絵に封じ込められた、幽霊たちの心残りとは――『幽霊絵師火狂 筆のみが知る』近藤史恵 文庫巻末解説【解説:朝宮運河】

文芸・カルチャー

公開日:2024/2/28

静かな感動を誘う絵画ミステリ
『幽霊絵師火狂 筆のみが知る』近藤史恵

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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『幽霊絵師火狂 筆のみが知る』文庫巻末解説

解説
あさみや うん(書評家・ライター)

 大阪は新町の大きな料理屋・しの田。もとは揚屋だったというこの店の奥まった座敷に、十四歳になる真阿の部屋はあった。主人夫婦の一人娘である真阿は、十二歳の時に胸を病んでいると診断され、一日のほとんどをその座敷で過ごしている。
 そんなある日、しの田に旅の絵師が居候することになった。火狂という雅号をもつその絵師(本名は興四郎)は、世にも恐ろしい絵を描くことで知られており、真阿の母・希与などは気味悪がっている。
 しかし真阿はこの居候に好奇心を抱き、両親や使用人たちの目を盗んで、二階の座敷へと忍んでいく。そのささやかな冒険が、彼女の人生を変えるきっかけとなるとは知らずに……。

 本書『幽霊絵師火狂 筆のみが知る』は、こんどうふみが二〇二二年六月にじようした連作集の文庫版である。八編の収録作は雑誌『怪と幽』に二〇一九年から二一年にかけて、「幽霊絵師火狂」のシリーズタイトルで掲載された。
 めい初期の大阪を舞台に、さまざまな事件に遭遇した真阿と火狂が、その背後にある真実を探り出していく本書は、ミステリを通じて人生の断片を描く著者の手腕がいかんなく発揮された魅力的なシリーズになっている。と同時に、本書は優れた怪異たん、幻想譚でもある。幽霊絵を得意とする火狂には、人には見えないものを見るという特殊な力があり、それが事件解決の手がかりとなったり、物語にファンタジックな展開を付け加えたりもする。ミステリと怪談、ふたつの色を巧みに配することで、本書はよりカラフルかつ陰影に富んだものになった。

 本書のページをめくるとまず眼前に広がるのは、三味線や呼吸の音や男女の笑い声に包まれた、にぎやかなしの田の情景である。この時代の料理屋といえば、単に食事をする場所ではなく、歌や踊りを身につけたげいとの酒席を楽しむ空間だった。大人の男女が笑いさざめき、店の者たちが忙しく立ち回る旧遊郭の料理屋。そんなけんそうの中にあって、真阿のいる座敷だけは時が止まったように静まりかえっている。
 療養中の彼女にとって、気晴らしといえば草双紙や錦絵を眺めること。そしてその真上の部屋には、女中お関の言葉を借りるなら「勧進相撲の力士みたいな」、色白で体の大きな絵師が居候している。動と静、光と闇、日常と非日常の鮮やかな対比が、将来に不安を抱く真阿の心情を映し出すとともに、読者を懐かしくも胸躍るような奇譚の世界へと引き込んでいくのだ。
 第一話「座敷小町」は真阿と火狂との出会いを描いたエピソードで、真阿が夜な夜な悩まされている火事の夢に隠された事実が、火狂によって明らかにされる。蔵に閉じ込められた真阿が、燃え上がる家屋を見つめる夢は何を暗示しているのか? 夢の中に現れる“かか様”と、真阿の母親である希与の関係とは?
 ちりばめられた大小の謎が一気に氷解する結末の数ページには、短編ミステリの妙味が詰まっているが、それ以上に目が離せないのは、火狂との交流によって確実に変わっていく真阿の姿だ。
 そもそも真阿が火狂に興味をかれたのは将来に悲観し、人形じようのように心中してくれる相手を欲していたからだ。しかし火狂の飾らない人柄と非凡な作品に触れ、そして自分を取り巻いていた人々の思いにあらためて目を向けることで、真阿の中からぼんやりした悲観主義は消えていく。死者を含む多くの存在に背中を押されて、“座敷小町”の真阿はそっと座敷の外へと足を踏み出していくことになる。

 これ以降の七編でも、真阿の成長譚という縦糸を取り巻くようにして、幽霊や絵にまつわる多彩な謎が描かれていく。第二話「犬の絵」では、真阿は見慣れない黒犬の夢を見るようになる。ほどなく、火狂のもとに絵を引き取ってほしいという男が訪ねてくるが、男が絵を怖がる理由とは? 愛犬家として知られ、『シャルロットのゆううつ』など犬ミステリを数々手がける著者ならではの逸品。つらい事件の真相を、言葉を選びながら真阿に伝えようとする、火狂の姿も印象的だ。
 第三話「荒波の帰路」では、旅先で火狂の絵を手に入れた男が、奇妙な体験をするようになる。花魁おいらんが描かれた錦絵の中から「帰りたい」という声が聞こえるというのだが……。「犬の絵」同様、心にずんと重いものが落ちるような事件を描いているが、それだけに結末に用意された展開には救われる気がする。
 東京から大阪にやってきた火狂は、旅先でふすまを描いたり、笑い絵(春画)を売ったりして収入を得ていたという。どこに行くのも自由で、紙と筆さえあれば生きていける火狂の生き方を、真阿はうらやましく感じるが、筆一本で生きていくのは決して簡単なものではない。第四話「彫師の地獄」では、火狂の絵を錦絵に仕立てた彫師・蓬吉と、その弟弟子・利市の関係を通して、芸術のもつ恐ろしい側面が真阿に突きつけられる。
 この連作を書き継ぐにあたって作者が心を配ったポイントのひとつは、真阿と火狂のほどよい距離感だろう。真阿は自分にはないものをもった火狂に惹かれ、火狂はそんな真阿を軽んじることなく、一歩引いたところから成長を見守る。二人は穏やかな信頼関係で結ばれてはいるが、恋愛関係に発展することはない。
 暗い過去にとらわれていた真阿にとって、これはとても重要なことだったはずだ。女中・お関の義弟がなぜ妻の死を悲しまないのかという謎を扱った第五話「悲しまない男」の一節にあるように、「家族でもなく、好き合った仲でもない、赤の他人」を信じることは、自分を取り巻く世界を肯定する第一歩に他ならないから。
 第六話「若衆刃傷」は、ふりそでを着たあでやかな若衆を描いた絵と、未解決の殺人事件とが複雑に絡み合うミステリ。さりげなく取り入れられた浄瑠璃や歌舞伎の要素が、物語をいっそうせいえんなものにしている。第七話「夜鷹御前」は、武家の奥方のような白い打ち掛けを着たたかの絵が、封印された悲劇を浮かび上がらせるという作品で、真阿は社会と人間心理のしんえんをあらためてのぞき込むことになった。
 そして最終話「筆のみが知る」では、これまでほとんど語られてこなかった火狂の過去が、真阿がくり返し見るようになった絵を描く女性の夢をきっかけに明かされる。達観しているように見える火狂にも清算できない過去があり、それが真阿との交流によってほどけていく。悲劇の先にあるかすかな光、生者とともにある死者たちの思いを描いたところで、物語はいつたんの幕を下ろす。
 読者として気になるのは、この先真阿と火狂の関係がどうなるのかということだろう。遠からず火狂はまた旅に出ることになり、二人には別れの時が訪れる。そして真阿はさらに広い世界へと羽ばたくに違いない。
 明治初期といえばまさに文明開化の時代である。近代を生きる女性として真阿は学問を修めるかもしれないし、しの田を継ぐのかもしれない。あるいは火狂のように芸術家を目指すという道もあるだろう。いずれにせよ彼女が大人になる頃には、心優しい旅の絵師と過ごした日々は、きっと遠い記憶になっているはずだ。それは当然のことである。
 最終話が近づくにつれ、真阿も火狂との別れについてしばしば思いをせるようになる。「興四郎が出て行くと言ったなら、真阿は泣いて止めたりはしない。寂しい気持ちで見送るだけだ。/好きな人だからこそ、その人が自由であることを阻みたくはない」(「若衆刃傷」)。真阿がそう思えるようになったのは、火狂を介してさまざまな人生に触れ、大人に近づいたからだ。
 いつかは終わることが約束された、つかの間の休息の時。本書がしみじみと胸を打つのは、全編に漂うこうした“はかなさ”の感覚に由来しているような気もする。

 最後に本書が執筆された経緯について、簡単に触れておこう。二〇〇四年に創刊された怪談専門誌『幽』にけんいんされたブームによって、へいせい後期には「怪談」がエンターテインメント文芸の一分野として大いに注目を集めた。
 ミステリ系を含む多くの作家たちがこの時期怪談を手がけており、近藤史恵も魅力的な学校怪談『震える教室』(二〇一八年)を上梓している。『幽』の後続誌である『怪と幽』に連載された「幽霊絵師火狂」シリーズもそうした流れから生まれたもので、本書は平成後期以降巻き起こった怪談ルネサンスのよき遺産といえる。
 怪談は決して恐ろしいだけのものではなく、声なき者の声を伝え、死者とともに生きる人の姿を描く文学でもある。火狂の恐ろしい幽霊絵が人気を博すのと同じように、怪談はいつの時代も私たちの心を楽しませ、してきたのだ。本書に収録された恐ろしくも切ない八編をお読みいただけば、そのことは十分に納得していただけるものと思う。

作品紹介・あらすじ

幽霊絵師火狂 筆のみが知る
著 者:近藤史恵
発売日:2024年02月22日

絵に封じ込められた、幽霊たちの心残りとは――心震える絵画ミステリ
老舗料理屋のひとり娘である14歳の真阿は、胸を病んでいると言われて以来、部屋にこもりがちだ。店に、有名な幽霊絵師・火狂が居候することになる。大柄で悠然とした火狂は、人には見えないものが見えるようだ。彼のもとには、絵に関する奇妙な悩みを持つ客が訪れる。犬の悪夢に怯える男、「帰りたい」という声に悩む旅人、手放しても戻ってくる絵――火狂と真阿は、その謎を解き明かしていく。静かな感動を誘う絵画ミステリ。

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