1人居酒屋デビューした前乗りの夜/岩井勇気『どうやら僕の日常生活はまちがっている』

文芸・カルチャー

公開日:2021/9/29

初エッセイ集『僕の人生には事件が起きない』(新潮社)が10万部突破のベストセラーとなった、ハライチ・岩井勇気さんのエッセイ集第2弾『どうやら僕の日常生活はまちがっている』。前作に続き、肩の力が絶妙に抜けた「日常」を切り取るエッセイのほか、初挑戦したという小説も収録! 本書から、オススメエッセイ5本を1本ずつご紹介します。

どうやら僕の日常生活はまちがっている
『どうやら僕の日常生活はまちがっている』(岩井勇気/新潮社)

1人居酒屋デビューした 前乗りの夜

 大阪で仕事があった。久しぶりだ。前日の夕方に東京を出て大阪へ行き、ホテルで1泊して仕事当日を迎える、いわゆる〝前乗り〟というやつだった。だが、僕はこの〝前乗り〟というやつがあまり好きではない。

 そもそも前乗りが好きな人の理由としては、前日の夜に現地のご飯を食べに行ったり、夜遊びできることが大半を占めると思うのだが、僕が前乗りで地方に泊まる時は大概1人であり、僕は1人で何処かに行くことが非常に苦手なのだ。

 住んでいる東京都内にいても、1人で何処かに行くことが苦手なのは変わらない。一人暮らしだと、一般的には夕食をどこかの店に1人で入って済ませることや、1人で飲みに行くこともあるのだろうが、僕にはそれができない。ラーメン屋やファストフード、カフェといった1人客が沢山いるような店ならまだしも、ファミレスや居酒屋といった飲食店に僕1人で入ったことがほとんど無い。

 旅行もしかり。1人旅はもってのほかで、必ず誰か友達を誘って行く。これは、1人で店に入ったり観光地を回ったりするのが恥ずかしいという、大人らしからぬ気持ちも多少あるが、それよりも僕は1人で知らない場所へ行って帰ってきた時に、本当に行ったのか? と思ってしまうからだ。

 例えば自分が知らない土地へ旅行に行き、観光地を回って、美味しいものを食べて帰ってくるとしよう。1人旅の場合、何を見ても食べても、それを知りうる人物が自分しかいない。現地の人は僕のことなど知る由もなく、そうなると帰ってきた時に、本当に旅行に行ったのか? と思っても、誰にも確認ができないのだ。

 旅行中見たものや、食べたものも怪しくなり、観光地に行っても旅館でダラダラしていても、その土地の美味しい料理を食べてもチェーン店のハンバーガーで済ませても、一緒のように思えてきてしまう。

 その旅行をしていた時間、自宅で現地の観光名所や名物をパソコンで調べて、妄想を膨らましていただけだったんじゃないか? と疑い始めても、1人ではそれを完全に否定することができないのだ。

 

 そんな理由で、夜に1人でご飯を食べに行けない僕は、前乗りしても時間を持て余してしまう。

 大阪に着いたのが夜7時で、少しお腹は空いていたのだが繁華街に行くことに尻込みしてしまい、一旦ホテルにチェックインしたのだった。ホテルの部屋に入って荷物を置き、やることも無い僕はベッドの上でぼーっとしていた。そして、ふと時計を見ると、なんともう10時半になっていたのだ。

 僕は一瞬目を疑った。大阪に着いたのが夜7時。駅からホテルの部屋に着くまではせいぜい30分といったところだろう。7時半から10時半までの3時間、何もせず、ぼーっとしたまま過ごしてしまった。ぼーっとするとは、何かをぼーっと考えていた訳ではなく、ただ単にぼーっとしてしまっていただけなのだ。

 全く無駄な3時間。時空が歪んで7時半の世界から10時半の世界に飛ばされていたとしても、全く同じことである。

 精神上、空白の3時間に僕は恐怖を覚えた。もしかすると僕の中の別の人格が現れていたのかもしれない。別の人格が、ぼーっとしている僕の隙を突き、体を乗っ取ったのだ。

 そいつは大阪好きの人格で、大阪に来る機会をずっと窺っていて、まんまと体を手に入れた。そして大阪の街に繰り出し、たこ焼きを食べ、お好み焼きをおかずに白米を食べ、道行く大阪のおばちゃんからアメちゃんを貰い、通天閣を見に行った後、道頓堀に飛び込み、カラオケで服を乾かしながらドリカムの「大阪LOVER」とウルフルズを歌って、最後は大阪の街に「おおきに!」と言い放つ〝大阪フルコース〟を、3時間で回って帰ってきたのではないだろうか。そんな人格が現れていてもおかしくないほど無意識の3時間だった。

 こんな時間を続けていたら、その大阪好きの〝なにわ太郎〟の人格に体を完全に奪われかねない。そう思った僕は、意を決して1人で何処かの店に夕食を食べに行くことにした。しかし周辺の店を調べてみると、時間的に夕食を食べられるような飲食店は終わっていて、営業しているのは何軒かの居酒屋のみだったので、その1つに行くことに決め、ホテルを出た。

 しばらく歩くと、その店の灯に照らされた看板が見えてきた。前まで行くと、外から店内が見えるようになっていて、そこはカウンターだけの8席ほどの古びた焼き鳥屋であった。

 店の前まで来ると少し緊張する。なにせ1人で飲み屋に入ることなど初めてだ。しかし店内が見えるということは、向こうからも店の前で僕がまごまごしている様子を見られてしまうということだ。僕は勇気を振り絞って店の扉を開けた。

「いらっしゃい」と、40代くらいの男性店員と30代くらいの女性店員が落ち着いたトーンで言った。僕は軽く頷き、カウンターの一角に座った。店内を見回すと、かなり昔からあるような年季の入った店内。僕の他には2人の客がいる。

 女性店員が僕におしぼりを渡しながら「飲み物何にします?」と聞いた。その時、女性店員の首元にタトゥーが入っているのが見えてしまい、僕の緊張感をより一層高めた。そして、そんなざわついた心で飲み物を注文したため「生の……ち、ちゅうで……」と、恐ろしいほど小声になり、店員に「はい?」と強めに聞き返されてしまうという、1人居酒屋デビューとしては最悪の幕開けとなったのだった。

 名誉挽回を図るため、焼き鳥を注文する際「焼き鳥5本、お任せで」という、恐らく焼き鳥屋上級者がやるであろうお任せスタイルをとった。他にもホヤ酢という渋いメニューの選択で、鋭さを見せつけるのだった。

 その後すぐに、僕の目の前にビールが運ばれてきた。普段は家でも1人で酒など飲まないのだが、運ばれてきた冷えたビールを一口飲んだ。それは、今まで飲んできたどのビールより美味しい気がした。

 それまで知り合いと一緒の場でしかお酒を飲んだことがない僕は、知り合いにかまけてビールと1対1で向き合ったことがなかったのだ。それは、大学のサークル内の男女数人でよく遊んでいたが、ある日その中のあまり喋ったことのない女子と一緒に帰ることになり、なんとなく喋っていて「あれ? この子意外と可愛くね?」と気付いた時のような感覚だ。大学に行ったことがないのでわからないが。

 ビールを二口、三口と飲んでいると「ホヤ酢ですー」と言いながら店員が僕の前に器を置いた。僕は一瞬目を疑った。渋いメニューの選択と思って頼んだはずのホヤ酢が、なんとコンビニのパンに付いてくるシールを集めて貰ったような可愛いクマのキャラクターの描かれた器に盛られていたのだ。

 ホヤ酢とこの器の辻褄の合わせ方がわからない。ウツボが描かれた器ならなんとなくわかる。しかし描かれているのは可愛いクマだ。クマ自身もできればチョコレートやグミや小さいシュークリームなどを、何個か乗せてほしかったことだろう。ホヤを酢で和えたものという、可愛さのかけらもない珍味を乗せられ、どこかクマも苦笑いである。

 それからしばらく経って、お任せで頼んでいた焼き鳥が1本ずつ運ばれてきた。

 まず鳥もも、そして手羽先、つくね、白レバー、牛ハラミ。なんだか良さそうな串ばかりだな……と思い、何気なくメニューを見てみると、出てきた5本は綺麗に、焼き鳥の値段の上から順に5本だったのだ。

 やられた。元々僕が上級者の頼み方をしようとしていたことなど見抜かれていて、そこを利用されたのだ。悔しい。白レバーなど一番高い串で、鳥皮の3倍の値段だ。正直鳥皮が食べたかった。

 僕は店員のやり口に怖くなり、そそくさと焼き鳥を食べ、ホヤ酢をかっ込んで、すぐ会計を頼んだ。ホヤ酢をかっ込んだことなど初めてである。

 そして会計はやはり思ったより少し高い。見事に1人飲み初心者への洗礼を受けた。渋々会計を済ませ、店を出る。その時の店員の「ありがとうございました〜」という声が、少し酒の回った僕の頭の中に不気味に響いたのだった。

 

 大阪の夜、僕はホテルに帰りながら、飲みに行く時は誰かを誘ったほうがいいな、と再確認したのだった。〝前乗り〟というやつもどうやら好きになれそうにない。そう思った。

<第3回に続く>

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