ついに夢がかなう! 夫に通帳の数字を見せる日がやってきた/財布は踊る②

文芸・カルチャー

公開日:2022/7/28

専業主婦の葉月みづほは、夫と息子の3人暮らし。ある夢のため、生活費を切り詰めながら月2万円を貯金し、ついに実現! …したはずだったが、なんと夫の借金が発覚し…。

大ヒット作『三千円の使いかた』の著者・原田ひ香氏が、「今よりすこし、お金がほしい」人々の切実な想いを描く長編小説!

※本稿は原田ひ香著の小説『財布は踊る 』(新潮社)から一部抜粋・編集しました。

財布は踊る
財布は踊る』(原田ひ香/新潮社)

 二年ほど前から、みづほは月に二万円ずつ貯めていた。

 五万の中から、食費約二万に日用品代(そこには十ヶ月前からは圭太のおむつ代なども含まれている)を引いたら、二万を貯金するためには自分が自由にできるお金はほとんど残らない。

 みづほは貯金を始めてから、ほとんど服を買っていなかった。

 実家に帰った時に、母に「これ、派手すぎるからみづほ着ない?」などと手渡されたチュニックやカットソーをもらう。母には行きつけのブティックがいくつかあって、店員とはほぼお友達状態だ。勧められるとすぐに買ってしまうらしい。通販も好きで、下着やストッキングはまとめ買いしている。そんなものも、実家に行くたびにもらってきた。

 他にはメルカリでシーズン遅れの千円台の服をさらに値切って買う。ユニクロは高いし、ママ友とかぶる可能性大だ。それなら、駅ビルに入っているようなブランドの服を千円台で落札した方が安いし、よく見える。

 お金がない分、みづほのワードローブには不要なものが一つもない。ワンシーズン着なかった服はすぐにメルカリに出品し、数百円でも利益が出ればそれを資金に、次シーズンの服を買う。おしゃれだと褒められることはなくても、みすぼらしいほどではないはずだと自負している。

「爪に火を点す」ほどではないが、無駄は一つもせずに五十六万まで貯めてきた。あと数ヶ月で六十万を超える。六十万を超えたら雄太に告白し、ハワイ旅行を提案するつもりだ。最初は三人で三十万くらいでなんとかならないかと思っていたけれど、それではビーチから遠い最低ランクのホテルにしか泊まれないし、向こうでもろくなものを食べられないとわかってきた。ハワイのことを知るにつれ、欲が出てくる。貯金が四十万を超えた時、せっかくだからもう少しがんばろうと思った。

 みづほには学生時代のアルバイトや会社員時代に貯めたお金が、合わせて四十万ほどある。それで、ヴィトンのお財布を買い、ウルフギャングでステーキを食べたい。圭太にもハワイにしかないような鮮やかな服を買ってあげたい。いつもはメルカリやフリーマーケットで買ったものばかりだから。

 みづほはハワイについてのスクラップブックを作っていた。行ってみたい店、食べてみたい料理、泊まりたいホテル、ハワイ旅行のツアー広告……素敵なハワイの写真があれば、なんでも切り取って貼っておく。節約に疲れたり、ママ友の高そうな服やバッグを見て悲しくなったりした時には、それを広げる。

 一ページ目は、ハワイのどこかの海岸で手をつないでいる親子の後ろ姿の写真だ。二人はおそろいの派手なドレスを着て、髪を風になびかせている。自分もこんな写真が撮りたい。撮った写真はインスタやLINEに載せよう。いや、あまりこれ見よがしにするとママ友から褒められているのか、ディスられているのか、わからないようなコメントをもらってしまうかもしれない。

 でも、二年も貯金をしてきたのだ。一枚くらいはいいだろう。自分と息子が海辺に立つ後ろ姿の写真、ベスト・ショット一枚だけならいいということにしよう。それ以上は、「ハワイに行ってきたの? 写真を見せて」と言ってきた人だけに見せることにしよう。

 ヴィトンの財布を買う時のこともずっと考えている。一度新宿店に行って下見もしてきた。店内は外国人の観光客ばかりで、ショーウィンドーをこわごわのぞいただけで、店員に声をかけることもできずに帰ってきた。けれど、ハワイではちゃんと「これ、いただくわ」と言うつもりだ。

 あ、英語じゃないといけないのかな、と心配になる。韓国に行った時は買いたいものを指差して「ディス、ディス」と言った後、「全部ちょうだい」と身振り手振りと日本語で買い物できたけど。いや、きっとハワイだってそんな感じで大丈夫だろう。

「これ、いただくわ」

「これ、ください」

「あれも見せて」

 息子を寝かしつけ、残業の夫の帰りを待つ間、気がついたら独り言を言っていた。ルイ・ヴィトンの店舗で買い物できるのは一生に一度きりかもしれないのだから、わがままを言わせてもらおうと思う。

 テレビもつけずにスクラップブックを見ながら、想像するだけで十分楽しい。テレビはかなり電気代がかかると善財先生も言っているし。

 やっと目標額に達した日、晩ご飯に普段通りの節約メニューが並んだ食卓の前で、夫の雄太が箸を取る姿を見ながら、みづほはちょっと震えていた。

 ハワイに行きたい。お金は貯めた。

 それを言って、彼がどんな反応を示すのか。

 雄太は厳しい夫というわけでもないし、ケチでレジャーに一円も使いたくないというような人間でもない。たぶん、喜んでくれると思う。ただ、早急にことを運び過ぎたり、変化が大きいと、みづほが思ってもみないような反応をすることがある。以前、海外で暮らしている日本人の特集番組を観ていて、「圭太を外国の学校で勉強させるっていう選択肢もこれからの時代はあるのかもしれない」と何気なくつぶやいたら、「俺は英語もしゃべれないし、海外で仕事なんかできないからな! 親を残して日本から出ていけないし」と急に怒り出したことがある。

 今回も上手に話を進めないと、「まとまった金はマイホーム購入にまわしたらどうか」とか、「そんなに金があるなら、茨城の自分の実家にもっと頻繁に帰りたい」というようなとんでもない提案をされそうだ。

 これまでも時々、「ハワイって一度は行ってみたいな」だとか「子供が二歳になるまでは旅行代金も安いらしいから、海外旅行に行くチャンスかもしれない」などと会話に織り交ぜてきたが、雄太は気がついているだろうか。今のところ、特に大きな反発もなく、「ふーん」と返事をしてくれていたけれど。

 とにかく、お金はあるし、あなたは何も心配しなくていい、ということを強調しようと心に決めた。

 夕飯はカレーにした。百グラム九十八円の豚挽肉と夏野菜のなすを使ったキーマカレーだ。雄太も他の家の夫と変わらず、カレーが好きだった。

 今日は夏のボーナスの支給日だ。そろそろ夏休みの予定を会社に提出する時期でもある。雄太の会社は夏期休業として三日の休みを取ることができる。それに有休を足して、一週間ほどの休みを九月頃に取ることはできないかということも打診しなければならない。

 帰宅した雄太は思った通り、カレーをおかわりして食べ、第三のビールも上機嫌で飲んで、「みづほも好きなものを買っていいよ」と言った。

「ほら、この間、乾燥機付き洗濯機か食洗機が欲しいって言ってたじゃんか。どっちか検討しようか」

 電化製品は家庭に必要な買い物じゃなくて、私の「欲しいもの」「プレゼント」だと考えているのだろうか。でも、ここでそれを問いただして、彼の気分を悪くしてもしかたがない。

「……ものを買うのもいいけど、私、行きたいところがあるんだよね」

「え? 温泉とか? ディズニーランドとか?」

 雄太は上唇に白い泡を付けたまま、問う。

「それなら、俺も行きたいし、かまわないけど?」

「違うの。ハワイ……とか」

「えー、ハワイ? そりゃいいけど、高いだろ?」

 反応と表情から、意外に好感触で嬉しくなる。「高い」というところ以外に問題はないようだ。それなら、とみづほは立ち上がる。

「実は、ずっとお金を貯めてたんだよね」

 食器棚の引き出しから、通帳を出して雄太に広げて差し出した。今はネットバンク全盛で、銀行からもたびたび「通帳をデジタル通帳に替えませんか」という通知が来ていた。それを無視し続けていたのは、毎月「20000」の印字が並んでいくのを見るのが喜びだったし、こんな時を想定していたからだ。

 夫に「600000」の数字を見せる日を。

 彼はちょっと眉をひそめて通帳を引き寄せた。しばらく眺めている。

「へえ」

 数分見つめて、やっと声を出した。

「へえって何?」

「よく貯めたじゃん。どうやって貯めたの?」

「あなたから毎月もらってるお金を節約して」

 みづほは説明した。どうやって食費を倹約してきたのか。服も新品はずっと買っていない。時にはネット上のポイントサイトを使って「プチ稼ぎ」もしてきた。

 話し出したら止まらなかった。自分がどれだけ頑張ってきたかを。

「ストップ、ストップ」

 雄太は笑いながら、手を振った。

「わかったけど、このくらいでハワイなんか行けるの? 今、円安でしょ」

 みづほは大手旅行会社のハワイツアーのパンフレットもいくつか並べた。ハレクラニとはいかないが、そこそこいいホテルと飛行機代が含まれたツアーが予算以内だということも説明した。

「隙のないプレゼンだなあ」

「だって、ずっと計画してきたから」

「じゃあ、俺もハワイに行けるのか」

「もちろんだよ。そのために貯金してきたんだし。本当にゆうちゃんは何も心配しなくていいの。一緒に来てくれれば」

「そこまでしてくれたなら、こっちには異論はないよ」

 みづほはやっと気が楽になった。そう、雄太は決してケチだったり、気難しい人間ではないのだ。時々、へそを曲げるけど。

「みづほがここまで頑張ってお金を貯めてくれたなら、俺が向こうでのお金を出すよ。メシとか土産物とか、プールとかも大きいのがあるんでしょ」

「へえ、ゆうちゃんもそういうの知ってるんだ」

「課長が話してたんだよ。ほら、高岡さん」

 みづほも知っている名前を出した。同じ会社で働いていたし、結婚式にも来てもらったから、知らない仲ではない。

「去年の夏にハワイに行ったんだって」

「あ、年賀状がハワイの写真だったもんね」

 みづほは思い出した。特徴的なビーチの風景で、すぐにハワイだとわかった。我が家も来年の年賀状はハワイにしたい。

「めちゃくちゃ大きい、流れるプールがあって子供が喜ぶって言ってた」

「圭太はまだ小さいからそんなに遊べないけどね」

「まあ、いいじゃん、思い出になるし」

「嬉しいけど、大丈夫なの? ゆうちゃんも貯金あるの?」

 月々の給料以外に、彼がどのくらい貯金があるのか、今までほとんど聞いたことがなかった。

「ぜんぜん」

 雄太は無邪気に微笑む。

「でもクレジットカードもあるし、問題ないよ。俺、普段からあんまり金使わないじゃん。クレカの請求もいつも三万くらいだし、大丈夫だと思うよ」

 その後、雄太の有休も思い通り、九月の半ばに一週間認められ、ツアーも予約できて、ハワイ旅行の準備はちゃくちゃくと進んだ。

 二年半かけて金を貯め、ルイ・ヴィトンの店の門をくぐった時、みづほの胸にさまざまな思いがよぎった。

 実際にはアラモアナショッピングセンターの一角にあるのだから、「門をくぐる」というのとは違うけれど、入口には屈強なレスラーのような警備員が二人立っていて、門と言って差し支えないような物々しさだった。緊張し過ぎて、雄太が店内を見て、「すっげえ人だなあ」と無邪気に言うのに素直にうなずけない。

 これまでネットで情報を集め、一度は新宿のヴィトンに行って下調べまでしていたのに、ガラスケースの前に行ったら、どうしたらいいのかわからなくなってしまった。

「何買うか、決まってるんでしょ。早くしようよ。人がたくさんいるところ、俺、苦手なんだよ」

 ケースに張り付くようにして見ているみづほに、圭太を抱いた雄太が無遠慮に言い放った。

「悪いけど」

 みづほは振り返って、低い声で言った。

「私、このためにお金を貯めてきたんだ。二年、ううん、二年半。ずっとずっと、新しい服もバッグも一つも買わないで、節約メニューを研究してやってきた。だから、これだけはゆっくり選びたい」

 もしかしたら、日本人客や店員がいて、話を聞かれているかもしれない、と思ったけれど止まらなかった。

「私、結婚して今まで、ゆうちゃんにこんなに真剣にお願いしたこと、なかったよね。だから、これだけでいいから聞いて」

「……どうすればいいの」

 みづほの迫力に雄太がこわごわとうなずく。

「このビルのカフェかどこかで待っていてくれる? 圭太と一緒に」

 このくらいはっきり言わないと、彼は圭太を置いて行きかねない。

「じゃあ、場所が決まったら、LINEするから」

 ビルの中には無料のWi-Fiがあって、お互い連絡を取ることができた。

「うん、買い物が終わったらそっちに行くから」

 彼らが行って、やっとゆっくり品物を見ることができた。

 色も形も決めていたはずだった。「ポルトフォイユ・クレマンス」の長財布、柄はヴィトンの象徴的な市松模様のもの。ヴィトンのジップ付き長財布は十万近くするが、これなら、小ぶりで六万くらいだ。しかも小さめだから、女性が持っていても邪魔にならない。

「あー、これ」と言いながら、目の前の褐色の瞳の若い店員に指さすと、にこやかに何か英語で言って、奥に引っ込んでしまった。

 なんだか馬鹿にされたようで不安になっていると、「お待たせしました」とアジア系の女性が日本語で対応してくれた。日本語ができる店員を呼んできてくれたらしい。

「これ、かわいいですよねえ。長財布のなかでも女性に人気なんです」

 彼女は慣れた手つきでガラスケースの鍵を開けて出してくれた。みづほが何か言う前に、他の色や形のものもずらりと並べてくれた。

 おずおずと手を触れると、小さいのにずっしりと重い。それもまた高級感があった。

「どうぞ、開けてみてください」

 言われた通り、開けると真っ赤な革の色が目に飛び込んでくる。

「この色、きれいですよねえ」

 すてき……本当にすてきだけれども。

 思った以上に小ぶりだ。これでは札の端が少し欠けてしまう……ということはなくても、いつもジッパーに札やレシートを挟みそうと気にしながら使うことになる。それにカード入れや、他の場所も心許ないからもう少し大きい方がいい。新宿のヴィトンでは手に取る勇気がでなかったからわからなかったけれど。

 かわいい、かわいいを連発する店員に聞いてみる。

「あの……他の財布も見ていいですか」

「もちろんです。何をお出ししますか」

「……じゃあ、これより大きい」

 みづほは店内に目を泳がす。隣のガラスケースを指さした。

「あの長財布と、あと、二つ折り財布も見てみたいんですけど」

「わかりました」

 店員は嫌な顔ひとつせずに、用意してくれた。ただ、みづほの前に並べた財布は一つ残らずすべて、元のケースの中にしまってから取りに行った。なんだか、泥棒扱いされたようでちょっとむっとする。アメリカではこれは普通なのかもしれない。それでも、肘が触れるほどの距離で、別の客と店員が話しているのに、万引きなんてできるわけないのに。

 彼女はヴィトンのロゴの入った長財布、そして、二つ折り財布を持ってきてくれた。どちらも定番中の定番だ。他に小さな三つ折りの財布も持ってきてくれた。

「最近はこのタイプも人気なんですよ。小さいバッグにも入りますしね」

 小さな小さな財布。それは本当にかわいいけれど、やっぱり若い女性……お金もカードも支払いは男が出してくれるような女が持つべきもののような気がした。

 長財布がハワイでも十万以上することはわかっていた。けれど、手に取ってそのジッパーを開けると、やはり造りが違う。しっかりしていて、心なしかジッパーの動きもいいような気がする。

 これまで欲しいと思っていたクレマンスが急にちゃちに見えてきた。

「やっぱり、こちらですよねえ」

 店員がささやく。

「そう思いますか?」

「ええ。やっぱり、他のものとはちょっと違いますよ。ヴィトンを長年使っていらっしゃる方は、結局、こちらの長財布になさいます。造りがしっかりしているから何年も使えますしね。修理も利きますよ」

 しかし、十万……。

 自分が十万もする財布を持つ人間だと思ったことはなかった。けれど、買えないわけでもない。だから、迷うのだ。

 そこに彼女が悪魔のようなささやきをした。

「一説には、年収は財布の二百倍って言いますよね」

「どういう意味ですか」

「ご存じないですか。先日、お客様から、日本じゃそう言うって聞いたんです。財布の値段の二百倍の年収になれるって。こちらだったらだいたい日本円で十万ですから……年収二千万になれるってことじゃないですか」

 彼女は他意なさそうに笑った。

「年収二千万……」

 無理だわ、私、今は働いてないし、と心の中でつぶやく。それでも、悪い気はしない。年収二千万だって、本当にそんなことになったらどれだけ嬉しいだろう。

 そこに店員が追い打ちをかける。

「奥様がならなくても、旦那様がなるかも、ね? 二千万に」

 彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。共犯者のようにも、からかわれているようにも見える。

「ああ」

「お名前入れも無料でできるんですよ。お客様だけのお財布になるんです」

「私だけのお財布……」

 お金を貯め始めた頃からずっと夢見てきた。

 自分がヴィトンの財布を買う時はどんなふうに「これ、ください」「これ、いただきます」と言うんだろうと。

 できるだけ優雅に、できればちょっと高飛車に言いたいと思っていた。時には指をぴんと立てて想像上のガラスケースを指さし、「これ、いただきます」と予行演習さえしてきた。

 しかし、どれも実際に自分の口から出たのとは違っていた。

「これ。買ってもいいですか」

 こわごわと震える声になった。

<第3回に続く>

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