【ほしたらな】親友Nのこと/松尾スズキ『人生の謎について』

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/31

 私は、親友というものをもてない。それにはわけがあって、そのことを書こうと思う。

 この頃は芝居をやればやるほどへとへとになる。なにしろ毎回、数万人の客を相手にするのだ。それを思うと一番風当たりの強い場所にいる私は、いや、それこそが面白いのだが、どこかでビビっている。その事実に知らぬうちに身体がひどくこわばるのだ。

 今、朝、一人書斎で原稿を書いているが、一人、いい。この静寂に満ちた時間がとてつもなくいい。

 そう感じるとき、大学に入り、初めて演劇に触れたあの頃のことを思いだす。

 演劇がたまらなく好きで、授業が終わって演劇部の部室に行くのが楽しみでしかたなかった頃。そこで初めて親友もできた。

 私はデザイン科でNは写真科だった。Nは、漫画ばかり描いていた私と違い、高校演劇から芝居をやっていて、部の中でもずばぬけて芝居がうまかった。私とNとが舞台に立つと、小さい劇場ながらとにかく「無敵だ」という感覚に包まれるのだった。私たちは、いつも稽古後、Yという共通の友人の家に集まり朝方まで酒盛りをしては、芝居や映画や美術の話をしていた。今、稽古後、たまに飲んでもくだらないエロ話をして十一時ごろには帰り、YouTubeを見ている自分には考えられないことだ。

 大学を卒業し、私とNは上京し、私は印刷会社、Nは設計の会社に就職した。私はその後すぐ、仕事をやめ劇団を作った。

 集まった劇団員は素人ばかりで、田舎で作っていた芝居のレベルにまったく及ばず、Nさえいてくれれば、と何度思ったか知れない。プロになりたいと思っている奴らが学生演劇時代の仲間に到底及ばないというジレンマに苦しんだ。一方、Nは会社を独立し、順調だった。「月収が百万超えた」と報告を受けたときには、私はまだ皿洗いの仕事をしながら年下のコックに怒鳴られていたのだ。そんな時代もあったし、昔付き合っていた彼女がNと浮気をしていたという事実を後から知っても、Nとの関係は壊れることはなかった。

 十年ほどの時が立ち、Nと飲んでいるとき「とんでもない仕事を任された」と告げられた。それは、バカでかい規模のテーマパークの設計だった。「何社も関わっとる。失敗できん」。そういうNの表情は、緊張感と充実感に満ちていた。私もその頃、ようやく賞をとり、大人計画の大劇場への進出も決まり、そこそこ足場も固まってきていた。お互い結婚し、Nには二人の子供もできた。

 しかし、その後すぐ、Nの仕事は暗礁に乗り上げた。企画から一社去り、二社去り、青ざめた表情のNからとんでもない話を聞くことになる。

「もう、この企画に関わった人間が何人か死んどる」

 ある夜、Nは酔って大荒れに荒れてそう言った。

 そんなドラマのような話、にわかには信じられなかったが、Nはさらにその後、こんなことを言うのだ。「大人計画に入れてくれんやろか。俺、家族おるけん月に三十万はいるんよ」。さらに芝居を書いたから読んでくれと、分厚い原稿も渡された。

 どだい無理な話だった。四十に手の届く男を今さら「友達だから」という理由で劇団に入れることはできなかったし、いきなり毎月三十万も稼げるわけがない。宮藤官九郎でさえ、やっとバイトをやめられた時期なのだ。

「松尾、脚本読んでくれた?」

 それからそんな電話が何度か来たが、初めての大劇場進出の準備のプレッシャーで私はそれどころではなかった。それに彼から脚本の内容を聞いても観念的すぎてとうてい上演できるものではないと思った。

 本番間際の早朝、彼の奥さんから、「Nが死にました」と、電話が入った。自宅のリビングで逝ったのだった。

 一週間ほど前に電話があった時「読んでないんか。わかった。…ほしたらな」と言ってNは電話を切った。それが最後の会話だった。

 楽しまなきゃと思う。

 あのときの、Nの妙に明るい声を思い出すたび、三十年も演劇をやれている幸せを思い出して、楽しもうじゃないかと私は思う。思い直す。今日もその時の劇場で上演する芝居の稽古に行くのだ。

 ただ、もう、親友というものはどうしても作れない。まあ、そもそもなってくれる者がいるのか、という疑問もあるが。

 まだ、Nが書いた脚本は部屋の隅にある。

 どうしても読めない。

 

 人生って、なんなんだ。

<次回は【穴からいでて…】>

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