出会いと別れの季節に読みたい。さだまさしが振り返る、豊かな夜の記憶

暮らし

公開日:2018/3/30

『酒の渚』(さだまさし/幻冬舎)

 春は出会いと別れの季節だ。親しくしていた人が転勤で遠くに行くことになったり、新人が職場に配属されたり。転職などで新しい環境に飛び込む人もいる。既に送別会でお世話になった人を送り出した、という人も多いのではないだろうか。この時期に欠かせないのが、お酒の存在。そして酒の席にはいつも、ドラマがつきものだ。

 酒の席にまつわる思い出が綴られた『酒の渚』(さだまさし/幻冬舎)は、この季節にぴったりのエッセイ集だ。シンガーソングライターや作家として幅広く活躍するさだまさし氏が、雑誌『GOETHE』で2015年~2017年に連載していたエッセイが書籍化された。

 20代から歌手として活動し、日本全国を公演で回っていた著者。本書の各エピソードではそれぞれの土地の名酒と名酒場、酒の席を共にした人々が登場し、そのバラエティの豊かさには驚かされる。本書を読み進めるうちに、出会った人たちへの著者の眼差しの温かさが伝わってきて、なぜ彼が全国各地で愛されるのか、その理由がわかる気がした。

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 お酒を通して著者が出会ってきた人々の中には、残念ながら、再び会うことが叶わない人も少なくない。行きつけだった店のいくつかも、やむをえない事情で廃業しているという。それらのエピソードは読み手の胸にしんみりした余韻を残し、自らの懐かしい人や場所の記憶を呼び起こす。

 1999年3月末日に惜しまれながら廃業した、大阪・ホテルプラザ。1階にあった「マルコポーロバー」は、各界名士のサロンでもあった。著者は本書で、マルコポーロバーでの数多の夜の思い出を明かす。

 たとえば、今は亡き名指揮者・山本直純氏との思い出は、レミーマルタンのダブルマグナムボトル。山本氏は高さ60センチ以上あるボトルを「いつでも飲んでいい」と言い、当時借金をしていた著者は何度かそれを空っぽにした。それでも山本氏は何も言わず、レミーマルタンはいつも新しいマグナムボトルに替わっていたそうだ。

 マルコポーロバーには、著者が楽曲「秋桜」を提供した山口百恵さんとのエピソードもある。著者が仲間たちと百恵さんのツアー千秋楽の祝杯をあげた夜、ピンクのカクテル、バカルディを「モモエ」と呼び、大いに盛り上がったという。

 著者が常連だった京都・先斗町のスナック、「鳩」の「お母さん」との交流も印象的だ。エルヴィス・プレスリーが好きで話上手だった「お母さん」は、著者を「おっしょはん」と呼んで可愛がり、時には楽曲のヒントもくれた。晩年は病におかされながらも、「常連さんを集めてホテルで還暦パーティをする」という夢を抱き続けていたという。著者が「お母さん」の病室に還暦のお祝いとして60本の真紅のバラを届けた際のエピソードは、涙なしでは読めないはずだ。「お母さん」が亡くなり、「鳩」ももうない。

 本書では「関白宣言」や「風に立つライオン」など、著者の代表的な名曲にまつわる誕生エピソードも明かされていて、改めて酒の席での会話が生むものの大きさを感じずにはいられない。お酒が好きな人はもちろんあまり飲めない人も、さまざまな角度から楽しめるエッセイ集に仕上がっている。

 出会いと別れが同時にやってくる春の訪れは、ワクワクする反面少し寂しい。しかし、大切な人とお酒を酌み交わした夜の記憶はいつまでも残り、これからの人生を豊かなものにしてくれるはずだ。だから今夜はしんみりせずに、とにかく呑もう。

文=佐藤結衣