妻に浮気がバレて……。予想外の展開に、驚くばかり! 芥川賞候補作、松尾スズキ『もう「はい」としか言えない』

文芸・カルチャー

公開日:2018/7/14

『もう「はい」としか言えない』(松尾スズキ/文藝春秋)

 先ごろ、第159回芥川賞の候補作が発表された。松尾スズキさんが『文學界』(2018年3月号)に発表した『もう「はい」としか言えない』がノミネートされている。

 松尾さんが劇団「大人計画」を旗揚げして、今年でちょうど30年。芥川賞は3度目のノミネート。選考会は7月18日で、それに先駆けて単行本『もう「はい」としか言えない』(文藝春秋)が刊行された。ユーモラスで、ちょっとシュール。どこか情けなさも漂って、松尾さんならではの味わいが凝縮されているのだ。

 2度目の結婚生活を送る劇作家・俳優の海馬五郎は、平穏な日々を送っていたつもりだったのだが……。ある日、自分の浮気がばれていることを知った。静かに怒りをたぎらせる妻は、土下座する海馬にむかって「事務所を解約すること」「1時間ごとに背景を含めた写メを送ること」「毎日セックスすること」の3条件を課した。期間は3年で、浮気期間と同じ。妻に無条件降伏して離婚を回避した海馬だが、なんとも息苦しい日々が続いている。

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 そんな彼のもとに、フランスの実業家が主宰する「エドゥアール・クレスト賞」を受賞したとの知らせが届いた。世界の自由人5人に選ばれた……という、ちょっと胡散くさい話である。しかも海馬は、海外旅行が大の苦手なのだ。それでも妻にしばられた日常から逃れたい一心で、パリに行くことを決意する。日仏ハーフで、ちょっと言動のおかしな斎藤聖という美しい青年が、通訳として同行した。

 ようやくパリに来たものの、賞の主催者との約束は、なぜかことごとくキャンセルされる。海馬は先行きが見えないまま、日々を過ごすことになり……。不倫をめぐる「夫婦の危機」を描く物語とおもいきや、海馬のフランス行きが決定してからは、思いもよらない展開が待っている。「外国」というアウェーな状況で、観光もろくに楽しめない海馬。変わり者だが正直な青年・聖は、むしろ不確定な状況を楽しむように、マイペースに振る舞っている。そんな聖に刺激され、海馬はようやく「ひとりで街歩き」を決意するのだ。精一杯虚勢をはっている中年男には、かなりの一大事なのだけど。

 この「ひとりで街歩き」のシーンが面白い。パリ郊外にあるモニュメントを見ようと出かけた海馬だが、フランス語も英語もまるで通じない。たどり着いたのは、きらびやかなパリ中心部とはまるで違う荒廃した路地。白人はほとんどおらず、見かけるのはイスラム系、ロマ、アフリカ系などの移民や難民たち。あたりには残飯や糞尿の臭気とバイオレンスの香りが漂う。「卑猥なほどに生々しい。道そのものが一匹の動物だ。内臓むき出しの動物。それが、死に物狂いで息をしている」ような現実の前で、海馬はひたすらうろたえる。

 サッカーのフランス代表を見ても、アフリカ系移民が多くを占めている。フランスは移民大国なのだ。多くの日本人にとってのパリのイメージは、あいかわらずおしゃれな観光地なのだけど、テロの温床になるような地域は、パリの郊外にまで広がっている。世界一美しい都市が抱え込む「矛盾」は、グロテスクなまでに鮮烈で、半端な自意識を持て余している日本人にはショックが大きい。呆然とする海馬の姿は、そんな私たちの「現実感」に重なる。

 ちなみに主人公の姿が、松尾スズキさんの姿で脳内再生されてしまうのも、本書の醍醐味のひとつだ。同時収録の「神様ノイローゼ」も、海馬五郎が主人公で、太宰治の『人間失格』のように、幼少期から自意識を持て余している姿が描かれている。作家以外の顔を持つ筆者なだけに(松尾さんのような個性派俳優の場合は特に)、どこかで作家本人の姿を追ってしまうのかもしれない。それももちろん、お楽しみのひとつ、だ。

文=荒井理恵