鏡のような、ふたつの並行世界が存在する日本。娘・夏穂の身柄が拘束されていると知った宗一は…【宮部みゆき 色違いのトランプ】/はじめての③

文芸・カルチャー

公開日:2022/10/15

 あれは、今年と同じように蒸し暑い夏の出来事だった。思いがけないカタストロフによって、世界は変わった。大きすぎて一般人の日常からはかけ離れた変化もあれば、些細だが日々の暮らしに響く不穏な変化もあった。

 それは世界的な規模の変化だったが、世界各国が等しく影響を受けたわけではなく、国家の土台から揺さぶられた国もあれば、ほとんど何も揺るがない国もあった。そうした差違は、カタストロフから受けた被害の大きさよりも、その国家のもともとの政治体制の違いから生じたものだった。

 七年前の八月十日午後一時四十分、北極海の孤島にある世界最大の量子加速器〈ロンブレン〉が原因不明の爆発事故を起こし、内部で働いていた不運な技術者や研究員たち約三十名を道連れに、地上から姿を消した。これが最初のカタストロフだ。

 当時の宗一と瞳子は結婚十二年目で、東京都下の閑静な街に住んでいた。宗一は地元の建築会社に勤務しており、小学校四年生の夏穂と家族三人、会社が借り上げてくれた賃貸マンションに住んでいた。夏休み中の夏穂は学校の屋外プールに通いつめ、白目と歯以外は真っ黒に日焼けして元気いっぱいだった。

〈ロンブレン〉が最初の爆発を起こしたのは午後一時四十分三十二秒、その四分後には二段階目の爆発が発生、その後も爆発的破壊現象は十七段階まで連鎖して、二時間八分後の午後三時四十九分にようやく終息した。

 あの日、宗一は早めの盆休みをもらって在宅していた。最初のかすかな横揺れを感じたとき、「地震だ」と思ったが口には出さなかった。しかし台所に立っていた瞳子が、「揺れてる」と短く言ってコンロの火を消した。

 夏穂はその日のプール教室から帰ったばかりで、リビングのソファで昼寝していた。ショートカットの髪、大胆な寝相、右の目尻のすぐ横に、傷の治りを速める絆創膏。

 瞳子は素早くカウンターキッチンを回って出てきて、夏穂に近づいた。宗一も妻と子のそばに寄り、ごく自然に二人をかばうような体勢になった。

 そこに、がくんと強い揺れがきた。とっさに宗一が思ったのは、夏の初めに家族で近郊の遊園地に行き、県内ではいちばん歴史が古いというジェットコースターに乗ったときのことだ。瞳子は「舌を嚙んじゃう」と、夏穂は「びていこつが痛い」と笑っていた。「尾てい骨」という言葉を覚えたばかりで、しきりと使いたがるのが可笑しかった。

 宗一は全身で身構えた。大きな揺れが来るぞ――

 しかし、揺れはそこまでだった。リビングの窓際に吊した熱帯魚のモビールが、子供の手で振り回されているみたいに揺れていたが、それもだんだんと収まっていった。

 キーン。

 かすかな耳鳴りが始まった。宗一は妻の顔を見た。妻は宗一の目を見つめ、片手で自分の耳に触れてかぶりを振った。わからない、これは何?

 夫婦のあいだで、昼寝から目を覚ました夏穂が、十歳の子供らしからぬ渋面をつくり、「ヘンな音がするね」と言った。

 あれ以来、一秒たりとも止むことがなくなった耳鳴りは、代表的な鏡界性愁訴の一つになり、今では深く気に病む者の方が少ない。この世界の誰もが、耳鳴りなどより、もっと重大な変化に慣れなくてはならなかったからである。

 

 あれは単純な地震ではなかった。大きく揺れ、根底から揺るがされたのは、我々の現実認識そのものだった。

〈ロンブレン〉の爆発事故によって生じた次元の亀裂の向こう側には、この世界の並行世界が存在していた。

 鏡に映したようにそっくりな世界であるが故に、互いに互いの〈鏡界〉であると認め合った二つの世界。存在に後先があるわけではないが、便宜上、認識のきっかけをつくった宗一たちのいる世界が〈第一鏡界〉、並行世界の方が〈第二鏡界〉と呼ばれている。

 以来、人は誰でも自分の分身を持つようになった。第一鏡界から見れば、第二鏡界にいる分身。第二鏡界から見れば、第一鏡界にいる分身。それぞれの人生行路によって、その生き様は違っており、片方が死亡している場合さえ稀ではない。それでも、それが「存在する」という事実は揺るがない。

 ただし、この二者が相まみえる可能性は、ごく限られている。崩壊した〈ロンブレン〉の跡地は、国際科学連合の管轄する立ち入り禁止地域となり、一般市民は近づくことさえできないからだ。この場所から二つの世界を往来できるのは、こちらの科学連合があちらの科学連合と結んだ協定の範囲内で、許可を得た一握りの国際団体だけ――

 というのは、表向きの話である。

 うり二つの世界に内包されている市場や資源に貪欲な資本家も、好奇心旺盛な報道関係者や冒険家も、どんな社会状況下でも必要とされる物資やノウハウを売買してしまう闇市場の担い手たちも、次元の亀裂の両側にたっぷり存在しており、その結果として、〈ロンブレン〉跡地に十数ヵ所も空いているという「次元ホール」を利用した協定外渡界は、今や公然の秘密となっている。

 双方の世界の各国政府や国際団体も、それを重々承知しているからこそ、「人定管理局」などという組織を立ち上げ、動かしているのだ。ある人物が、第一と第二、どちらの鏡界に属するオリジナルなのか見定めるための機関である。

 もっとも、宗一が知っている限りでは、こちら側の世界の一般市民がここを通って秘密裏に第二鏡界へ渡ろうとしたら、かなりの経済的・社会的リスクを背負う羽目になるので、やはり己の分身との邂逅はけっして易しい技ではない。それなのに、夏穂は何と稀なハプニングに見舞われたものか。瞳子が怯えるのも当たり前の話だった。

「俺もすぐ行く。心細いだろうが、あと少し我慢して待っててくれ」

 通話を終えたスマホの画面と宗一の額に、生ぬるい雨粒が落ちてきた。

 

<次回は、森絵都著「ヒカリノタネ」をお届けします。>

<第4回に続く>

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