誰だって、自分を「演じている」。ニューヨークを舞台に描かれる“超自意識過剰青年”の顛末とは?

文芸・カルチャー

2018/4/17

『舞台』(西加奈子/講談社)

「誰もが皆、この世界という舞台で、それぞれの役割を演じている」。

『舞台』(西加奈子/講談社)は、自意識過剰でめんどくさい青年が、ニューヨークでの「事件」をきっかけに「世界の見方」を変える、笑えて切ない成長物語である。

 29歳の葉太は、父親の遺産でニューヨークへ一人旅の最中。しかし、自分が「どう見られているか」が気になり過ぎて、全く旅行を楽しめない。「5番街ではしゃいでるやつ」だと思われたくないあまり「慣れてますけど?」という空気を出すのに必死だ。タイムズスクエアに行けば、その「あまりのタイムズスクエアさ」に恥ずかしくなり、写真を撮っているカップルやガイドブックを広げる観光客に鼻白む。

 そんな葉太には、ニューヨークでどうしてもやりたいことがあった。

 それはセントラルパークの芝生で寝ころびながら、大好きな作家の新刊を読むこと。もちろんこの「ニューヨークらしすぎる」行為にも葉太は羞恥心を覚えたが、それ以上に葉太は小説が大好きで、願望が勝ったのだ。

 いざ、セントラルパークに到着し、葉太が『舞台』という本のページを開いた時、目の前でバッグを盗まれてしまう。呆然とする葉太。しかし、葉太はめんどくさいやつなのだ。助けを求めるのも、取り乱すことも、他人の目が気になってできない。結局、葉太は何事もなかったかのようにふる舞い、財布やパスポート、スーツケースのカギなど、大切なものを全て失ってしまう。

 観光初日に絶体絶命の危機に陥った場合、普通ならすぐさま警察に行くなり、領事館に行くなりするところだが、葉太は違う。初日で盗難に遭ったとなっては馬鹿にされると思い、すぐには行かないのである。ここでも自意識過剰でめんどくさい。

 わずかなお金とスマホ、そして『舞台』だけで生き延びようとする葉太。もしも本作が「いかにも」なハリウッド映画だったら、「ニューヨーク無一文サバイバルの後に、バッグを盗んだ犯人を探し出し見事取り返したところ、実は犯人はとある犯罪組織の一員で、葉太は知らず知らずの内に大事件に巻き込まれ、最終的にはその犯罪組織をぶっ潰し一躍ヒーローになる」的なラストがあるだろうが、もちろん本作はそんな風にはならない。

 葉太が「戦う」のは、自分の「自意識」であり、つまりは自分の「世界の見方」である。また、そんな過剰な自意識を持つに至った一因の「しゃらくせぇ」父親だ。自分を偽り、「いかにもな作家」を演じる父に、葉太はずっと、嫌悪感を抱いていた。

……ちなみに、私は散々葉太のことを「めんどくさい」と書いた。事実、読み始めの内はいちいち深読みし過ぎの葉太を「純粋に観光を楽しめよ(笑)」と思っていたし、なんなら最後のページまで距離感があった。だが、読み終わった瞬間から、この物語を「他人事」ではなく「自分事」のように感じる自分もいて、なんだか不思議な感覚になり、もう一度読み返したくなった。

 誰だって自分を「演じる」ことがある。その舞台の上で、一生懸命に生きている。そして、自分の気持ち次第で、同じ景色でも見え方が変わってくるもの。本作には、そんな熱い想いが詰まっている。葉太がニューヨークで「見て」「気づいた」ことは、多くの読者が共感できる「何か」を持っているのではないだろうか。

文=雨野裾