キキがジジと話せなくなった理由は? ジブリ映画には禅問答が隠されていた!

文芸・カルチャー

公開日:2019/7/22

『禅とジブリ』(鈴木敏夫/淡交社)

 仏教は多くの日本人にとって身近な教えのひとつ。強く信心している人もいれば、物心つく前から大人の真似をして家の仏壇に手を合わせていた程度という人もいるだろう。また、信徒ではないけれども禅寺に行き、坐禅会に参加したことがあるという人もいるかもしれない。

『禅とジブリ』(鈴木敏夫/淡交社)は、スタジオジブリのプロデューサーとして知られる鈴木氏と、細川晋輔和尚(龍雲寺住職)、横田南嶺老師(円覚寺派管長)、玄侑宗久和尚(作家・福聚寺住職)の3人の禅僧との対談集である。鈴木氏自身、名古屋の仏教校の出身というのが縁で寺に興味を持つようになったという。本書では、禅の精神に基づいた互いの考えや経験の他、宮崎駿監督や故・高畑勲監督との関係性、ジブリの映画作品にも触れ、禅との関係性や共通する考え方を紹介していく。

■「魔女の宅急便」で黒猫ジジが話せなくなった理由は?

 例えば、坐禅について。細川和尚は「坐禅はゴミ捨て場」だと語る。「坐禅は何かを得るというより、捨てる場だと思う」、あるいは、「何かわからないことがあると、すぐにスマホに答えを求めてしまう時代だからこそ、ちょっと立ち止まって、自分にベクトルを向ける時間」が大切と述べる。さらに映画『魔女の宅急便』について話が及ぶと――。

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鈴木:『魔女の宅急便』を作るときに、宮さん(宮崎駿監督)と僕が考えたのは、「空を飛ぶ能力は特別か」ということ。
 それで「特別ではない」と決めたんです。絵がうまいとか、走るのが速いといった、誰しもひとつは持っている得意なことに過ぎない、と。そんなことを考えていました。

細川:そうか。魔女の話だと思うと他人事のようですが、自分に置き換えて考えられますよね。……ところでずっと気になっていたのですが、キキの相棒の黒猫ジジはどうして途中から話せなくなったんですか?

鈴木:話す必要がなくなったんでしょうね。僕は、あの映画をキキとジジの対話の映画じゃないかと思っているんです。つまり自分との対話。まだ自己を確立していないキキが自分になるプロセスを映画にしたんですね。

細川:うわー。すごいっす。

鈴木:自分が自分になれば、もうジジは話さなくなる。

 確かに『魔女の宅急便』はキキの成長物語だが、ジジはもうひとりのキキの化身だったということなのかもしれない。

 成長期を過ぎて大人になった私たちは、自分にベクトルを向ける時間を確保したり、自分との対話を心掛けたりしているだろうか。禅語には、「即今目前(そっこんもくぜん)=今を生きよ」という言葉があるという。坐禅に限らず、また年齢も問わず、そうした意識を持つことが、自分が「今」を精いっぱい生きていくことへの答えになっていくのではないだろうか。

 他にも『崖の上のポニョ』『風立ちぬ』『かぐや姫の物語』など数々のジブリの映画製作エピソードから禅の考えに繋がる放談があり、禅を身近なものとしてページを進めることができる。

■人間関係のしがらみを禅的に考えてみると――

 死や執着のテーマを考えるときに役立ちそうな発言も見受けられる。まず、横田老師の言葉。

横田:禅では死を問題にするとき、「死を問いにして、それに応えるに足る生き方をする」と教わって、私自身もそれを信条としています。「死とは何であるか」という問題を突き付けられて、それに悠然とというかな、応えるに足る生き方をしていくという。生きることとは死につつあることですからね。それを究めていくと、今を生きるということに集約してくるんでしょうけれどね。

 次は、玄侑和尚の言葉から。

玄侑:仏教思想に、一切に自性(物それ自体の本性)を認めない「空」(くう)という考え方がありますが、「色即是空」を徹底すると執着はなくなります。「愛」だって、仏教的には執着ですよ。(中略)愛も憎しみも両方ないなんて、我々の周辺の人間関係にはあり得ないじゃないですか。だから、僧侶としては本来「空」を説かなきゃいけないんだけど、その話はしにくいんです。「慈悲」のほうが法話として語りやすい。(中略)本当に「空」に徹したならば、お骨どころか生きている相手にだって執着はなくなるはずですから。

 本書の帯のコピーは「この時代をどうやり過ごすか?」と問う。選択が多様な現代は、迷いや不安が生じることも多い。過去でも未来でもなく、「即今目前」に着目し、自分なりの信条や信念を持ち、心境は「空」を目指すくらいがちょうどいいのかもしれない。

文=小林みさえ