欲しいのは「あたりまえの幸せ」―― 『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』が描く青春小説の最前線

文芸・カルチャー

公開日:2018/2/20

『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』(浅原ナオト/KADOKAWA)

 高校生のジュンこと安藤純(あんどうじゅん)はクラスメイトの三浦紗枝(みうらさえ)が書店で、男性同士の恋愛をテーマとしたいわゆるBL本を購入しているところに遭遇する。三浦さんは腐女子で、そのことを秘密にしていた。一方、ジュンには同性の恋人がいる。彼もまた同性愛者であることを隠して生きていた。

 その後、ふたりの男女は急接近。ジュンは女性に関心がないにもかかわらず、三浦さんの好意に応える形で恋人になる。ジュンは自分がゲイであることは認めているものの、異性とセックスし、家庭を築くという、世間一般で「ふつう」と言われる幸せに憧れていたからだ。しかし、ふたりの関係とジュンの未来には困難が待ちうけていた……。

 浅原ナオト『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』(KADOKAWA)は胸がひりつくような、瑞々しい青春小説だ。タイトルを見ただけで怯む人もいるかもしれないが、腐女子は男性同士のカップリングを「ホモ」という言葉で呼ぶことが多い。ヒロインの三浦さんも例外ではないため、この言葉が使われているのだ。

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『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』はHIVやアウティング(同性愛を暴露されること)といった同性愛者を取り巻く状況をリアルに描いている。性的マイノリティの登場人物たちも魅力的だ。新宿二丁目のカフェバーで働くケイトさんはイギリスからやってきたレズビアン。家庭を持つ既婚者としての顔とゲイとしての顔を使いわけ、二重生活を送るジュンの恋人のマコトさん。闘病日記をブログで書いているミスター・ファーレンハイトはAIDSを発症した恋人を持ち、自身もHIVキャリアだ。近年、新宿二丁目で起きた実際の事件も小説に組み込まれている。ジュンが愛聴しているクイーンのヴォーカル、フレディ・マーキュリーはゲイのアイコンと言っていい存在だが、クイーンの楽曲はこの小説の重要なキーワードになっている。

 ジュンが三浦さんに吐露する言葉には社会のアウトサイダーとして生きることがどれほど苦痛に満ちたことなのか、そしてアウトサイダーの「ふつう」への羨望がどれほど強烈なものなのかが切実に語られている。

「三浦さんが、男の人と愛し合って、結婚して、子どもを産んで、幸せな家庭を築きたいと思うのと同じように、僕も女の人と愛し合って、結婚して、子どもを作って、幸せな家庭を築きたいんだ。息子とキャッチボールをして、娘にかわいいお洋服を着せて、奥さんと仲良く子どもの成長を慈いつくしみたい。お嫁さんを貰う息子とお酒を飲み交わしたり、お嫁さんに行く娘のことを思って泣いたり、産まれた孫を猫かわいがりしたり、そういうこと、全部したい。たくさんの家族に囲まれて、みんなに惜しまれながら、満ち足りた表情で死にたい」

 にもかかわらず、この小説はマイノリティによるマイノリティのためだけの作品ではない。ゲイと腐女子という相いれないことも多い属性を持ったふたりが出会い、葛藤しつつも互いに歩み寄ることが物語の主軸にある。
 ジュンは最初、三浦さんのBL趣味を「ファンタジー」と一蹴する。三浦さんが好きなのはゲイであって僕ではない、とまで思う。だが、ジュンが逆境を経験したとき、そばに寄り添って救いの手を差し伸べたのは三浦さんだった。自分が同性愛者に偏見を抱く多くの人と同じように腐女子に対して偏見を抱き、三浦さんを理解しようとしていなかったことにジュンは気づく。

 苦難に陥ったジュンを支えるのは三浦さんだけではない。ジュンの幼馴染や母も良き理解者になる。結末でジュンは自分自身を抑圧していたことを認めて新たな道を選ぶ。読後感はほろ苦いが、決して暗いものではない。
『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』は人とわかりあうことの困難とその先にある希望という普遍的な問題を描いている。だからこそ、この小説はマイノリティだけではなく、すべての人の心に届くだろう。

文:川本直(かわもと・なお)
文芸評論家。1980年生まれ。単著に『「男の娘」たち』(河出書房新社)がある。今年後半に編著を冨山房インターナショナルから刊行予定。