チェスの駒を盗んでしまったあの日の罪を、体で償うことに……?/チェス喫茶フィアンケットの迷局集⑤

小説・エッセイ

公開日:2021/4/24

チェス喫茶フィアンケットの迷局集
『チェス喫茶フィアンケットの迷局集』(中村あき/双葉社)

 珈琲とチェスを楽しむ喫茶店「フィアンケット」。そこでバイトを始めた高校生の柚子子と、クラスメイトにして代理店長の世野が、不可解な謎を解き明かしていく“日常本格ミステリ”。天真爛漫な柚子子と冷静沈着な世野の凸凹コンビっぷりに、思わず胸キュン!? 〈第3回双葉文庫ルーキー大賞受賞作〉

 そうしてあたしは話した。

 小さな頃、実はこの街に住んでいたこと。

 引っ越す直前、一度だけこのお店を訪れたこと。

 そして、その時――チェスに使う駒を盗んでしまったこと。

 正確に言うと、あたしは行為の瞬間をはっきり記憶しているわけではない。けれど、あたしはその時、そのきらきら光る人形を自分のものにしたかった。そういう気持ちを持って対象へと手を伸ばしたこと、それは確かだった。

 今もその映像は脳裏に焼きついている。そうして、いつの間にかあたしの上着のポケットには一つの駒が収まっていた。因果をたどれば、空白の部分のストーリーは勝手に埋まるというわけだ。

 あたしは鞄から証拠物件を取り出した。あたしの親指くらいの大きさで、円錐につややかな丸い頭をのせた駒。木製だけどずしりと重く、まるで月のない夜空みたいに鈍く輝いている。

「黒の、ポーンだよね」

 そう呼ばれる駒らしい。この出来事がきっかけで、あたしはチェス駒の名前と形を覚えた。肝心のルールの方は入門書を読んでもさっぱり理解できなくて、未だに誰とも指したことはないのだけど。

 テーブルの上にこつん、と置く。

 対面で黙って聞いていた世野くんは少し逡巡した後、その駒を取り上げ底面を確認した。

 彼が何を検めているか、あたしは当然知っている。横文字で書かれた「Fianchetto」――店名の焼き印だ。

「なるほど」と世野くん。「この店に普段置いてあるチェスセットは全て同じ型の特注品。そうと分かる印が刻まれているが、それがこの駒にも存在した。どうやらこれは確かにうちの備品のようだ」

 それが有罪宣告だった。

 あたしは立ち上がり、額がテーブルにつきそうになるまで深く頭を下げた。

「本当に……本当にごめんなさい」

 静寂の間は長かった。

 世野くんは長い息を吐いてから、言った。

「馬鹿だとは思っていたが、人様のものに手を出すほど底抜けの馬鹿だとは」

 相変わらず口は悪いし、態度は尊大だった。それでも今回ばかりは逆ギレする気にもならない。分別のつかない時分に起こしたこととはいえ、それはやってはならない、人として最低の行為なのだ。

「そうだよね」あたしはスカートの裾を握り締める。「これは立派な犯罪。幼いあたしだってそれを分かってたんだ。だって……あたしはこのことを家族の誰にも話さなかったから。だんまりを決め込んで隠そうとした」

 彼は何も言わない。

「だから、謝って許してもらえるとも思ってません。……だけど、もし」あたしは途切れ途切れになりながらなんとか続ける。「……もしも、今さらだけど、罪を償うチャンスをもらえるなら、あたしができることで世野くんの気が済むようなことがあるなら――あたし、なんでもします」

 その後の静寂は永遠にも思えた。

 どこからか微かに響く時計の針の音を無限に聞いていた気がした。

「なんでも、か」

 やがて、独白みたいに世野くんが言うのが耳に届いて。

 あたしは無意識に顔を上げていた。

 驚くことに、彼がこちらに向ける表情は今までに見たこともないほど優しかった。なのに受ける印象は、頭に浮かんだ形容は、こんな風だった――まるで悪魔のよう。

 あたしはその時、遅まきながら事態がとんでもない方向に転がり始めたことに気づき、震え上がった。もつれる舌を懸命に動かしながら弁解を始める。

「あ、いや、違う。なんでもっていうのは、言葉の綾で……」

「いいや、言質は取ったからな」彼は口の端をゆがめて笑う。「お前がそこまで言うなら、そうだな……体で償ってもらうとしよう」

 体で、償う……?

 それってもしや、跪いて靴を舐めろとか、鎖のついた首輪を装着しろとか、まだまだもっとどぎついことを要求されて、あたしは一生それに従わなくちゃいけないってこと?

 ――へ、変態だ!

 そういう人種が世の中に一定数いることは聞き知っていた。

 だけどまさか世野くんが、綺麗な顔の裏にそんな異常な性癖を持っていたなんて。

 呆然とするあたし。

 目の前で世野くんが退路をふさぐように立ちはだかる。彼は出かかった高笑いをこらえるような間の後、ついに決定的な宣告を放った。

「まずは店内の掃き掃除だ。その後は皿洗い。それが済んだらレジ金の点検。当然給料はなしだ。俺の気が済むまで馬車馬のように働いてもらうぞ! いいな!」

<第6回に続く>