人生の1シーンを描いた映画のような、奇跡と感動のストーリー「ばあちゃんが生きる道」『ショートフィルムズ』④

文芸・カルチャー

2019/9/4

『ショートフィルムズ』(ブックショート/学研プラス)

ブックショート(米国アカデミー賞公認・アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジアが展開する短編小説公募プロジェクト)とのコラボレーションした、書籍『ショートフィルムズ』。感動的な短編映画を観たような読後感の、傑作短編全25話を収録! 本書への入り口は、セリフのないサイレントマンガで始まる。マンガは各短編の合間に入り、物語全体をひとつの世界につなぎ、最後に驚きの結末が…。

ばあちゃんが生きる道

 かすかに上下に揺れる船室で、横になり毛布を被る。博多港を出て数時間、フェリーは明け方4時頃に経由地の島から新たな客を乗せた。

 小学6年生の頃までは、夏休みの度にこのフェリーに乗った。船酔いしながらマンガ雑誌を読んだこと。夜の真っ暗な海に月だけがぼんやりと浮かんでいたこと。見知らぬおじさんのイビキで目が覚めて、見たこともない色の朝焼けに出会ったこと。朝8時にはばあちゃんの家に着いて朝食にありつけるというのに、ついついスナック菓子を買って食べてしまったこと。それから、気のいいおばさんが蜜柑をくれたりだとか……おそらく人生で15回ほどは世話になっている、この雑魚寝仕様のだだっ広い客室には、いろいろな思い出が詰まっている。

 そして大人になって乗船した今日。群青に朱色が侵食し始める美しさと、やはり見知らぬおじさんのイビキという残念なハーモニーに、帰りは個室を取ろうと僕は密かに決意した。

『お降りの方は携帯電話等お忘れ物のないよう、2階フロント横へお越しください―』

 定刻に島に着き、荷物を肩に引っ掛けてフェリーを降りると、出迎えの島民たちの中にじいちゃんの姿があった。今か今かと待っている様子のわりに僕には気づかず、懸命にきょろきょろと視線をめぐらせている。

「じいちゃん、来たよ」

「……んまあー、大地か。立派んなって分からんじゃったぁ」

「ハハ、そうかな」

「……?」

 僕の声に、じいちゃんは首を小さく傾げて、申し訳なさそうに笑った。

「耳が全然聞こえんと!」

―あ、そうだった……。

 80歳を過ぎた頃から、もともと悪かったじいちゃんの耳は、急激に悪くなった。が、頑なに補聴器を拒んでいるらしい。

「……お腹空いた!」

 じいちゃんの耳元でできるだけゆっくり、大きく、はっきりとそう伝えると、じいちゃんはよしきたとうなずいて、待たせていたタクシーに案内してくれる。

 祖父母と顔を合わせるのは、かれこれ6年ぶりだ。子どもの頃は、夏休みの度に会いに来ていたのに。中学に上がると部活が忙しい、高校生になればバイトと遊びで忙しい、大学生になれば金はないし就活で忙しい……ありふれた理由ではあったが、本当にそんな理由で足を運ばなくなった。

 けれど、一体何がそんなに忙しかったのか、今となっては分からない。今回は、出張で博多まで出てきたものだから、そのついでに寄ることにした……来ようと思えば来れるのだ。

 昔ながらの家ではあるが、キッチンを改装して洒落たダイニングを設け、ばあちゃんはそこで手料理を振る舞うことに命を懸けていると言ってもいい。家に着いて荷物を置くなり、日頃の僕の食事の2日分はあろうかという品数の料理が、テーブルに所狭しと並べられた。

「あのさ、ばあちゃん……朝だからね? 僕、こんなに食える胃袋持ってないよ」

「まあー、いつからそんな小食になったとね。大地は豆ゴハン好きじゃったろ? 刺身には白ご飯のほうがよかか?」

「ああ、うん……ちょっとだけちょうだい。豆ゴハンも」

 アラの吸い物に、獲れたてのイカ刺し、昨夜の残りだという鯛の煮つけ、ちょっとくらい肉っ気もいるだろうと張り切ってくれたらしいトンカツ。酢の物やサラダ、デザートの果物まで付いたフルコースからは、否応なくばあちゃんの歓迎の意が感じられた。

「1泊しかできんなら、たらふく食べさせんばね!」

「お、おう」

 僕の胃袋、破れないだろうか。けれど、ばあちゃんの料理は美味しい。

 僕が食べればニコニコと笑いかけ、じいちゃんに「嬉しかねぇ」と言う。訛りがあるが、「嬉しいね」の意味だ。耳の遠いじいちゃんは、「はい、なんでしょう?」と穏やかに笑い、ばあちゃんはさっき僕がしたみたいに、じいちゃんの耳に顔を近づける。

「……ああ、そうか。そうぞ? ばあちゃんのご飯は美味かとぞ?」

 じいちゃんが誇らしげにするのをばあちゃんが笑ってしばらく……腰が痛いと言うじいちゃんは立ち上がって、ゆっくりと自室へ戻っていった。するとほどなくして―

『キーン……!!』

 隣の和室からのテレビの大音量に度肝を抜かれた。まるでマイクでも通しているのかと思うほど、盛大に室内に響き渡る。

「何これ!? ばあちゃん、これ、じいちゃんの部屋!?」

「耳栓ば着けんね。そこに置いてるよ」

「はっ!?」

 そこは、テレビのボリュームをどうにかするほうが先ではないのか。

「……食べ終わったなら、散歩行こうか。天気もいいし、孫とお散歩なんてよかね」

「う、うん……」

「お赤飯の用意の間にね。ウフフ」

 茶目っ気たっぷりに微笑んで、ばあちゃんは、もち米をザルに上げた。

 外に出ると、磯の空気がふわっと頬をなで、見上げた空にはトンビが飛んでいた。

「大地は、炊き立ての赤飯も好きじゃったろ?」

「好きだけど、今は、赤飯よりテレビの話だよ。さっきの何?」

 そうたずねると、ばあちゃんは困ったように眉を下げる。

「……じいちゃん、補聴器嫌がるんだって?」

「うーん……怖かとよ。よかと。さいわい、お隣さんまでは音が届かんくらい離れてるけん」

「いやいや、あれじゃばあちゃん、じいちゃんと一緒にテレビなんか―」

「そがんなことはなかよ。ちゃんと一緒に観てます」

「……耳栓してまで?」

 あんなの、とてもじゃないが同じ部屋になんていられない。

「僕が説得しようか? 補聴器。孫の言葉なら聞き入れてくれるかも」

「ううん。せんでよか。ありがとうね」

 ばあちゃんは僕の腕を手の平でトントンとなでて、のんびりと空を仰いだ。

「大地がいると穏やかでよかねぇ。千波ちゃん連れて、またゆっくり遊びに来なさいよ」

 なんとなく足を止めてしまった僕に気づかず、ばあちゃんは2歩、3歩と先を行く。

―ばあちゃんって、こんなに小さかったっけ……。

 やけに小さく頼りない背中に見えたのは、気のせいではない。そこにはたしかに“老い”があった。ずっと元気だと思っていたけれど、80近くになると緩やかに背中は丸くなり、何年か前に少し足を悪くしたせいか肉も落ちた気がする。

 ばあちゃんは、それっきりじいちゃんの話を放っぽり出して、僕の結婚式の時はどうだったとか、僕の仕事はどうなんだとか、まるで小学生の子どもにそうするみたいに、僕の話ばかりを聞きたがった。

 1泊は本当にあっという間だ。

「また来いよぉ」

「うん。じいちゃんも、体を大事にね。腰、無理しないように!」

 声を張ると、じいちゃんは、聞こえているかはわからないが、うんうんとうなずいた。

「大地、タクシー来たよー!」

 家の前に出ていたばあちゃんが、玄関から大きな声で僕を呼ぶ。結局、ばあちゃんは僕のいる間、一緒に海辺を歩いた30分以外のほとんどを台所で過ごした。

 朝あんなに食べたのに昼飯もきっちり出てきて、食べ終えればまたすぐ台所に立ち、今晩は何にしようかと考え、足りないものを近所の店に買いに行き、3時には夕食の準備に取り掛かった。座ることもなく、ずっと。僕に食べさせたかったのだろう、ということだけではない―他にやることがないのだ。

 歌うことは好きでも、街のようにカラオケがあるわけじゃない。ばあちゃんの娯楽といえば、畑いじりと鼻歌くらいのもので、毎日毎日、このひたすらゆっくり時間が流れる土地で、じいちゃんのために食事を作り、たまに近所の人や島にいる親戚らと過ごし、そうしながら耳と腰の悪いじいちゃんを支え、自らも老いていく。

「……ばあちゃん」

「ほらこれ持って。お赤飯握ったから船で食べんね」

 昨夜、3人で少し話をした後、何もすることがなくて10時半には布団に入った。信じられないくらい時間の流れがゆっくりで、もしかして本土と島では時間軸が違うんじゃないかと馬鹿なことすら考えるほどだった。

「ばあちゃん、また来るから。でも動けるうちにこっちにも遊びにおいで」

「そうするよ」

 ばあちゃんはくしゃりとした力いっぱいの笑顔で、僕に手を振った。僕をにこやかに見送るその心の中で、誰にも聞こえることのない悲鳴がこだましているような気がした。

「……あのさ」

 実家に出向いて、土産をテーブルに並べたところで、母に切り出した。

「ばあちゃん、大丈夫かな」

「……どうだった?」

 なにか察している様子の返答に、胸がざわつく。

「母さんね、もう何度もこっちで一緒に住もうって言ってるんだけど、だめなんだよね」

「なんで?」

「じいちゃん。補聴器嫌がるから、テレビの音量すごいでしょ。ご近所トラブルになるの分かりきってる。ばあちゃんは来たいかもしれないけど」

「来たいなら、じいちゃんを説得すりゃいいじゃん」

「ううん、問題はそれだけじゃないのよ」

「……どういうこと?」

 土産の干物を手に取った母は、ばあちゃんそっくりな顔で眉根を寄せた。

「……ずっと住んできた島を出てこっちに来て、そう遠くない将来に葬式になるでしょ。そこにお別れをしに来るのは私たち家族だけよ。いくら仲がよくたって、高齢で島から出られない友だちや親戚がほとんどなんだから」

―ああ、と思う。ばあちゃんは、じいちゃんは……自由に動くことが難しいのだ。

 時間がない、金がない、僕がそう言っている間も、ばあちゃんはたったひとりでじいちゃんの面倒を見てきた。僕はもっともっと、顔を見せに行ってやれたはずだった。もっともっと、一緒に過ごす時間を持てた。たとえそれが無理でも、あの淡々と過ぎゆく生活の中に舞い込む1本の電話、1通の手紙がどれほど孤独を和らげただろう。

 粛々と家事をこなし、じいちゃんの面倒を見て、たまに好きな歌を歌う。子どもが好きなのに、あの島の子どもはどんどん減っている。だから、あの朝食がすべてだった。どれほど待ちわびていたのだろうか。ばあちゃんは、僕を。いや、僕だけではなく、会いに来てくれる人を……。

―それから3年が過ぎ、僕は両親とともに島へとやって来た。千波は臨月で動けず、自宅で留守番だ。

 ばあちゃんの部屋の箪笥を開けると、一番下の引き出しの隅っこに煎餅でも入っていたのだろう大ぶりの四角い缶がある。ばあちゃんのことだから、きっと何か面白い秘密の宝物でも隠していたに違いない。少しサビたそのフタを開けると、中身はどれも古びた手紙だった。

『花子様
 ここへ戻って来てしまいました。弟は逝ったというのに、何故か私だけ。情けない思いです。怪我の治療により耳を塞がれ何も聞こえず、聞こえないことよりも、痛い耳に触られるのが怖いのです。恐ろしくて眠れないので、こうして筆をとっております』

 戦争が終わって、じいちゃんは長崎の病院に入れられたと聞いたことがある。多分、その頃のものだろう。爆撃を受け、耳の治療を余儀なくされたことが説明され、この先の不安を吐露し、けれど生きて帰れた希望はばあちゃんとの生活だと、こそばゆいプロポーズの言葉で締められていた。何通も、何通も、それらは、じいちゃんからのラブレターだった。

 でも、一番下にあった1通だけは違う。

『和夫様
 耳が聞こえないのはさぞ不安でしょうに、あなたは一度も声を荒らげたことはありませんね。ずっと、いつも、穏やかな波のよう。私もお付き合いしますからね。

 けれど、私の下手な歌はもう聞こえないはずなのに、どうして私が歌うとあなたが笑うのか。とても不思議なんですよ』

 くらり、めまいがして、胸がつぶれそうに締め付けられる。じいちゃんはこの手紙を読んだのだろうか。いや、きっと読んではいない。ここにあるということは、渡せていないか、渡す気がなかったということだ。僕が、「補聴器を着けるよう説得しようか」と言っても、「ううん。せんでよか」……ばあちゃんはそう言って微笑んだ。

 じいちゃんは、補聴器が怖かった。だからばあちゃんは島を離れず、じいちゃんと一緒にここで生活することを望んだ。孤独じゃなかった。ばあちゃんはちっとも寂しくなんかなかった。きっと。子や孫に簡単に会えない環境でも、苦労をしても、そんなものを打ち消してくれるだろう大きな愛情があったから。じいちゃんとばあちゃんが、60年以上積み重ねてきた時間が、そこにあったから。

 僕はボロボロとこぼれ落ちる涙で手紙を汚さないように、ぐっと上を向いた。こんなに泣いては、鼻が詰まってばあちゃんの匂いがわからない。それは……畳の匂い。仏壇の線香。庭のキンモクセイ……。箪笥だけに留まらず、部屋にまで染み込む防虫剤の匂い。それから、記憶の中の、蒸したもち米の湯気。どこか懐かしい、あたたかな気配。

 じいちゃんとばあちゃんは、車にはねられて亡くなった。2人そろって街の病院へ行った帰りだった。最期まで仲良く連れ添った、島の人たちにとっても自慢の夫婦だったそうだ。

 ばあちゃんの匂いを胸いっぱいに吸い込むと、今にも声が聞こえてきそうだ。家に帰ったら、千波にじいちゃんとばあちゃんの話をしよう。まずは、“ばあちゃんの匂い”について説明するところからだろうか。

(作 寧花)

表紙写真:岩倉しおり

<第5回に続く>