大戦前夜の満洲、連続毒殺事件、岸信介の野望…昭和史と本格ミステリが融合した怒涛のホワイダニットに鳥肌がおさまらない!

文芸・カルチャー

公開日:2021/9/1

幻月と探偵
『幻月と探偵』(伊吹亜門/KADOKAWA)

 令和ミステリー界のフロントランナー・伊吹亜門氏の最新作が刊行された。その作品とは、『幻月と探偵』(KADOKAWA)。伊吹亜門氏といえば、デビュー作『刀と傘』で「ミステリが読みたい!2020年版」第1位&第19回本格ミステリ大賞小説部門を受賞。揺れ動く幕末の京都を舞台とした事件や、その時代ならではの真相など、新人とは思えない高い完成度に驚きの声が上がった。最新作でも、史実をベースとする作風は同様。盧溝橋事件後の満洲を舞台とした物語は、またもや大きな話題を呼ぶに違いない。

 時は、昭和13年。支那事変発生からすでに半年以上が経過しているが、事態は泥沼の様相を呈している。そんな時代情勢のなか満洲で探偵業を営む月寒(つきさむ)三四郎の元に、とある依頼が舞い込んできた。依頼主は、革新官僚・岸信介。なんでも彼の秘書が急死した事件について調べてほしいのだという。秘書は、元陸軍中将・小柳津義稙(おやいづよしたね)の孫娘の婚約者で、哈爾濱(ハルビン)郊外の小柳津邸での晩餐会の際に毒を盛られた疑いがあるらしい。調査に乗り出す月寒だが、晩餐会の参加者たちは、秘書とはその日が初対面だったようで因縁は見つからない。さらには、義稙宛に、古い銃弾と「三つの太陽を覚へてゐるか」と書かれた脅迫状が届いていたことも発覚。事件は義稙を狙ったものなのか。「三つの太陽」とは何なのか。月寒は捜査を進めていくが、ある朝、小柳津邸で第2の事件が発生してしまう。

 満洲を舞台とした歴史本格ミステリ、というのは、かなり稀有だろう。この作品は、ページを開けば、すぐに私たちを大戦前夜の満洲へと連れ去ってしまう。眼前に広がる満洲という地。それは、昭和史を把握しているはずの人にとっても、見たことのない風景であるはずだ。この地は夢の楽土なのか、煉獄なのか。昭和史とミステリが絶妙に掛け合わさった物語は、その特異性をありありと浮かび上がらせる。

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 不穏な時代を生きる登場人物たちはみんな剣呑。どの人間も疑わしい。その筆頭ともいえるのが、依頼主の岸信介だろう。ご存じの通り、岸は「昭和の妖怪」という異名をもつ実在の政治家だが、その怪しさは異名通り。人付き合いが良く、気さくな印象さえあるのだが、どこか不気味。どうして月寒に調査依頼をしてきたのか。裏に何か隠しているのではないかと疑わずにはいられない。また、元陸軍中将・小柳津義稙も薄気味悪い。奉天会戦の英雄として描かれる架空の人物で、御年79歳。すでに軍役からは身を引いているはずだが、今なおその影響力は絶大のようだ。本人は、岸の秘書が死んだ事件は、関東司令軍が自らを狙ったものだと考えているようだが、真相はどうなのか。一筋縄ではいかない人間たちを相手に月寒はどうにか立ち向かっていくのだが…。

 だんだんと見えてくる満洲という地の闇。退役中将の家に隠された秘密。岸信介が胸に秘める野望…。実在の人物と架空の人物とが巧みに絡まり合い、紡がれていく物語には、生々しいほどのリアリティがあり、「すべて実在の事件なのでは」と錯覚させられてしまうほど。クライマックスにかけて明らかになる犯行動機も、まさにこの時代ならでは。丁寧に描き込まれたホワイダニットが、物語に厚みを生み出している。

 物語から漂う禍々しい空気感。淡々と進む物語は、かえっておどろおどろしさを醸し出す。一体、満洲という地で、退役陸軍中将の家で何が起きているのか。気づいた時には、月寒同様、あなたももう引き返せないところまで来てしまっていることだろう。読後も鳥肌がおさまらない極上の本格ミステリに、虜にさせられること間違いない。

文=アサトーミナミ

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