毎日ムダな時間を過ごしていませんか? 通勤時間で死なない方法/『人生の主導権を取り戻す 最強の「選択」』⑥

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更新日:2021/6/28

目覚めて何をするか、何を食べるか、どう働くか、いかに休むか、どのくらい鍛えるか、どんなSEXをするか、どうやって深く寝るか。1日の積み重ねが人生であるからには、日々をどう過ごすかが人生を決める。そして、1日の過ごし方は、自分の「選択」次第だ。その最強の「選択」とは――。年商70億突破の筋肉CEOが、身体も心も自分最高レベルにつくり変えたそのメソッドを余すところなく伝える。

『人生の主導権を取り戻す 最強の「選択」』(オーブリー マーカス:著、恒川 正志:訳/東洋館出版社)

第5章 通勤時間で死なない

時間が何よりも貴重であるなら、時間を無駄にすることが一番の浪費だ。
―ベンジャミン・フランクリン

何も、あなたの通勤が1日のうちでもっとも恐ろしく、フラストレーションの溜まるものである必要はない。それどころか、朝と夕方のもっとも楽しく、生産的な時間にすることだってできる。気持ち一つだ。通勤を実刑判決と考えるのをやめて、チャンスと捉えるだけでいい。それだけで、何もできないデッド・タイムだったものが、学び、成長し、マインドフルネスを実践するアライブ・タイムへと変わる。アライブかデッドかの単純な違いだ。それなら、アライブのほうを選ぼう。

支配されている状態

 昔から好きだったコメディ映画に『リストラ・マン』というのがある。監督は、『Beavis and Butt-Head』『26世紀青年』『Silicon Valley』の鬼才、マイク・ジャッジだ。主人公はピーター・ギボンズというソフトウェア・エンジニアで、退屈な人生、むなしい人間関係、行き詰った仕事に別れを告げるというのが話の筋だ。映画の序盤で、すぐに別れることになる彼女と一緒に催眠療法士のもとを訪れ、治療を受ける。彼は来院理由として、毎日がそれまでの人生で最悪の日に感じられることを話す。悩みの種は無能な中間管理職の上司で、どうでもいい書類にまでわざわざ表紙をつけさせようと、ねちねちと攻撃をしかけてくる。後半で、100万ドルあったらどうするかと隣人に語るシーンがある。彼は、ゆったり座っているだけで、何もしないと言う。隣人は、何もしないで座っているだけなら、100万ドルがなくたってできるじゃないかと反論する。そして言う。「おれの従弟を見てみろ。文なしのくせに、何もしていない」

 『リストラ・マン』がどこで始まるか知っているだろうか。車の中だ。通勤中。毛嫌いしている仕事に向かって大渋滞の中を進みながら、90秒のスパンで、怒り、フラストレーション、パニック、やけくそ、激怒、敗北を経験していく様子が映される。マイク・ジャッジがこのシーンを映画の冒頭にもってきたのは、誰もがピーターの窮状と一つひとつの感情をすぐに理解できるとわかっているからだ。『リストラ・マン』が公開されたのは1999年だが、その後、私たちの毎日の通勤の状況はそれほど変わっていない。いや、そうではない。変わっている。さらに悪くなっている。

 1980年にアメリカ合衆国国勢調査局による調査が始まってから、通勤時間は20%長くなった。それは国の一部だけのことではない。全国的なことだ。平均的なニューヨーカーは、毎日職場との往復に70分を費やしている。ワシントンDCでは平均的なロビイスト、閣僚、公務員は通勤に32.8分を費やしている。西海岸では、平均的なオークランドの居住者は職場に着くまでに29.9分、インランド・エンパイア紙の平均的な社員は29.8分を要している。人口の3%は片道90分以上かけて通勤している。

 そして、アメリカと言えば、長時間の運転、郊外、5車線のハイウェイの国だ。西ヨーロッパでは公共交通機関が発達し、環境への意識が高いが、平均的な通勤時間は実際にアメリカのもっとも密集した都市よりも長い。出勤前にもう一つエクレアを食べておいたほうがいい。

 今はインターネットの時代で、どこでも好きな場所から仕事ができるため、この状況は改善されているように思えるかもしれない。Uberとライドシェア・アプリの使用により、交通渋滞が緩和されるように思えるかもしれない。だが、それは違う。私たちは自分の車で多くの時間を過ごしている。

 これが大きな問題になる―『リストラ・マン』の冒頭の朝の渋滞シーンで、ピーターがつねにイライラしている―のは、車(または公共交通機関)の中での時間が実際には自分の時間に感じられないことが多いためだ。刑務所に向かって車で行進させられているかのように感じられるためだ。実刑判決のように感じられるためだ。交通渋滞のことを行き詰まり状態(グリッドロック)と呼ぶのは偶然ではない。あなたは行き詰まり、身動きが取れなくなっている。車の山に囲まれて、逃げ場もなく、自分ではどうしようもない。

 そして、この時間が自分の時間に感じられないので、うまく利用することもできない。利用することなく、ただ耐えている。浪費している。そのため意識しているかどうかは別として、通勤時間が1日のうちでもっとも怒りを感じる時間になっている。牽引車サービスの大手、AAAによる2016年の調査(おそらく、すべての車のレッカー移動の原因を特定しようとしたもの)によると、運転手の約半数が運転中になんらかの激怒を示し、800万人以上の運転手が運転中に猛烈な激怒を示した。ここには、激しくクラクションを鳴らす、中指を突き立てる、窓越しに怒鳴る、故意に煽る、ぴったりくっついてくる人の前で減速する(これは常習者の悪質なやり口だ)などが含まれる。

 私たちは基本的に、自動車による酒場のケンカを毎日繰り広げているのだ。しかも、それが1日のはじまりなのだ。これまで何度も言ってきたように、1日の過ごしかたを最初に方向づけることはとても重要だ。想像してみてほしい。あなたは、割りこんできた相手と窓越しに怒鳴りあって1日を始めようとしている。あなたが運転中のケンカを売った側だとしても買った側だとしても、あるいは通勤時間が短くても長くても、最悪の時間になることは間違いない。

 もったいなさすぎる。輝かしい目覚めの60分を過ごしても、通勤中のフラストレーションですべてが灰と化す。もちろん、自動車に監禁されるようにして、家と職場の間に挟まれている状態は私にもわかる。そして、帰りはさらにひどい状態であることもわかる。もう少しで家に帰れることがわかっている時間だ。待つ時間の一瞬一瞬が苦痛になるときだ。偶然の出来事の一つひとつ、停止信号の一つひとつ、のろのろとした合流の一つひとつ、短い一時停止の一つひとつにより、自由な時間が先送りされていく。

 これについて、良いことは何もない。それでも、私たちが対処できることだ。その時間を取り戻すことができる。これをなんとかすることで、支配され、打ち負かされるのではなく、支配することができる。1日を支配することは、天然の水を飲むことや身体に良い食品を摂取することほど簡単なことではないため、正しいマインドセットをもつことが大事だ。人生のあらゆる瞬間に自分で選ぶ権利があるという事実を受け入れることが大事だ。

 通勤時間を嫌悪するのも、周りの運転手を嫌うのも、30~90分、ぼうっとして時間を無駄にするのも、選ぶのはあなただ。別の選択をして、退屈で気の滅入る通勤時間を、向上と成長の時間にすることもできる。

支配する

 作家のロバート・グリーンはすべての時間について、有益でシンプルな考え方を示している。“アライブ”か“デッド”のどちらかというものだ。

 私たちはみな、デッド・タイムを経験している。デッド・タイムというのは、基本的にこれまでに述べてきたことだ。催眠療法を受けるまでの、ピーター・ギボンズの人生のすべての時間だ。望まない場所で身動きが取れなくなり、それに身をゆだねている状態だ。道路で身動きが取れなくなり、好きでない仕事で身動きが取れなくなり、そのような状況から生まれる感情に身を捧げたり、屈したりする。あなたが私と同じなら、イライラを募らせるようになるかもしれない。あなたがピーターと同じなら、顔が引きつり、気をもみ、動揺する。ただ早く終わってくれることを願う。どうしてみんな早く進めないんだ、まったく。

 その逆の状態がアライブ・タイムだ。ここでは目的と進歩を感じる。その瞬間にしたいことが、そっくりそのままできている。エンジンが全開の状態で、目の前の仕事がなんでも簡単に達成できる感じがし、エネルギーがあり余っているのを感じる。あなたは燃えていて、それを自覚している。

 グリーンの言葉でもっともだと思うのは、どんな時間もアライブ・タイムにできるということだ。デッド・タイムが自分の選択次第であるのと同じで、アライブ・タイムも自分の選択次第だからだ。抽象的に聞こえるかもしれないが、こう考えたらどうだろうか。今朝目覚めてから、すでにいくつもの選択をしている。起きあがり、動き、自分を励まし、正しい食事をし、サプリメントを摂取し、今は仕事に向かっていると。これらの時間の使いかたを自分で選択した。何について考えるか、身体に何を取り入れるか、どう感じるかを自分で選択した。あなたはその時間を支配している。それなら、どんな時間でも支配できないだろうか。仕事や学校に行くことに選択の余地はないとしても、通勤時間は支配できないだろうか。実は、できる。これが、通勤時間を“恐れる時間”から“楽しむ時間”に変え、すぐに立ち去るべき無駄な時間から楽しみな時間に変える秘訣だ。

 このような時間を自分のものにするには2段階の手順が必要だ。気持ちを準備して開くことと、気持ちをほぐして満たすことだ。私の好きな言いかたをするなら、“マインドフルネス”と“マインドフィルネス”だ。

マインドフルネス

 あなたはきっと、この1年の間に“マインドフルネス”あるいは“マインドフルネス実践”という言葉を聞いたことがあるだろう。とはいえ、話の中でその言葉が出てきても興味がもてなかったのではないだろうか。マインドフルネスっていうのは、大成功を収めたシリコンバレーの起業家(つまり、あなたではないということ)が“悟りの部屋”をつくったときにしか起こらない特別なものだろうと考えて。あるいは、マインドフルネスなんてくだらない戯言だと思って。

 マインドフルネスは、あらゆるメディアで取り上げられ、あらゆる会合であなたのあらゆる問題―心配でも、無気力でも、集中力でも、孤独でも、男性型脱毛症でも、世界の飢饉でも、なんでも―を解決してくれる妙薬のように扱われているが、核の部分ではとてもシンプルだ。

 単に現在に気持ちを向け、そこに意識を集中する。ただ、それだけだ。マインドフルネスでは身の周りの感覚だけにチューニングを合わせる。本気で焦点を合わせつづけなければならないのは、この瞬間、この場所のことだ。世界で起こっていることではない。渋滞のフリーウェイにあなたを閉じこめている、怒りやフラストレーションに満ちた運転手たちではない。忍び寄る仕事のストレスでもない。

 その意味で、マインドフルネスはある種の無の状態である。銀行口座でもなく、希望でもなく、恐れでもなく、ああすればよかった、こうなっていたかもしれない、こうすべきだったという類のことでもない。それと同時に、マインドフルネスはすべてであるとも言える。あなただ。あなたのすべて。今、この瞬間の。存在するのはこの瞬間だけなのだから。

 この説明でもなんのことかよくわからないという人のために、もっと具体的に示そう。何かをすることになっていて、気づくとほかのことに気を取られていたという場合、これがマインドフルでない瞬間だ。そのような瞬間は、自分で思っているよりも多いものだ。だからこそ、実践としてのマインドフルネスは強いパワーを秘めている。この瞬間に意識を戻し、そうする中で、その日の残りの時間は目の前のことに心を開き、準備するのに役立つ。これは禅の本質でもある。伝統的な禅の修行では、師匠から四つの非常に簡素な所作を求められる。弓道、書道、茶道、華道だ。目標は印象的な結果を生みだすことではなかった。つまり、的中、最高傑作、完璧な茶、見栄えの良い花器といったことは二の次だった。目標とするのは、過程そのものだった。ほかのことに気を取られずに、目の前の所作に全神経を集中できたか。完璧な射ができ、完璧な筆の運びができ、心、身体、精神がすべて目の前の所作に統合されていたか。

 私がオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』を読んでいたとき、ここが理解の難しい部分だった。私にとって、完璧な射とは、的の中心を射抜くことだった。ぱっと放し、すっと的に吸いこまれること。だが、禅の師匠にとっては、結果は問題ではなかった。少なくとも、当座のところは。大事なのは、矢をつがえ、弦を引き、狙いを定め、呼吸を整え、放すことにすべてを集中させる完全なマインドフルネスだった。最終的に、これがまぐれ当たりではなく、百発百中につながる。しかし、それさえも大事なことではなかった。大事なのは、生きかたに関するものだった。過去や未来に気を取られて次々と心を移すのではなく、この場所、この瞬間に集中すること(スピリチュアル界の大御所、ラム・ダスの言う通りだ)。禅のマインドフルネスは、今に至るまで、瞑想の問題の答えとなっている。

 瞑想もまた、関連するアプリやガジェットにより流行語となっているが、本当はマインドフルネスのための一つの方法に過ぎない。しかし、瞑想と言うと、山にこもった僧侶や、目を閉じてうんざりするほど長く座っていることをイメージしてしまい、ブランド化が難しい。私たちの多くが瞑想に挑戦しながら、約束された至福の境地に到達できないからだ。瞑想で問題となるのは、一般的に管理された環境が必要なことだ。瞑想のための時間、静かに座っても痛くない身体、静かな空間、ほのかな明かり、好みのお香が必要となる。だが、これは実生活とは違う。マーベル・スタジオのヒーロー、ドクター・ストレンジのように魔術を実践するために異世界に足を踏み入れられるのは、1日のうちせいぜい1時間だ。魔術師であることは間違いなくすばらしいことだが、マインドフルネスをもっとも必要としているときに、魔術を使うような状況は訪れない。そのことは禅の師匠も心得ており、ネイティブ・アメリカンの訓練を受けたトラッカーで、作家になったトム・ブラウンも心得ていた。必要なのは、通勤中でもできる瞑想だ。そこで、彼は私が広域周辺注視と呼んでいる方法を編みだした。

広域周辺注視

 顔の筋肉に力が入らないように、できるだけ大きく目を開く。視野の中心に焦点を合わせず、ぼかした状態にする。頭の中だけで、視野の周辺で起きているすべてのことに意識を向ける。上、下、左、右。少しぼんやりしていても問題ない。そして、特定のものに焦点を合わせないまま、すべてに意識を向ける。風にそよぐ1枚1枚の葉。通りかかる人たち。遠くを飛ぶ鳥。布の皺(しわ)。すべてを視界に収め、何にも焦点を合わせない。どの瞬間も何かが違っていて、つねに変化している。人生と同じ。これが人生だ。お腹で呼吸する。そのときそのとき、起こっているすべてのことに意識を向ける。身の周りの細部一つひとつを観察する。一つも見落とさず、特定のものに焦点を合わせもしない。今感じている、澄み切った、新鮮で心地よいこの不思議な感覚。これが広域周辺注視だ。マインドフル瞑想とは、このこと以上でも、以下でもない。

 私は毎朝、約20分かけて、オースティンの自宅からオニットのオフィスまで通勤しているが、通勤することに支配されているときは、ラジオをつけ、信号で止まるたびにインスタグラムやメールをチェックしている。そうすると職場につくまでに、私は神経過敏になっている。一方、朝の時間を支配できているときは、広域周辺注視のマインドフル瞑想が実践できている。特定の人やものだけを注視しないことで、「決定」という脳内の負担を一時(いっとき)忘れて、頭をリラックスさせる。マインドフル瞑想を選ぶことさえ忘れなければ、お金もかからず、簡単に、デッド・タイムをアライブ・タイムに変えることができる。

 多くの人が、この章で私が述べたことはほとんどすべて、ヒーリング・クリスタルでできたマイクで囁きかけたほうがいいと思っているかもしれない。そう思うのもわかる。しかし、マインドフル瞑想を支えているのはクリスタルではなく、確かな基準となる科学だ。研究に研究を重ねて、マインドフルネスの実践が具体的な現実世界の成果を出していることが明らかになっている。1万7000件を超える診療記録を対象とした研究で明らかになったように、マインドフルネスを実践した人は実践していない人とくらべて、病院でなんらかの手当てを受ける割合が43%少なかった。合計で1140名の患者を対象とした39の研究のメタ分析では、多くの状況、特に心配や抑鬱症に関する状況で、マインドフルネスに基づく治療が“確かな”効果をもたらしたことが明らかになった。

マインドフィルネス

 マインドフルネスはデッド・タイムをアライブ・タイムにする方法だが、私がマインドフィルネスと呼んでいるものは、その時間に命を吹きこみ、生産的にするもののことだ。意識を集中し、開かれた状態になった頭を満たす(フィル)ものだ。これは覚悟をともなう選択であると同時に、現実的な選択だ。あなたの通勤時間がアメリカ人の平均と同じ30分間ぐらいだとすると、その時間ずっと、呼吸法を実践し、運転し、ヤモリのように自分の真横まで視界に入れた状態でいるのには長すぎる。できたとすれば、すばらしいと思う。でも、私を含めてほとんどの人は、毎日、そんなに集中できるものではないため、この時間を有効に使おうと思えば別の方法が必要となる。その方法で、通勤に支配されている状態から抜けだし、支配している状態になる必要がある。

 そのため、私は通勤の残り時間を使用して、何かを学んでほしいと思う。もちろん、ただラジオをつけ、大声で歌いながら運転するのも一つの方法だ。誰でもボリュームを上げて乗り切る必要があるときもある。しかし、その時間を何かの勉強に充て、(物を見る)視界だけでなく、(物事を見る)視野も広げるようにしたらどうだろうか。

通勤大学

 iPhoneは“通勤大学”だ。安くはないが、MBAよりは安い。学年の終わりにテストもないし、好きな授業を選べる。そんなわけで、マインドフルネス実践が終わると、私はスマートフォンでポッドキャストに接続する。

 興味の対象に応じて、選択肢は無数にある。くわしくは「処方箋」で述べるが、ここでは私の聞かないものを挙げておく。ニュースとトーク・ラジオだ。私はヘッジファンドを運用しているわけではないし、政界に身を置いているわけでもないので、平均的な人間である私がニュース速報をリアルタイムで追う必要はない。市民として必要な情報を押さえておくことは大事だと思っているが、暴力と衝突が24時間休みなく延々と流されるニュース番組を視聴して神経をすり減らすつもりはない。同じ理由で、特定の政治的信念に基づいたトーク・ラジオはやめたほうがいい。大事なのは、何かを学ぶことであって、つまらない話に耳を傾けることではない。あまりにも多くのメディアが人を挑発し、心をかき乱す―これはマインドフルネスともマインドフィルネスとも対極にある―ようにできていて、情報を得ていると思っても、実は大きな詐欺に引っかかっているということがある。心理学者はこれを「麻酔的逆機能」と呼んでいる。実際に、ニュースを追えば追うほど、活動的で積極的な市民の姿から遠ざかってしまうこともある。情報を取り入れ、それに基づいて行動することが難しくなるためだ。

 ニュースの過剰供給を避け、内容の豊富なポッドキャストにたどりつくことができれば、学べることの多さに驚くに違いない。ポッドキャストで人生が大きく変わったと、私のところに毎日誰かしら言いに来る。1日に何人も来ることもある。ポッドキャストは今日(こんにち)のメディアでもっとも影響力のあるものだと思う。私がオニットという会社を設立するときも、その背景としてポッドキャストを利用した。あなたも、ポッドキャストを利用して自分の望む人生を作りあげることができる。「学校教育は生計を立てるのに役立つ。自己教育は財を成すのに役立つ」と言ったのはジム・ローンだった。私の場合、まさにその通りだった。

 ポッドキャストのいいところとして、本の著者のすばらしいインタビューが聴けることもある。私は読書が好きで、オーディオブックも好きだ。ただ、本を読むのは、ポッドキャストで著者の話を聴いてからにしている。読む価値がありそうだと思えるまでは、本に時間もお金もかけるつもりはない。インタビューが気に入って、もっと学ぶことがありそうなら、キンドルからオーディオブックをワンクリックで購入する。平均的な長さの本なら8時間程度で聴けるし、頭が冴えていれば、1.5倍速で再生することにより、6時間まで短縮することができる。普通の人なら、2週間に1冊ぐらいのペースだろう(実際の読書の方法については、第14章でくわしく述べる)。

 ポッドキャストやオーディオブックで人生が変わらないとしても、約束できることがある。質の高いポッドキャストを聴いて過ごした20分というのは、まるで、しばらく着ていなかったコートから20ドル札が出てきたときのような感じだろう。実際にはそのお金がずっと自分のものであったとしても、思いがけず、少しだけ得をした気分になる。同じように、無駄になるはずの30分を使ってそこで何かを学べば、うまい具合に何かが手に入ったような気になる。実際その通りだ。無駄にするところだった時間から価値を引きだすことができたのだ。すばらしく感じられるだろうし、確かにすばらしい。

<第7回に続く>

もっと詳しく:Googleも研修として取り入れる「瞑想」「マインドフルネス」の効果・メリットとは? 習慣づける方法【保存版】