町の呉服屋さん/きもの再入門⑦|山内マリコ

文芸・カルチャー

更新日:2024/2/29

きもの再入門

町の呉服屋さん

 紫織庵で注文した長襦袢が染め上がり、京都から反物が届いた。包みを開けると、目にも鮮やかな辛子色! 白生地を染めてもらうのははじめてなので、お店で見せてもらったあの純白の布に、ここまで深く、芯まで色が入ることに、単純にたまげてしまう。

 地模様といっても大柄の菊はなかなかに派手だけれど、辛子色にはそれに負けない濃度があって、とても好みに仕上がっていた。辛子色、やはり好きだ……。好きな色には露骨にテンションが上がるなぁ。桜鼠の花鳥画の反物と合わせて、さっそく近所の呉服屋さんに向かった。

 

 この町に引っ越してきてかれこれ九年。歩いて行ける、町の小さな呉服屋さんになにかと頼っている。

 ショーウィンドウには季節のきものが飾られ、夏が近づくと幼児用の浴衣セットが並ぶ、庶民の店である。そりゃあきものを着る人自体が少ないので千客万来というわけではなさそうだが、ぱっと見ただけできちんと回転している店であることがわかり、なにかあったらここに頼もうと思っていたのだった。

 

 最初は、祖母のきものを洗張(あらいばり)に出しに来た。

 箪笥に長年眠っていたきものはどれもほこりっぽく、裏地が染みだらけのものもけっこうあったので、とてもそのままでは着られない。なかには洋服だったら確実にポイしているであろう、悲惨な状態のものもあった。

洗張に出す

 けれどこれがきもののスゴイところなのだが、「洗張」というメンテナンスをすれば、甦らせることができるのだ。きものは縫い目をほどくとバラバラの布になり、それをざくざく縦に縫い合わせれば、一枚の長い布=反物に戻る。その状態にしてざぶざぶ、ごしごし、水を通して大胆に洗い、糊付けして干す。このとき、竹ひご状の不思議なアイテムを使って、シワをぴんぴんに伸ばす。そうやって乾かし、縫い合わせた糸をほどいてパターンにくずし、再びきものの形に仕立てる。これで完成。

 生地があまりにも薄くなっていたり、よほどの汚れがついていたりすれば別だけれど、洗張をすればたいてい、新品同様の輝きが戻ってくる。ちなみに袷(あわせ)という、裏地のついたきものの場合、汗染みはたいてい裏の白生地(胴裏と呼ばれる)部分にできるので、そこだけ新しいものに替えればOK。裏地のおかげできものへの致命的なダメージは防がれる仕組みだ。

 

 昔はこの洗張の作業も家事のひとつで、自宅で主婦や女中といった女性たちが、家族中のきものの手入れを担っていた。一度、昭和の家事のドキュメンタリーを見たことがある。おせち料理から布団の綿入れまで、すべての家事の手順が身についた昭和の主婦は、現代の主婦とはまったく意味の違う、職人と呼ぶに相応しい技術者だ。そのドキュメンタリーには洗張する様子も映り、わたしはその労働量を目の当たりにした。とにかく大変な手間なのだ。

 

 もちろん現代では、洗張を自宅でできる人はほとんどいない。店に出すことになる。そして洗張は、洋服のクリーニングとは桁違いにお金がかかる。洋服のクリーニングは数百円だが、和服の洗張は万単位だ。

 メンテにお金がかかることで敬遠する人は多いし、それがネックでなかなかきものに手がのびないケースもあるだろう。服なので、着れば汚れる。汚れたときに気軽に洗えないとなると、どうしても腰が引ける。わたしの腰も重かった。祖母のきものを保管しつつ、洗張に出すのを数ヶ月渋っていた。

 

 町の呉服屋さんへ、風呂敷で包んだきものを横抱きにして向かい、ちょっぴり勇気を出して扉を開けたのは、もう何年前になるだろうか。

 店内は小ぢんまり。反物や小物が少量並び、小上がりの机越しにお店の人と向かい合う格好となる。対応はご主人だったり奥さんだったりするが、二人とも雰囲気が似ている。おっとり穏やかで品がよく、とてもいい感じ。一度、スペシャルゲストのようにおばあちゃんが顔を出してくれたこともあった。わたしが持ち込んだきものは古いので、より詳しいおばあちゃんに意見を求めたのだ。いまの時代、ご老人の知識がこんなふうにリスペクトされる場面もそうそうないのではと思い、とても気分がよかった。

 

 洗張ひとつとっても、きものは本当によくできた服飾文化だなぁと感心してしまう。きもの以上にサスティナブルな衣服はない。染め替えや染め直しも可能なので、生地はそのままに色柄を変えることまでできる。傷みがあって一枚では着られなくなったきものは端切れになる。それこそきものが日常着だった時代は、破れるまで着て、最後は生地を裂いてはたきにしていた。

 

 そういう幸田文的な暮らしを実際に体験したわけではないけれど、それでもその余波のような感覚を、子供時代に祖父母を通してうっすら味わっている。きものが日常着だった時代の日本人は、現代の日本人とは、やはりなにかが違った。もうほとんど忘れかけているのだが、きものと付き合っていると、ふとした瞬間にそういう、かつての日本人が持っていたなにか大切なものを思い出すことがある。

八掛で失敗

 風呂敷を広げ、持ってきたきものの状態をチェックしてもらう。汚れの激しい胴裏だけ替えて、裾の八掛(はっかけ)はそのまま残すこともあれば、色見本を見せてもらって、新調することもある。八掛)はきものの裾がぱらっとめくれたときに見えるので、上級者はここに凝る。長襦袢もそうだけれど、見えないところも可愛くできるのって、沼だ。

 「凝りだしたらキリがない」という言葉は、「だからやめておけ」という否定的な意味合いにも聞こえるけれど、どれだけハマっても果てしなく遊べるよ、という意味に変換すると、無限の喜びが湧く。

 

 一度、八掛を替えてもらったのだが、これは失敗した。濃紺の紬だったので、元の八掛に限りなく近い臙脂色にしたところ、どうも年寄りくさい。この十年の体感速度からすると、こりゃあわたしもあっという間におばあさんになるなぁと、備えてしまった。しかし臙脂色を見るたびに「婆さん……」と思い、ときめきが萎える。無駄に「いつか」のことを考えず、いま好きかどうかに集中するべきだった。

 せっかく新調できる機会にしくじったショックがまだ尾を引いている。八掛は「裏」だけど、案外あなどれない。

サイズを直す

 はじめて町の呉服屋さんで洗張の依頼をしたとき、寸法を測ってもらった。身長と、胴回り、それから裄丈(ゆきたけ)。祖母のきものはわたしには裄(ゆき)が少し短いことも、このときわかった。裄は、首の付け根から手首までの長さ、要するに袖だ。肩の縫い代を出せば、少しは伸ばすこともできますよと言われ、お願いする。

 

 そういえば、わたしが母やダブル祖母からぽいぽいきものを貰えているのは、身長がそこまで違わないおかげである。祖母たちはわたしより背は小さい。けれどわたしも一五七センチほどしかないので、お端折り(おはしょり)で調整できる許容範囲なのだ。

 お端折りは帯の下にくる、生地の余りの部分。対丈(ついたけ)で着る男性のきものと違って、女性のきものは身長よりも長めに作られている。お端折りは着るときは扱いの難しい余り生地でしかないけれど、これがあるおかげで、アジャスターのように長さの調整が利く。

 

 そうして洗張に出したきものたちは、胴裏を替えたり、八掛を替えたり、ちょっとだけサイズを直したりして、ピカピカになって戻ってきた。絹は水を通すことで瑞々しい艶が増す。お値段は、一枚三万円ほど。たしかにお金はかかるけれど、代金に見合った素晴らしい職人仕事だ。

 以来、財布と相談しながら年に一枚か二枚ずつ、祖母のきものを洗張に出した。数年かけてようやくきれいになってきた。それでもあと何枚かは、貰ったときのままになっているけれど。

 

 というわけでこの数年わたしは、町の呉服屋さんに古いきものを持ってふらりと現れ、洗張を繰り返す、謎の女だった。店の方は「で、あなた何者ですか?」みたいなことは一切訊かない。あくまで、持ち込まれたきものについてのみ、充分な情報のやり取りをする。そういう適度な距離感を保ってくれるところがすごくいい。

 特にわたしが最初にきものにハマったときなんかが顕著だが、きものを売る店の人は、初対面でも友達感覚で接してくることも多い。「それ可愛いですよね!」と言って近づいてくる熱っぽい接客は、こちらのきもの熱が沸騰しているときなら最高のマッチングだけれど、そうでなくなった途端、一瞬にして心が離れてしまう。

 けれど町の呉服屋さんは、いつも平熱で、適温で、接客態度が安定している。商売っ気を出すこともなく、控えめに助言や提案だけくれる。最初に測った寸法がきちんと手書きの顧客ファイルに収められているので、反物を渡して「長襦袢に仕立ててください」とお願いすれば、あとは仕上がりの電話を待つだけだ。

 

 さて、先日電話が鳴った。

 長襦袢が仕立て上がりましたとの報に、うきうきと店へ向かう。反物でしかなかった長襦袢の生地が、襟のついたガウン状に完成していた。お尻部分を補強するための、居敷当て(いしきあて)という裏地。衣紋抜き(えもんぬき)という、襟を具合よく調整するための隠し細工がされ、文句なしの仕上がりだった。 この間ちらりと、息子さんが他の呉服屋さんで修業中と耳にした。この店になくなられては困るので、息子修業ガンバレ! と密かにエールを送っている。

<第8回に続く>

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