20歳になる前、姉が住むイギリスへ向かった。見たい景色も、欲しいものも、知っていることもないまま/凛として時雨 TK『ゆれる』②

文芸・カルチャー

公開日:2023/6/22

ゆれる』(TK/‎KADOKAWA)第2回【全9回】

 ロックバンド「凛として時雨」のボーカルとギター、そして全ての作詞と作曲を担当するTKさん。その独創的な視点で表現する音楽は唯一無二。人々を魅了するTKさんの音楽はどのようにして生まれてきたのか。初めて人に歌を聴かせることを意識した中学生時代、エレキギターの音との出会い、母親に反対されながらも音楽の道へ進むと決めたとき、そしてバンド結成への道のり――。『ゆれる』は、途中ですべてをひっくり返しても表現したいものを突き詰める、そんなTKさんの音楽人生を綴った初の書下ろしエッセイです。

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ゆれる
『ゆれる』(TK/‎KADOKAWA)

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 2002年。20歳になる前、言われるがままにトランクに付けた、オレンジ色に黒のラインが入ったバゲージタグに違和感を覚えながら、僕は成田空港にいた。社会勉強でもしてこいという母からのお達しで、姉がいるイギリスへと放り込まれることになったのだ。

 人混みの中を自分の意志とは無関係のように進まされ、飛行機の狭いシートに腰かけた。早朝の気怠さと、準備の遅い僕にいらつく母が運転する車の中で無音の洪水に飲み込まれていた僕は、海外へ行くワクワク感なんてものを持ち合わせているはずがない。

 昔よく一緒に遊んでいた姉との仲は疎遠になっていて、向こうに着いたらどう接していいかも分からない。

 動きだした飛行機の中、僕は目をつむり、いつしか忘れてしまったその距離と温度感の復元を何度も試みる。12時間というフライトの時間をあんなにも短く感じたのは、あのときが最後だったかもしれない。空気を切り裂く重低音だけが、刻一刻と近付く何かへの焦りを和らげてくれた。

 ヒースロー空港に着くと、情報があまりにも少ないオックスフォードへの行き方をメモした紙を見ながら、なんとか早く着いてやろうという謎の野心に駆られていた。

 当時は今ほど海外で自由に携帯電話やネットを使える時代ではなく、姉と手軽に連絡を取れる通信手段はない。手元にあるのは、事前に姉から聞いていたオックスフォード行きの高速バスの発車時間のメモだけだった。

 相変わらず違和感のあるオレンジ色のバゲージタグのお陰で、レーンを流れる大量の荷物の中から、僕のトランクはすぐに見つかった。ずっしりとしたトランクは僕の心境を表しているようで、やっとのことでそれを拾い上げると、バス乗り場に向かって僕は重い足を進めた。空港内で聞こえてくる音のすべてが馴染みのないノイズのようで、到着ロビーへと下降するエレベーターのステンレスの冷たさも、僕を受け入れてくれていない気分だった。

 到着ゲートにある寂しげなカフェ。慣れない僕は前に並ぶツーリストと同じイングリッシュティーを買った。僕は透明のお湯に浸かったティーバッグをお守りのように持ってバスに乗る。今思えば不思議なくらい、窓から見る初めての景色に刺激を感じていなかったように思う。

 オックスフォードのシティセンターでバスを降りると、すぐに姉の姿を見つけた。雨に光る再会は不自然でいて、妙な安堵感だけはあった。戸惑う僕をよそに、昔と変わらないままの姉に大学の寮を案内され、狭い部屋で僕の静かな旅は始まった。

 姉が大学に行っている間、僕は泊めてもらっていた寮を抜け出して街に出た。小高い丘の上にある寮から街まで降りるのは容易ではない。気まぐれに来るバスに乗り、30分ほど揺られる必要があった。

 イギリスの地に降り立ってから、僕はずっと途方もない疎外感に見舞われていた。美しい街並みを歩いてみても、僕にとってはすべてがグレーに見える。少し文字の欠けた派手なネオンのついたハンバーガーショップも、数百年の時を経て丸みを帯びて輝く石畳も、熱すぎるロイヤルなミルクティーも。

 自分は透明人間になって誰にも見えていないみたいに、その冷たい景色と街並みに溶け込めずにいた。イヤホンから流れる慣れ親しんだ音楽だけが、灰色の世界を明るく見せてくれた。

 街は霧に包まれ、太陽もなかなか見ることができない。今思えば、あのときは特別にどんよりとしていたのだろう。16時にもなるともう暗くなっていた。街灯の柔らかな光に包まれたレンガの街は、昼とはまた違う顔を見せる。温かな色の光をもってしても、僕はこの地に温もりを感じることはできずにいた。

 幾日かが過ぎると、姉との距離はそうなることが当たり前だったように、次第に縮まっていった。姉は特別僕をもてなすわけでもなく、すべてが乾いて見える街を2人で目的もなく散策した。寮に戻ると海外の行きすぎたドッキリ番組を見たり、宇多田ヒカルさんのライブビデオ『UNPLUGGED』を見たりして過ごす。窓の外は夕暮れを感じさせる間もなく真っ暗になる。なんでもない時間だけが過ぎていった。

 見たい景色も、欲しいものも、知っていることもないまま訪れた初めてのイギリスの旅は、2週間ほどで終わりを迎えた。数泊の家族旅行しか行ったことのない僕にとって、目的もなく、見るものやなすことにたいして興味も抱かないまま2週間も滞在していたのは、かなり退屈だった。もちろん、向こうを発つときに「もっとここにいたい」という思いもなかった。

 日本に戻ってからの数日間、僕はときどきイギリスでの日々を思い返していた。

 太陽がどこかに行ってしまった灰色の街。オレンジ色の街灯。夕刻に紫色に変わっていく空――。妙な違和感が僕を襲う。

「あの景色にもう一度戻りたい」

 向こうでやりたいことがあるわけではない。行きたい理由も特にない。でも、イギリスの空気を強く欲している僕がいた。それはボクシングでいうところの、真正面から繰り出されるパンチに失神したのではなく、少しずつ三半規管を揺さぶられて、気付いたら平衡感覚を失っているような状態だった。

 おそらく、僕は初めて見た空気と灰色の世界に〝違和感の恋〞をしていた。

 自分が欲しいと思っていないところから得られる体験が、衝撃になるのだと知った。ヒースロー空港に着いて感動したわけでもない。憧れていたヨーロッパの景色にやっと出会えたという印象もない。脳の意識の隅っこに、いつの間にか植え付けられた小さな何かが、とてつもなく僕を支配する。

 この感覚と出会えたことが、僕の音楽にとってなくてはならないものになるとは。

 旅の最後に姉と行った、レディングのタイ料理店でもらったフォーチュンクッキー。その中に入っていた「You will be famous.」という謎のメッセージの紙を、上機嫌で持って帰国した僕はまだ知るはずもない。

 永遠に焦がれる「見たことのない景色」を追い求めてしまう僕の性は、きっとこの静かな衝撃のせいだ。

<第3回に続く>

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