官能WEB小説マガジン『フルール』出張連載 【第79回】由糸子『恋の傷さえ彼の罠』

公開日:2015/3/31

「どうしたの? わからないことでもあった?」

 理央ちゃんは首を振って、私の髪に触れた。

「塔子さんの髪って、キレイですねぇ! こんなに長いのに、全然傷んでない! いいなぁ。私、髪が傷んで困ってるんですよぉ」

 ハーフアップにしていた私の髪に、理央ちゃんの指がすり抜ける。頭皮にも指が触れた瞬間、私は心の中で声を上げた。

 やだ。やめて。お願いだから、触らないで。

 理央ちゃんの指先が、記憶の中の一弥のものと一緒になって、髪を撫でる。するんと指の間を抜けた髪の束が首元に触れると、私の体は大きく震えた。

「塔子さん、どうしたんです? 私、何か変なことしましたぁ?」

 理央ちゃんの声に煽られて、鼓動が大きくなる。私は書類の束に目を落としたままで、ゆっくりと息を吐き出した。

「……苦手なのよ。髪を触られるのが」

「えーっ! どうしてですか? 変なのー! こんなにキレイな髪なのにー!」

「誰にだって、苦手なものはあるでしょ?」

「触られたくないなら、切っちゃえばいいじゃないですか」

 そうだ。切ればいいのに。どうして切らないんだろう、私は。

 誰か私の代わりに、理央ちゃんに答えて。

 本当は切りたいの。切ってしまおうと何度も思っていたの。なのに一弥の声が蔦のように絡んで、私を離さない。

 

――この髪、俺が日本に帰ってくるまで、絶対に切るなよ。これは俺のものだから――

 

 あの男の言葉のために、私はラプンツェルのように髪をのばし続けるつもりなの? いつかあいつが帰国したら、この髪を伝って、私に辿り着くとでも思ってる? バカバカしい。

「塔子が髪を切らないのは、俺のためなんだよ。俺が、長い髪が好きだから」

 その声が聞こえたとき、私は記憶の中のあいつが話しているのだと思った。だって今、ここで一弥の声が聞こえるなんて、あり得ないもの。あいつは遠い国にいるんだから。

 なのにその声は、生々しく響いた。どうしてここで、あいつが話しているの?

 私は書類から顔を上げる。逞しく引き締まった顔と体が、私に影を落とした。

「一弥……」

 私の口からこぼれた言葉に反応して、一弥がニッと笑う。いたずらっぽくて、やんちゃで、いつも私の心をかき乱した笑顔。

 久々に見るそれが、私の中に大きな渦を生み出した。地鳴りのような音を立てて、懐かしさとか悔しさとか、いろんな感情を飲み込もうとしている。

「……いつ帰ってきたの?」

「三日ぐらい前かな? それが何? もしかして、『帰ってきたよ』って連絡が欲しかった?」

「い・ら・な・い! くれるって言ってもいらない!」

「まぁまぁ、遠慮するなよ、塔子。二年ぶりの感動の再会だぞ? お帰りのチューぐらいしてもいいと思うんだけどなぁ」

 相変わらずだ。何も変わっていない。こんなふざけた言葉も、薄い唇も、長い手足も、二年前と同じだ。

 変わっているのは、肌の黒さぐらいかな? それが、こいつが二年の間、中東で過ごしたことを感じさせる唯一のものだった。

「どうした? ほらほら、恥ずかしがらずに抱きついてもいいんだぞ」

 一弥は私の肩に手を置くと、胸へと引き寄せた。

 冗談じゃない。こんなヤツに、抱きつきたくなんかない。

 一弥の胸元に、危うく鼻先がつきそうになる。体をねじって逃げ出したけれども、彼の匂いだけはしっかりと私を捕らえていた。アンバーの淡い香りが、手をのばして私を抱き締める。

 

 

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