文藝春秋』の連載に加筆したものである。

■情報伝達の記号から書へ

 話は文字成立の起源から始まる。動物の骨や石に“刻む”記号から、木簡を経て、やがて紙へと素材が変わることで“書く”文字へと変化した。書体の誕生である。現在、私たちが目にする書体、例えば卒業証書、麻雀牌、中華料理のメニューにいたるまで、そのルーツは、約1700年前の役人が書いた文字であった。この“書聖”とも称される人物の書が、手本として脈脈と受け継がれてきた理由を、その書が持つ“勢い”“たたずまい”“情緒のゆたかさ”と著者は捉えた。文字に情緒を見たのである。

■文字は人をあらわす

 本書で直筆資料とともに紹介される偉人は、皇族、貴族、戦国武将、芸術家、剣豪、文豪、芸人、と幅広い。彼らの多くは、このお手本を習うことから、独自の書体を求めていった。文字が自己表現の手段になっていったのだ。

 漂泊者としての蕪村と芭蕉、それぞれ直筆の「奥の細道の図屏風」と「ふる池やの句短冊」を比較し、「書としての評価は芭蕉が上でも、蕪村に親しみやすさを感じる」という。時の人、西郷どん、の有名な書「敬天愛人」の力強い筆使いからは、「勇壮で情愛に満ちた人物」と解する。彫刻家であり詩人である高村光太郎は、自ら彫ったつがい文鳥を包む布に短歌を書き入れた。著者はこの筆跡や作法から、「智恵子との愛のかたちを表現したもの」、と解釈する。また、画家の書からは、書家には描けない何かを感じとる。それを、古に文字を創った人間が表現したかった本来の文字への「想い」、ではないかと考えるに到る。ぜひ掲載されている資料とともに、著者の見方をたどって欲しい。

■結局、文字とは何か

 書は、その人物がその時代を生きた証であるとともに、そこから伝わってくるものは「生きることにともなう哀しみ」だと著者は述べる。現在、我々はデジタルツールにより、高度に効率化したコミュニケーションの只中にいる。日々膨大なメッセージが目の前を通り過ぎ、消え去っていく。本書を読み、偉人たちの書を見ると、このコミュニケーションに乗らない何かがあることに気づかされるだろう。心が発し指先が伝えようとする情感なのだろうか。それを補うものとして絵文字やスタンプを駆使するが、大人の流儀としてはやはりしっくりこない。最終話に文字を書くロボットが登場する。人の触感をも再現しようとする情報技術が、人工知能と相まって、感情表現の壁をも乗り越える未来を著者は想う。スマホを操る手を休め、文字とは自分にとって何なのか、をあらためて振り返ってみてはいかがだろうか。

文=八田智明

伊集院 静(いじゅういん・しずか)

1950年、山口県防府市生まれ。72年、立教大学文学部日本文学科卒業。91年『乳房』で第12回吉川英治文学新人賞、92年『受け月』で第107回直木三十五賞、94年『機関車先生』で第7回柴田錬三郎賞、2002年『ごろごろ』で第36回吉川英治文学賞、14年に『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』で第18回司馬遼太郎賞受賞。16年紫綬褒章受章。