フィッツジェラルドと並ぶ、村上春樹の愛読書。現代に通じる“アメリカの古典”を新訳で!

文芸・カルチャー

公開日:2020/11/15

心は孤独な狩人
『心は孤独な狩人』(カーソン・マッカラーズ:著、村上春樹:訳/新潮社)

 邦訳版が入手が困難になっていた、アメリカの作家カーソン・マッカラーズの小説『心は孤独な狩人』が、作家の村上春樹による新訳で刊行された。1917年にアメリカ南部に生まれたマッカラーズは23歳の若さで本作を発表してデビュー、一躍話題となった。

 村上は「訳者あとがき」で、経験を積んでいつか自分で翻訳したいと考えていた「将来のために大事に金庫に保管しておきたい作品」として、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』やJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』などを挙げ、最後に残ったのが『心は孤独な狩人』であり、「小説を書くようになった、僕にとってはいわば水源地にあたるような存在」だと書いている(あとがきは本編読後の方が味わいが増すので、できれば最後まで取っておいてほしい)。

 本作の舞台は1930年代後半、アメリカ南部の小さな町だ。1929年、株価大暴落が引き金となって世界恐慌に陥り、その後フランクリン・ルーズベルト大統領によるニューディール政策でアメリカ経済は一旦持ち直したものの、再び不況となって、多くの市民は日々の生活に汲々とし、有色人種への差別があり、やがて来る第二次世界大戦の足音がひたひたと聞こえるような空気に覆われている時代だ。

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 最初に登場するのは、耳が聞こえず、言葉を発することができないスピロス・アントナプーロスとジョン・シンガーだ。彼らは男の2人暮らしだったが、アントナプーロスが病気で入院することになり、シンガーは一人で住むことを余儀なくされてしまう。

 そのシンガーが移り住んだ下宿屋の主人の娘である少女ミック(マーガレット・ケリー)、シンガーが毎日の食事の世話を頼んだカフェの店主ビフ・ブラノン(本名バーソロミュー)、そのカフェでいざこざを起こした流れ者ジェイク・ブラウン、有色人種の地位向上を願う黒人医師ベネディクト・メイディー・コープランド――同じ町に住む彼ら4人は代わる代わるシンガーの部屋を訪れ、様々な話を打ち明ける。

 耳が聞こえず、言葉を発しないシンガーは、彼らの唇の動きを読み、静かに話を受け止める。時折メモに文字を書いて応答するが、多くを返すことはない。彼に話をしにやって来る4人は、うまく社会との接点が持てなかったり、誰にも吐き出すことのできない秘密を持っていたりする。そしてシンガー自身も秘め事を心の奥底に抱えている。

 100年近く前の時代を描いた物語だが、読み進めていくと、現代の問題とも密接にリンクしてくる。シンガーの行動は、誰にも言えないまま心に溜まっていく言葉や悩みを持つ人がネットへ書き込んだ文章や言葉をじっと目で追い、時折リプライという形で返信するようなものだといえよう。

 またBLM(Black Lives Matter)やSOGI(性的指向・性自認)など不寛容に関係すること、開いていくばかりの貧富の差、分断される市民、移民の問題なども描かれている。村上は「考えてみれば、状況は今でも基本的には何ひとつ変わってはいないんだという気もしなくはない」とあとがきに書いているが、良き物語は人間の核心を捉え、時代を超えて読み継がれるものなのだ。

『心は孤独な狩人』は二段組みで、約400ページの長い物語である。いくつかの大きな出来事があるものの、エンタメ小説のような明確な起承転結はない。実のところ私もつっかえつっかえ読み、最後のページへたどりつくまでかなり時間がかかってしまった。しかし読後に何度も手に取り、噛みしめるように読み返したくなる良き物語は、ゆっくりと心に染み込む。それゆえ最初はとっつきにくく、読みにくいと感じてしまう場合もある。先を焦らず、登場人物ひとりひとりの心の内側を訪れ、じっくり物語に向き合うと、あるところから話がスッと体へ入ってくることだろう。

 日々大量の情報や伝聞に翻弄され、“孤独な狩人”にならざるを得ない現代人の心を静かに涵養する、アメリカの古典。村上春樹訳で、ぜひご一読を。

文=成田全(ナリタタモツ)