夢を追う人びとの成長と再生の物語に興奮する! 塩田武士のボクシング小説『拳に聞け!』

文芸・カルチャー

2018/9/11

『拳に聞け!』(塩田武士/双葉社)

 7月に文庫化された『拳に聞け!』(双葉社)は、『罪の声』『騙し絵の牙』といったベストセラーで知られる作家・塩田武士が、ボクシングをモチーフにして描く人間ドラマだ。

 物語の語り手となる池上省吾は、35歳の中年男性。高校時代の後輩が社長の便利屋で、アルバイトをしながら冴えない毎日を送っている。そんな省吾が寂れた商店街をぶらついていると、古びたボクシングジムの前に怒りを漂わせながら立っている女性、優香と出くわす。どうやら家賃滞納をしているジムに立ち退きを迫っている様子。そんな優香の追及をのらりくらりとかわすジムの経営者である新田貞次郎は、偶然にも以前に省吾が営業車で危うくひきかけた男だった。

 優香に話を聞くと、ジムのある場所で夢である“定食屋”を開くつもりだという。便利屋の仕事として立ち退きを引き受け、さらに貞次郎のジムの整理まで手伝えば、いくらかの金儲けになる――そう考えた省吾は再び貞次郎のジムを訪ねるが、立ち退きはあっさり拒否され、逆にジムの再建を手伝ったら金を出すと提案される。ジムはどう見ても閑古鳥そのものだが、貞次郎はいう。

「世界チャンピオンを一人出してみぃ、一気に変わるぞ」
「あのな、どこにそんな金の卵がおるんや」

 省吾がそう返したところに貞次郎の息子の勇気がロードワークから帰ってくる。貞次郎は勇気こそが「金の卵」だという。ひとりで黙々と練習に励む勇気の姿を見て、省吾は思う。ひと癖もふた癖もありそうなおっさんを敵に回してジムを畳ませるより、ジムの再建に奔走したほうが現実的かもしれない。それに“夢”もある。かくして、省吾は貞次郎が経営する、練習生が勇気ひとりしかいない“新田ジム”に出入りするようになるのだが――。

 立ち退きを迫っていたはずなのに新田家に入り浸っている優香、成りゆきで新田ジムの練習生となった体重過多のベンとヤンキー立山、近所の練り物屋のおっさん“ネリケン”など、個性的なキャラクターたちの間で繰り広げられるやりとりがなんとも楽しい。登場人物たちの関西人らしい軽妙なボケとツッコミが繰り返される会話に何度も笑わせられるうちに、読者は“家族”のような新田ジムの仲間の間にスッと自然に入っていけるだろう。そこかしこで感じる温かな“親しみ”がこの物語の読み心地の良さとつながっている。

 もちろん、ボクシングシーンも大きな読みどころだ。弱小ジムゆえに「一回も負けられない」戦いを強いられる勇気は、確かな才能はあるものの、どこか“華”に欠ける地味なボクサー。そんな勇気が試合を通じて少しずつ成長していく過程が描かれていき、クライマックスの試合は文字通り、手に汗を握るほど熱くエキサイティングなものになっている。

 そして、本気で世界チャンピオンを目指す貞次郎と勇気とともに過ごすうちに、かつて挫折を味わったことで半ば人生を投げていた省吾も少しずつ変わっていく。省吾は自分の過去を見つめ直し、改めて自分の人生に正直に向き合って挑戦の道を歩み出す。

 夢を追って生きる人びとの成長と再生にきっと胸が熱くなるはずだ。

文=橋富政彦