剣道の団体戦で優勝し、初めて知ったうれし涙。勝ち星を重ねて、“自称”最強のサムライになる!/片岡健太(sumika)『凡者の合奏』

文芸・カルチャー

更新日:2022/7/20

 時は流れて、僕は小学6年生になった。高学年になると、それまでの剣道とは、いささか勝手が変わってくる。剣道には元々「心技体」という考え方があって、それらが三位一体にならないと、試合で一本は取れないのだ。

 面のときには、相手の面に竹刀を当てた後に「メーン!」、小手の時には「コテー!」と声を張り上げ、試合が開始されたときには「ヤー!」と声を発しなければいけない。これがいわゆる「気合い」と呼ばれるもので、心技体における、「心」に位置づけられているものだった。この「心」の部分が、年齢を重ねるごとに、重要視されるようになってくる。

 低学年のときには、ほぼ全員、なかやまきんに君のネタ終わりのような「ヤー!」という気合いで統一されていたものが、高学年時には「シェファーーーーー!」と甲高い声を上げたり、ドスの効いた声で「ドゥッ!」と言ってみたり、さまざまな個性ある気合いが見られるようになる。

 この「心」の取り扱いが、僕は苦手だった。他のふたつは明確に理解できる。「体」は、一本を取るために使う足や腕を動かす体力。「技」は、的確に面や小手の位置を竹刀で狙う技術。これは誰が見ても明らかで、きちんと目に見えるものだ。

 しかし「心」だけは、正解が非常に分かりづらい。あまりにも分からないので、「心」に長けていると師範に言われていた、先輩の気合いを真似たことがある。

先輩 「ヅアッツッツ!」
僕 「ヅアッツッツ!」
師範 「おお、片岡いいな」
先輩 「ニョワアッ!」
僕 「ニョワアッ!」
師範 「片岡。真似てばかりいないで、自分の型を見つけろ」
僕 「ゼアーッ!」
師範 「片岡。それに心は宿っていない」

 だめだ。分からないよ。未来永劫、分かる気がしないよ。道場一の諦めの早さを持っていた僕は、実体の見えない「心」について考えるのは早々に諦め、なるべく無駄な動きを減らして一本を狙いにいく「体」と、面や小手に当たった際にとにかく大きな音が出るスポットを探す「技」に、時間を割くことにした。

 すると、驚くほどに、試合で勝てるようになった。昔はあっけなく負けていた相手にも試合で勝てたり、年上の先輩との練習試合でも勝ち星をあげられたりするようになっていった。サムライとして生きてきたこれまでの人生の中で、最も負ける気がしない自分ができあがった。

 恐らく「心」とは、自分の感情の起伏に惑わされず、暑い日も寒い日も、「体」と「技」を磨き上げる精神のことだったのではないかという仮説に辿り着いた。事実、勝負に勝てるようになってから師範に「心」で注意されることもなかったので、勝ち星を重ねる度に、自分の考えは正しいのだと思い込んでいった。

 こうして、〝自称〟最強のサムライとなった僕は、小学生部門としては最後となる団体戦に、大将として出場することになった。

<第10回に続く>


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