【第1章がまるごと読める!】ホラー界の異才が満を持して放つ、因習に満ちた村の怪異――芦花公園『極楽に至る忌門』試し読み

文芸・カルチャー

公開日:2024/3/16

ホラー界の異才と称される小説家・芦花公園さんの最新作『極楽に至るいみもん』(角川ホラー文庫)が、2024年3月22日に発売となります!
舞台は、四国の山奥にある小さな村。祀られた石仏、村に棲む“てんじ”、3つの生贄――。最強の拝み屋・物部斉清ですら止められなかった、戦慄の怪異を巡る物語です。
刊行に先駆けて、作品の第1章を特別公開! 気になる物語の冒頭をお楽しみください!

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芦花公園『極楽に至る忌門』試し読み

頷き仏

 バスに乗った時から妙な違和感はあった。
 友人のかごたくみ。彼の祖母の家はより駅からバスで四十分かかると聞いていた。その最寄駅自体も一日で三十人くらいしか利用しない小さな無人駅だ。地元のつながりは密で、誰もが顔見知りだそうだ。
「とにかく、みんな家族って感じ」
 匠は自分の地元のことをそんなふうに話していた。
 匠が大学に合格したときは、高校に垂れ幕が下げられ、花火まで上がったそうだ。
 むらはやはそれを聞いた時、口には出さなかったが少し不気味だと思った。東京生まれ東京育ち、さらに生まれた時から賃貸暮らしだ。隣に住んでいる人間の家族構成さえ分からない。そんな隼人にとって、何もかも把握されている生活は、恐怖でしかなかった。
 しかし、匠には、そのような距離感の近さのようなものは感じたことがない。なまりもないので、よく話すようになるまでは自分と同じように東京の出身だと思っていた。
 匠は、むしろかなりドライな人間だと思う。
 集団の中にサッと溶け込むのは得意だが、仲の良い人間は隼人くらいしかいないだろう。隼人と匠が仲良くなったのも、偶然だ。
 そのときはグループワークで、人権について話し合っていた。話題が村八分のことになったとき、ちらほら、田舎への差別的な言葉が聞こえた。隼人は、自分が生粋の都民であるからこそ、そういった無神経な発言はしないように心掛けていたから、
「平成になってから十五年も経ってるんだから、田舎は閉鎖的でどうしようもないみたいな話するのやめよう」
 というようなことを発言した。
 それで、話題はそこから離れたのだが、話し合いが終わったあと、匠が声をかけてきたのだ。
「あのさ、さっきさ、村八分の話してたけどさ」
「ああうん、なんか、嫌だよな、行ったこともないのに、勝手に田舎はみんな排他的で〜みたいなこと言うの」
 匠は少し気まずそうに笑って、
「ちょっとだけあるよ」
 と言った。
 そこで、匠は、自分が四国のかなり奥まった地域の出身であることを話した。
「みんな、悪気はないんだ」
 と前置きして、自分の地域に住んでいた「よし」のことを話してくれた。
 吉野家は大阪から来た明るい一家だった。夫婦と、中学生の兄と小学生の妹。
 元々匠の家の近くに住んでいた女性──吉野家の夫の母親に当たる人が体を壊して、農作業をすることができなくなったので、公務員をやめ、農業に従事することを選択したのだという。地元ということもあってか、一家は土地にんでいるように見えた。
 きっかけになったのは、交付金制度だった。
「交付金制度?」
「うん。都会の人はまったく知らないだろうけどね、中山間地域の農村を支援するために、農地の面積や傾斜に応じて国から交付金が支払われる制度があるんだよ。吉野家は、それを受け取ることができなかった。元を正すと、吉野さんのお母さんが、口約束で別の人に田んぼを貸してたんだ。その人が受け取ってたみたいで。名義上は吉野家のものだから、市に問い合わせたみたいなんだけど、まあ、田舎だからさ。役所の人も『地域で決めるものだから』って方針で」
「それは……ちょっとひどいな。直接交渉できなかったのかな」
「もちろん、吉野家のお父さんは集落の会合で何回か、土地を返してくれって訴えてたよ。でも、それが良くなかったんだ。『都会から来て偉そうにしている』って言われるんだ。今までうまく回していたものを、と思われちゃうんだ。それでなったんだよ。
 隼人がまゆひそめると、匠は自虐的な笑みを浮かべた。
「一番ショックだったのはさ、おばあちゃんが……俺にとっては、本当に優しいおばあちゃんだし、東京に行くの応援してくれてたのも、おばあちゃんなんだけどさ……おばあちゃんがさ、『都会から来て好き勝手してたらこうなるのも当然なのに』って言ったことだよ。俺、そのときはもう、大学でこっち来てたから、伝聞だけで、実際吉野さんがどうだったかは分かんないんだよ。もしかしたら、地元の人のこと、馬鹿にした感じだったのかもしれないし。それでもさ、なんか、帰省したとき、うつむいて歩いてる吉野さんとこの子ども見ちゃってさ……すげえ、嫌だった」
 吉野家は結局、また大阪に戻ったらしい。
「それで、なんで俺にそんな話してくれたの?」
「ううん、なんていうか、志村君は、田舎のこと、馬鹿にしなさそうだから」
 匠は天を仰いで言った。
「何が原因かとか、誰が悪いとか、ないんだよきっと。でね、俺は地元のことがすごい好きだし、みんな家族だと思ってる。思ってるんだけどね、あの人たちの家族になれない人が、どういう目に遭うのかも、分かってるんだよね」
「そうか……」
 隼人は、やはりどうして匠が急にそのようなことを話しかけてきたのかは分からなかったが、何らかの信頼に足る人物だと思われたことは純粋にうれしかった。
 このやりとりがきっかけで、隼人は匠と毎日のように話すようになった。
 生まれ育った環境は違うし、趣味もそんなに合うわけでもないのに、妙に居心地が良かった。匠は他人を否定しないからかもしれない。
「あのさ、実家に帰省するんだけど、付いてきてくれない?」
 急にこんなことを提案されたときも、隼人は動揺しなかった。匠の頼みなら聞いてやろうと思っていたが、一応理由だけ聞くと、
「おばあちゃんが、仲良しを連れてきたらいいって言ってきたんだけど……ダメかな」
 仲良し、という言葉は、少し照れ臭かった。しかし、悪い気はしない。
 そしてそこで初めて、隼人は匠の家族構成を知った。
 匠にとって近いしんせきはもう祖母しかいないらしい。
「生まれた時から父親はいなかった。死んだのか、出て行ったのか、分かんない。近所の噂も半々」
「そんな噂……」
「だからさ、あんまり悪気ないんだって。とにかく、近所の人のことが気になるんだよ。それで、いわゆる、女手一つで? って感じで。もちろんおばあちゃんも助けてくれたけど、基本的に母親が一生懸命働いてくれて、育てられたんだけど、大学の合格決まって、入学準備してる最中に、死んじゃったんだ。病気とかはなかったんだけど、頑張って働いてたから、頑張りすぎちゃったのかも……」
 思わず隼人は匠の肩を抱いた。なんだか、とてもつらいことを無理やり話させてしまったような罪悪感があった。
 匠は柔らかく笑って、
「大丈夫大丈夫。今でも思い出すと確かにちょっと悲しいけど、もう過去のことだから」
 隼人は、髪を切り、清潔感のある服を買い、見た目を良く見せようと努力した。母と姉に女性の好きそうな菓子を聞き、東京駅で買い込んだ。匠の祖母に、「東京でこんなに素敵な仲良しができた」と思ってほしい。
 これはよくだ。
 匠と隼人がかなりの時間行動を共にしていると、心無い言葉をかけて来る人間もいる。匠を「カノジョ」と呼んでみたり。
 しかし、そんなものではない。匠は色が白く、きゃしゃと言えば聞こえはいいが、どう見ても貧弱で、見た目どおり食も細い。そんなふうだから、ますますパブリックイメージの田舎の人間には見えず、隼人も最初、都会の人間だと思っていたわけだが──匠の母親が死んでしまった、というのも、匠に似た弱々しい人間では無理もない、などと思ってしまう。
 そういうわけで、今、隼人は、バスに揺られている。


 匠はバスに乗り込んだ時、ハッとしたような顔をして会釈をした。匠の視線の先には、花柄の前掛けをつけた老女がいた。
 しかし、老女は、それを無視した。気がつかなかったというふうではない。明らかに、目をらしたのだ。
 匠は一瞬傷ついたような顔をしたが、黙って二人掛けの席に座り、隼人に隣に座るように促した。
 四つ先で老女が降りていくと、
「あの人、ざきさん。よく家に来て、自分の家で採れた野菜とか、それで作った料理とか差し入れてくれた人なんだ。小さい頃は、よく一緒に遊んでくれて……でも、忘れちゃったのかな。俺、結構背も伸びたし」
「いや、お前はずっとチビだろ」
 冗談めかしてそうは言ったが、まったく笑えなかった。
 匠が話していた「吉野家」のことを思い出す。
 ある一つのおくそくを、隼人は真実として確信しつつあった。
 ほぼ間違いなく、匠の祖母は、この土地の人間とめている。
 だから、野崎は孫の匠のことを無視するのだ。
 野崎だけではない。バス停にいたときも、バスに乗り込んだ時の乗客も、一切匠と目を合わせようとしない。野崎ほど仲良くなかったにしても、「みんな家族」という言葉が本当なら、大学進学までこの土地に住んでいた人間が帰ってきたら、声くらいかけるのではないか。
「隼人はこんな景色見たことないでしょ」
 そう言って匠は、窓の外の風景を眺める。確かに、見渡す限りの田畑は隼人にとって新鮮だ。しかし、そんなものはどうでもいい。
 バス停に停まり、新しい乗客が乗ってくるたび、隼人の臆測は確信に近づいていく。
 誰も声をかけてこない。それどころか、目も合わない。
 全員が全員、お通夜のように下を向いてしまう。
 そう、お通夜だ。
「大丈夫か?」
 そう聞いても、匠はいつもどおり、柔和な笑みを浮かべる。
「え? どう考えても俺の方が隼人より長距離移動に慣れてるでしょ」
「いや、そういうことじゃなくて……」
 隼人はそれ以上、何も言えなかった。ここで何かを言うべきではない。誰が聞いているか分からないのだから。
 バスの電光掲示板が匠の実家のよりバス停の名前を表示する。匠は立ち上がり、扉が開いたと同時に飛び降りた。慌てて隼人も後に続く。バスの運転手すら何も言わない。やはり、何かがおかしいのは明白だった。
 長いコンクリートの塀がずっと続いている。
「ここだよ」
 ふと、匠が立ち止まった。
『籠生』という表札がついている、木造の平屋だ。田舎だからか、それなりに大きい。しかし、お世辞にも新しい建物には見えない。
 匠は玄関を開ける。やはり、かぎはかかっていないようだった。
「おばあちゃん、ただいま」
 奥からぱたぱたと足音が聞こえて、年配の女性が出て来た。紺色のシャツに、黒いズボンを合わせている。華奢で小さくて色白。匠の容姿は彼女譲りなのかもしれない。
「匠、おかえり」
 匠の祖母は匠に似た顔に笑みを浮かべ、視線を隼人に移す。
「匠のお友達?」
「あっ、はい、志村隼人と言います。匠くんとは大学で仲良くさせてもらっています。これ、つまらないものですが」
「あら、そんな、ええのに。申し訳ないわねえ」
 彼女は嬉しそうに菓子を受け取り、再び紙袋にしまい込んだ。そして隼人を見て、
「素敵やねえ、都会の子は、シュッとしてて」
「都会の子っていうより、隼人がシュッとしてるんだよね」
 祖母と孫の和やかな会話だ。変わった様子はない。
 もし、隼人の臆測どおりなら、もう少ししょうすいしていてもおかしくないが──
「ほらほら、上がってちょうだい」
「あっ、失礼します」
 匠の祖母は久しぶりに孫に会えたことが嬉しいらしく、声が弾んでいる。やはり、村八分にされた可哀想な老人には見えなかった。
 食事の準備を手伝うと言っても固辞されたので、隼人は匠の部屋で過ごすことになった。時間まで自由に過ごしていいということだったが、外出しても特に何もすることはないからだ。
「この辺、本当に、何もないんだ」
 その言葉どおり、匠の家の周辺は竹林に囲まれていて、隣の民家もかなり離れている。
「小学校にも中学校にも高校にも、すっごい時間かけて通ってた」
 アルバムを見せながら匠は言う。
 写真には、無邪気に笑う幼少期の匠と共に、小柄で色白の女性が写っている。
「これ、お母さん?」
「うん。そう」
 親子三代でよく似ているな、と隼人は思った。
 キキキ、と聞いたこともない動物の鳴き声が窓の外から聞こえた。
「なあ、すっごい失礼なこと言ってたら申し訳ないんだけどさ」
「なに?」
「お前、ここから東京出てくるの、すっげえ苦労したんじゃないか?」
「ううん?」
 まゆひそめる匠に、隼人は慌てて言葉を付け加える。
「いや、田舎を馬鹿にしてるとかじゃねえんだ。だけどさ、やっぱり、学習環境的なハンデみたいなのはあると思うよ。だから、努力したんだなあと」
 匠はもう一度ううん、と言った後、
「努力……まあ、そうだね、あったかも。でも、それは、母親もおばあちゃんも、昔からずっと、ここからは出て行った方がいいみたいなこと言ってたからね」
 俺は地元嫌いじゃないよ、と匠は言った。
「ただ、前にも話したことあるだろ。やっぱり、上の世代的には、俺もそういうふうに染まっちゃうのが嫌だったんじゃないかな。価値観の問題だし、どっちが悪いって言うんじゃないけど」
「そうか……」
 バスの中の様子を思い出す。匠の祖母や母親が東京に出ろと言っていたのは、あのような目に遭うからなのだろうか。
「匠、隼人君、ご飯よ」
 隼人の思考は強制的に止められた。
 匠と一緒に、居間へ行く。
 煮魚と、みそ汁と、とうみょういため物。それにでたインゲンと漬物がある。
しそうだ」
「あらあ、ありがとう。都会の子には、こんなもん、地味でしょうもないと思われるかもしれんけど」
「いや、そんなことは」
「おばあちゃん!」
 匠が隼人の言葉を遮って言った。
「都会都会って、ちょっと感じ悪いよ。そんなこと言われたって、隼人が困るだけだろ」
「そうねえ、ごめんねえ」
 匠の祖母は拝むように手を合わせて、ぺこぺこと頭を下げた。
「すごく美味しそうです。いただきます」
 取り立ててものすごくうまいということはない。しかし、気まずさから、隼人は必要以上にうまいうまいと言って白飯と共にかき込んだ。
 匠の祖母はにこにこと微笑みながら、じっと二人の食うさまを見ていた。
 ちゃわんの中の米が半分くらいになった時、匠がはしを置いて、
「あのさ」
 と言った。
「あ、なあに?」
「あのさ、なんか、この辺、様子変わった?」


 普通の会話だ。しかし、隼人の胸はざわついた。
 もしかして、とうとう、言われるのではないか。
 近隣住民と揉め、村八分になった。そういうふうに。
 隼人がいるから、そのような話はしないかもしれない。だとしても、何かしらの反応はあるはずだ。
 隼人は嫌な顔をされない程度に、ちらちらと彼女の顔をうかがった。
「ああ、まだ言うてなかったわね」
 祖母はなんでもない、という顔で、
うなずき仏をね、家に近づけたのよ」
「ああ、そうなんだ……」
 匠の声が少し震えている。
「そう、なんだ……」
 そう言ったきり、匠はふたたび箸を取ることはなかった。
 手を机の下に降ろし、うつむいている。
 一体どうしたんだ、と聞きたくても、何も言える雰囲気ではない。散々迷って、考えを巡らせて、隼人は絞り出すように、
「頷き仏って、なんですか?」
 そう聞いた。
 匠は何も答えない。その代わり、祖母がつらつらと話す。
「都会の……ごめんなさい。隼人君には、ちょっとおかしいふうに映るかもやけど、いわゆる、民間信仰、ゆうやつよ」
 頷き仏というのは、道祖神のようなものであるらしい。仏という名前が付き、呼ばれているが、仏教のものではないようだ。奈良の大仏、かまくらの大仏、うし大仏──など、あれらの仏像とは見た目が大きく違っている。
「ぱっと見、お地蔵さんよ」
 簡易的な屋根と囲いのあるお堂に、童話のかさ地蔵のように、何体か並列しているものだ、と彼女は言った。ただ、近づいてみると、地蔵とも違って、小さな子供のような形なのだと。
 昔、重税に苦しめられた農民や、しゅうとめや夫からひどい扱いを受けた妻などが頷き仏の前に行って祈ると、まるですべてを肯定するかのように優しく頷いた、というのが名前の由来らしい。以降、悲しい思いをしている庶民たちの信仰の場になったのだとか。
「俺も、昔、何度か、手を合わせたよね」
 匠がぼそりと言った。
「そうそう。いつもありがとうございます、言うてね」
「お願いとかはしないんですか」
「しないわねえ。ただ、いつもありがとうございます、って言うだけよ」
「なるほど……」
 古き良き文化、のようなものを隼人は感じた。
 創作物のように、おどろおどろしい因習や迷信ではなく、ただそこにいて、見守っている神への信仰。
「おばあちゃんは、昔から、雨の日も風の日も、って感じだったもんね」
「へえ、信心深い、っていう感じですね」
 隼人が言っても、何故か二人とも黙り込んでいる。
 何かまずいことを言ってしまったのだろうか、と思って二人の顔色を窺おうとしても、匠は相変わらず無表情で俯いており、祖母は黙々と食事を口に運んでいた。
 信じられないほど気まずい食卓だった。
 隼人は目の前の飯をかきこみ、「ごちそうさま」と言った。「美味しかったです」とも。
 しかし、気まずい沈黙は終わらなかった。
 一時間にも感じたが、実際には十分くらいだった。
 突然、匠が席を立ち、
「俺、ちょっと見て来る」
 と言った。
「えっ、何を……」
「ちょっと、外」
「えっ」
 祖母の方を見ても、何も言わない。からになった器の前で、じっと座っている。
「じゃ、じゃあ、俺も……」
「隼人は中にいて」
 匠はきっぱりとした口調で言った。匠にここまで強く言われたことがなかった。隼人が動揺している間に、匠はサンダルをつっかけて、勝手口から外に出て行ってしまった。
「あの、じゃあ、俺、片づけ……」
「隼人君は」
 皿に指をかけた状態で急に呼ばれ、思わず皿を落としそうになる。
 匠の祖母は、真剣なまなざしで隼人を見ていた。
「隼人君は、ご家族と仲がええの?」
「あ……はい、そこそこ。結構、仲はいいかと思います」
 戸惑いながらも答えると、祖母は「そう」と短く言った。
「ほならさ、例えばの話よ。宇宙人が攻めてきたとしてさ」
「う、宇宙人!?」
 突然何を言いだすのか。
 驚いて聞き返しても、表情はまったく変わらない。
「例えばの話って言うとるでしょ。地球に、宇宙人が攻めてくるんよ。絶対にかなわないの。自衛隊でも、アメリカ軍でも、絶対に敵わんくらい強いんよ。ほんでな、宇宙人は言うの。『もし、どこかの家族をひとつ渡すなら、これ以上は何もしないで星に帰ってやる』って。ほんでな、あなたのお父さんが、それを聞いて、『これから俺たちがあいつらのところに行こう。それで地球は救われるんだから、別にいいだろう』って言うの。ほしたら、隼人君はどう思う?」
「ええと……」
「宇宙人は、それはそれは残酷に地球人を殺すの。だから、あなたたち家族も、きっと無惨に殺されてしまうの。それでも、お父さんは決まったことだから、と言うの。あなたは、お父さんを恨むかしら? それとも、素晴らしいことをしたと、もちろんついていくと言えるかしら」
 隼人は何も答えなかった。答えられなかった、が正しい。
 目の前の老人が恐ろしくなった。
 こんな意味不明なことを聞いてくる老人と二人きりにされてしまった。心の中で、匠帰ってきてくれ早く、と祈る。
 しかし、黙っていても、この時間は終わらないようだった。
 匠の祖母は、丸い目を大きく開き、じっと隼人の答えを待っているのだ。
「俺は」
 その時だった。
 廊下に置いてある、ピンク色のダイヤル式の電話がけたたましく鳴った。


「あ、電話だ。俺、出ますねっ」
 隼人は逃げるように立ち上がって、廊下まで歩を進めた。
「出なくてえい!」
 祖母が怒鳴ったのと、隼人が受話器を耳に当てたのはほぼ同時だった。
『ととをくうちょるんですよねえ』
「はあ?」
 あいさつも無しに相手が意味不明な問いかけをしてくる。何を聞かれているのかも分からないから、自然と返答もぶっきらぼうになる。
 相手は隼人の様子など気にも留めず続けた。
『ととを、くうちょるんですよねえ』
 電話口の相手の顔は見えない。ただ、声の調子から、にやついているのは分かる。悪意を持って。
 ついさっきまで目の前の老人を不気味だと思っていたが、その感情は消える。代わりに、怒りがいてくる。
 やはり、村八分になっていたのだ。
 これが、嫌がらせか、と思う。
 彼女がおかしくなるのも当たり前だ。
 嫌がらせを受けて、おかしくなって、あんな変な問いかけをしてしまったのもそのせいだ。
「ふざけんなよ」
 隼人ののどから絞り出すような声が漏れた。
「ふざけんな、お前、誰だか知らねえけど、おばあさんにこんな下らねえことして」
「やめてっ」
 遮ったのはほかならぬ匠の祖母だった。
「もう聞かなくていい、切ってっ」
 悲鳴のように言う。隼人はおびえる彼女の様子を見て、ますます許せなくなった。再び、電話口に向けて怒鳴る。
「てめえ、どこの誰だよ」
『まわりまわりのこぼとけはぁ』
 やめてえ、やめてえ、と繰り返している。
『なぁぜにせがひくいぃ』
 電話の主はあざけり混じりに歌っている。
『おやのたいやにととくうてえ、そおれでせがひくいぃ』
 ブツッと、脳に響くような音がした。
 匠の祖母が受話器を奪い取り、強制的に電話を切る。
「やめてって言うたがでしょう!」
「ご、ごめんなさい……」
 祖母ははあはあと荒く呼吸をしてから、よろよろとした足取りで居間に戻り席に着く。
「ごめんなさい、勝手なことして……でも、俺……」
「もうええから」
 弱々しいが、有無を言わさない口調だった。
「もうええから、食べ終わったんやから、おに入りなさい」
「あの、匠は……」
「あの子のことは、ええから。あなたは、お風呂に入りなさい」
 隼人はうなずいて、食器を重ね、シンクまで運ぶ。
 不気味な声だった。年寄りというよりは、むしろ若者に近い男だ。悪意しかない、粘着質な声色。バスの中に若者はいなかった。匠の話では、学校もかなり遠かったと言うから、このあたりには若い人間自体ほとんどいないような気もする。年寄り連中が嫌がらせのためにわざわざ若者を雇って電話をさせたのだろうか。あるいは、声を変える機械を通してしゃべっているとか──しかし、そんな複雑なことが可能なのだろうか。
 そこで隼人の思考は中断された。
 祖母が、隼人の顔をじっと見ている。
 責められているような気分になって、「ごめんなさい」と再びつぶやき、廊下に置いてあるかばんを取りに行く。
 回り回りの小仏。
 やなぎくにの著書で見かけた記憶がある。
 これはいわゆる当て者遊び、というジャンルのもので、歌と、人を選ぶという手順があるから、かごめかごめと似ているらしい。遊んだことはないが、今でも本に書かれていたイラストを思い出すことができる。
 回り回りの小仏は
 何故に背が低い
 親の逮夜にとと食うて
 それで背が低い
 よく考えると不気味な歌詞だ。
 逮夜というのは命日や忌日の前夜のことで、いかにも不吉だ。魚を食べたところで一体なんなのかと思うが──かごめかごめといい、わらべ歌は怖いものが多い。だから、この不気味さは、歌が本来持つもので、無性に不安になってしまうのは、ただの勘違いだ。
 ただの、田舎の、下らない、嫌がらせ。
 自分で自分に言い聞かせる。
 そして、いちいち田舎だの、都会だのにこだわってしまうこと自体、良くないことだ、と恥ずかしくなる。知らず知らずのうちに、もしかして、田舎を下に見てしまっているのではないか。
 大学にも「東京の人間は冷たい」とか「東京のご飯はしくない」とかわざわざ言う地方出身の人間や、逆に、「田舎の奴はすぐたたりとかのせいにするんだろ」など田舎についてのひどい偏見を吐く、ずっと都会で暮らしてきた人間がいる。
 住んでいるところだけで個人のパーソナリティを決めつけるなんて恥ずかしいことだ。
 出身地は違えど、隼人と匠は、そういう価値観を共有できたからこそ、親しくなったのだ。
「匠、どこにいるんだよ」
 脱衣所で服を脱ぎながら、そう呟く。
 匠の祖母はああ言ったが、風呂から出ても帰ってきていなかったら、このあたりだけでも捜してみようと思う。
 隼人は息を止めて、風呂に頭まで浸かり、十秒数えた。
 小さい頃、母が言っていた。
「嫌なことがあった日はね、お風呂にザブーンって浸かるの。それで、十秒間お湯の中で、『今日のことは忘れる』って唱えてから頭を出すと、スッキリするよ」
 アルバイト先に遅刻したとき、課題のことで先生に怒られたとき、彼女とけんをしたとき──隼人は大学生になっても、必ず母の言うとおりのことをしていた。そして、そうすると、本当に少し気分がマシになるのだ。
 今日のことは忘れる。
 今日のことは忘れる。
 今日のことは忘れる。
 心の中でそう唱え、勢いよく立ち上がる。
 電話のベルだ。耳が、その音を拾う。
 気のせいではない。また、電話が鳴っている。
 いやでも応でも、あの不気味な声を思い出す。せっかく忘れようと思っていたのに。
 隼人は大きくためいきを吐いた。
 洗い場で、緩慢に体を流し、風呂場の内扉を開ける。年代ものの曇りガラスの扉は、きゅうきゅうと嫌な音をたてた。
 髪の毛をタオルで乾かしている最中に、ふと違和感に気づいた。
 電話が鳴っている。
 まだ鳴っているのはおかしい。
 いい加減、匠の祖母が取るはずだ。
 匠の祖母は隼人に先に風呂に入るように譲ってくれたから、まだ起きているはずだ。
万が一うとうとするようなことがあっても、ここまでやかましく鳴りつづけていたら誰でも目が覚めてしまうはずだ。
 不安が止まらない。
 隼人は髪から水がしたたり落ちるのも構わず、上半身裸のまま廊下に出る。
 大丈夫だ、と言い聞かせる。あんな変な電話があったから、今日はもう電話を取りたくないだけだ。だから、自分が出ればいいだけのことだ。
 大丈夫だ。大丈夫。大丈夫。
 電話の置いてある場所に辿たどり着くには、居間を突っ切る必要がある。
「あのお、電話」
 隼人は──安心するために、誰かの声が聴きたくて、そう言いながら扉を開ける。
 大丈夫だ。
 大丈夫。
 大丈夫。大丈夫。
 体の全身から、力が抜けていく。足に力が入らない。床に座り込む。
 目の前の光景を信じたくない。
 するべきことは分かっている。それでも、立ち上がることができない。
 靴下を穿いた、小さな足の裏が見える。
「おばあさん」
 返事はない。
 電話が鳴っている。


 ※

 何一つ考える気にならない。
 隼人にとって、さっきまで話していた人がいなくなるのは初めてのことではない。
 五歳下の妹が、隼人がまだ小学生の時に亡くなっている。
 五歳を迎える前日に、デパートで少し目を離した隙に行方不明になった。
 後日、妹は、二つ隣の県の山林の中で死体で発見された。変質者に襲われたのだということになっている。今でも地元の子供たちに、子供を狙った恐ろしい事件として語られているらしい。
 最後に妹を見たのは隼人だった。
 まだ幼い妹は歩くのに疲れてしまい、ひどくぐずった。もう歩けない、一歩も歩けないと言った。隼人がそんなことを言ったら、わがままを言うなと𠮟られたのに、妹がそう言っても、何故か許されていた。そんな妹がねたましくて、隼人は言ったのだ。「分かった、もう置いてくよ、バイバイ」そう言って、わざと背を向けた。
 それで、振り返ったら妹は消えていた。
 誰も隼人のことを責めなかった。隼人自身も、自分のせいで妹が死んだのではないと分かっている。
 それでも、もしかして、何かできたのではないかと思っている。今も。これからもずっと思うだろう。
 今も、同じ気持ちだ。
 もし、もう少し早くから上がっていたら、あるいは、匠が帰るまで待ちますと言って居間に居座りつづければ、手遅れになる前に救急車を呼ぶことができて、彼女が死ぬことはなかったのではないかと。
 考えても無駄なことばかり考えてしまう。
 いずれにせよ、匠の祖母は亡くなってしまった。
 彼女が搬送された先で死亡が確認されたことは、驚くことに次の朝には近所中に知られていた。
 匠と同じみょうの人間がどやどやと家に訪れ、色々と質問された。
 隼人は何も答えられず、
「俺は匠に連れて来られただけで……」
 とお茶を濁した。相手は納得していないようだったが、本当に、連れて来られただけで、何も分からないのだ。肝心の匠も、いまだに帰って来ない。
 質問攻めが終わり、匠のしんせきらしき連中が、事務的な処理をてきぱきとこなしているのを眺めていると、かっぷくのいい中年男性に「おい」と声をかけられる。
「あんた、なんもせんでぼうっとして。ほんな暇があるんやったら、ここへ電話してください」
 そう言って渡された紙には「緊急連絡先」という文字が印刷されている。その下に、『籠生かず』という人間の名刺が貼ってあった。
「これ、匠くんのお母さんのお兄さんです。たしか、東京の会社で働いとるらしいわ。あんたも東京から来てんから、話も弾むと思うわ」
 言葉の端々になんとなく嫌なものを感じた。東京に長くいることだけで、話が弾むわけはないが、そういうことではない。この男は、和夫に対して反感を抱いている。そう感じ取った。
 和夫の会社に連絡をすると、和夫は海外に出張している、確認が取れたら折り返し電話させると言われた。その一時間後、和夫から電話がかかってくる。その頃には、親戚連中もいなくなっていた。
「もしもし、ええと……」
「志村隼人と申します。匠くんの友人で、彼に誘われてこちらのご実家にお邪魔しているんですけど」
 隼人がかいつまんで説明すると、
「本当にすまないね。君は、遊びに来てくれただけなのに……そっちに戻れるのはどんなに早くても明後日あさってだ。できれば、どうかそれまでいてくれないだろうか」
 隼人は少し迷ったが、「はい」と答えた。予定ではあと三日滞在することになっていたから、問題はない。それに、単純に気になることがあるのだ。
「それで、まだ匠が帰って来ないんですが……和夫さんは、心当たりとか、ありませんか」
「ううん……恥ずかしながら、親族と反りが合わなくてね。匠と会っていたのも、ほんの小さい頃だけなんだ。だから、心当たりはないかな」
 そう言って和夫は話を切り上げようとする。
「あ、あの」
「なんだい?」
「なんか、誰も匠を心配してなくて。それに、なんか、みんな、様子がおかしくて……その、言いにくいんですけど、この家の人は」
「ごめんね。何度も言うけど、そちらの人間とは折り合いが悪くて、ほとんど分からないんだ。申し訳ない、仕事に戻らなくては。勝手なことを言ってすまないが、到着するまでよろしく頼むよ」
 隼人が次の言葉を発する前に電話は切れてしまった。
 とりあえず、頭の中を整理するために、椅子に腰を下ろす。
「あっ、ちょっとあんた、言い忘れてたけど」
 思わずわっと声をあげて飛び上がる。
 柱の向こうから、先程の年配の男性が顔を出していた。
 かぎがかかっていないから、匠の家は完全に出入り自由になってしまっている。
「なんやお兄ちゃん、けったいな声出して」
 年配の男性はひとしきりわらった後、机の上に紙の束を投げた。
「これ。一応来るやろ? 葬式。場所とか、手順とか、書いてあるけん」
 ははは、とわざとらしく大笑いしながら出て行ってしまう。後ろ姿に「田舎者」と怒鳴りつけてやりたいと思ったが、意外にも親切なのかもしれない。
 葬儀は宗派によって作法が違う。
 とりあえず隼人はそれを熟読し、葬儀に備えた。
 少し驚いたことがある。近所の人間が全員、かなり同情的な態度を見せたことだ。
 隼人が気分転換に外に出て散策していると、どこからともなくこの土地の住人が寄ってくる。
 そして顔をゆがめて、「つらいろう」と言ってくる。困ったことがあれば、頼ってきてくれと言う者も少なくなかった。
 嫌がらせをしたのは、間違いなく彼らの内の誰かなのに。
 村八分というのは、放置していると共同体にとって害になりうる場合だけは、例外的に関わってきてくれるものだそうだが、そういう問題でもない。
 匠の祖母を辛い目に遭わせたことは、直接的ではないが、死の原因の一つだ。少なくとも隼人はそう確信している。だから、なんらかの反応があると思っていた。
 少しでも良心の残っている者なら気まずそうにするだろうし、悪意のある者ならニヤニヤとこちらがどんな表情をしているのかうかがってくるかもしれない。
 しかし、誰も彼も、本当に悲しそうな顔をするのだ。
「俺は匠の友達で……たまたま居合わせただけなので……」
「ほうなの……辛い目に遭ってしまったねえ。可哀想に」
 ひょっとして、すべて自分の勘違いだったのだろうか。混乱しながら、ほとんど回っていない頭で考える。ここの住人が何かおかしいというのは勘違い。
 しかし、そんな考えは、いつも一つのことで止まり、また振出しに戻る。
 回り回りの小仏。
 あの不気味な電話だけは、「勘違い」ということにはできない。
 誰かが、なんらかの──いや、悪意を持ってかけてきた電話。
 誰がかけてきたか突き止めたい。そして、そのようなことをした責任を取らせる──まではいかなくとも、どういう意図があったのかくらいは聞きだしたい。
 隼人は完全に部外者かもしれないが、少なからず憤りを感じているのだ。あの弱々しい老人を辛い目に遭わせたこと、そして匠を心配する素振りすらないことに。


 次の朝、また我が物顔で出入りしている男性に匠の行方を聞いた。すると「もう警察には言った」と言う。信用できなかったから、隼人も自身で連絡してみる。予想に反して本当に連絡を受けており、捜索中だと言う。
「でもなあ、匠くんが小さいころも、こういうことはあったけん。お友達さんも心配せんでええんやないかね。大方、山におりますけん。今日は、さんのお葬式もあるろう」
 山にいるというのは、きっと匠は小さい頃、このあたりの野山を駆け回っていたということなのかもしれないが、大学生になってまで、そんなことをするだろうか?
 長閑のどか、とでも言えばいいのかもしれないが、あまりにも緊張感がない様子に、隼人はそれ以上何も言えなかった。
 男性が置いて行ったサイズの合わない礼服を着用し、セレモニーホールに向かう。
 行く途中ちらちらと視線を感じたが、これは「よそ者」に対する警戒の視線であって、それ以上の悪意は感じなかった。
「遺影はどちらにありますか?」
 業者に聞かれて、親戚の男に指示されたものを手渡す。
 少しほっそりとした輪郭と、年相応のたるんだ頰。隼人が見た彼女よりも生気に満ちているように見える。屈託なく笑っているからかもしれない。
 隼人が到着すると、すでにそれなりの人数が集まっている。
 参列者の顔を、一人ひとりじっと見る。もし犯人がいれば、目があったら気まずそうな反応を見せるかもしれないからだ。
 しかし、やはり目が合っても、誰もが優しいまなしを向けて来るばかりなのだ。
「休んでいてえいよ」
 そう声をかけてきたのは野崎だった。隼人は驚いて野崎の顔を見つめた。あの日わざとらしく目をらしたのと同じ人間とは思えない。心からいたわるような優しい表情だ。
「匠くんのお友達やろ。東京から来たばっかりで、ほんで突然、こんなことになってしまって……よう頑張ったねえ」
 そう言って手を伸ばしてきて、幼い子供に対してするように頭をでてくる。思わず手を振り払ってしまっても、野崎は怒ったりしなかった。
「本当に、本当に、大変じゃったねえ。なんも分からんで、それなのに残ってくれて、えい子じゃねえ」
「あの、匠は……」
 そう言ったのとほぼ同時に、せ型の老人が野崎に声をかけた。
「ごめんねえ、私、やることがあるき、後で話しましょうねえ」
 そう言って、野崎は受付に座った。
 名簿を見ながら弔問客たちに丁寧に対応する野崎を見て、あきらめた。こんなに親切なのだから、野崎は犯人ではない、と思うことにした。野崎よりも、もっと疑うべき人間がどこかにいるはずだ。弔問客の、中に。
 葬式は仏式で、特に詳しくない隼人は宗派とかそういうものは分からない。心の中には焦りだけがあった。この中にはきっと、電話の犯人がいる。この機会を逃せば一生分からないままかもしれない。強烈な違和感が増していく。匠が出席していないことはもっと騒がれるべきだ。それなのに、声をかけてくる人間は皆、東京から来た隼人を気遣うばかりで、匠のことは口にしない。居心地が悪いのに、そう感じているのは恐らく自分だけだ。それを口に出すのもはばかられる。これから通夜が始まるからだ。
 どんなに耳を澄ましても、あの電話と同じ声は聞こえない。そもそも、老人ばかりだった。
 ふと、ざわめきが止まる。
 きょろきょろと見回すと、後方から、紫の僧衣をまとったそうりょが入場してくるのが見えた。
 布を引きる音が、やけに耳障りに感じた。
 僧侶はひつぎの前に腰かけ、読経どきょうを始めた。僧侶の声もまた、犯人とは程遠い。
「ととをくうちょるんですよねえ」
 神妙にお経を聞いていないといけないはずだ。死者が安らかに成仏できるように。
「ととをくうちょるんですよねえ」
 でも、頭から離れないのだ。ととを、くうちょるんですよねえ。
「ととをくうちょるゆうことは、ばちあたりゆうことですよねえ」
 顔を上げる。
「ばちあたりゆうことは、みなしぬゆうことですよねえ」
 自分の脳内から漏れ出していると思っていた言葉だった。しかし、違う。電話で聞いた妙に若い男の声ではない。
「みなしぬんやから、これは練習ちゅうわけですよねえ」
 何が面白いのか、声が震えている。
 老人の声だ。老人の、女の声。
「そうしきは、しぬ練習ですよねえ」
 読経はもう聞こえない。皆、声の主を探している。
「みなしんだら、葬式する人もおらんくなりますねえ」
 誰かが、「あ」と声をあげた。隼人も声をあげるところだった。
「ほしたら、しんだひとは、わだかまるんですかねえ」
 わはは、と笑っている顔は、先程声をかけて来た時と変わらない野崎だ。よう頑張ったねえ、大変じゃったねえ、と隼人を労わった、優しい笑顔だ。
「わだかまって、どこにもいけんのんじゃねえ。でも、ごくらくは、あるんかいねえ」
 ギギ、という音がした。野崎がパイプ椅子を引き摺って立ち上がった。
 野崎を止める人はいなかった。小さくて腰の曲がった老女を止める人間など、どこにも。
 野崎は右足を引き摺りながら、ひょこひょこと歩いて、僧侶の後ろに立った。
「ねえ、ごくらくと、じごくは、あるんかいねえ」
 僧侶の口が鯉のように開いたり閉じたりを繰り返す。野崎は、ねえ、あるんかいねえ、と何度も繰り返した。答えは返ってこない。
「しんでみんと、わからんこともありますよねえ」
 野崎は手を伸ばし、木魚を取る。
 やめろとか、そういう言葉を僧侶は力ない声で言った。ほとんど聞こえもしなかった。
「わからんことは、おそろしいことですよねえ、ほいじゃったら、わだかまっちょったほうが、やさしいですかねえ」
 野崎が木魚をたたいている。ばちからは先端の丸い部分が取れて、それでかちかちと歯を鳴らすような音が鳴った。
「まわりまわりのこぼとけはぁ」
 野崎は木魚を鳴らしながら楽しそうに歌う。
「なぁぜにせがひくいぃ」
 野崎の手から木魚が転がり落ちる。しかし木魚などなくてもいいようで、野崎の指は何もない所を行ったり来たりする。
「おやのたいやにととくうてえ、そおれでせがひくいぃ」
 野崎がそこまで歌ったところで、やっと、野崎の家の者が野崎の腕をつかんだ。野崎を引き摺るようにして、その場から立ち去ろうとする。
 野崎は抵抗することはしない。ただ、にこにこと微笑んでいる。
「しんだらどんなきぶんかききたいんですよねえ」
 野崎と目が合う。野崎の目は黒々としている。口元に笑みを張りつけて、しかし少しも笑っていなかった。隼人を見つめている。
「しんでみなくてはわからないですねえ」
 語尾がき消される。
 野崎の顔から、棒のようなものが生えている。生えているのではなく、刺さっているのだ。自分で、自分の顔に桴を──それを理解できたのは、女性の悲鳴が聞こえたからだった。
 鼓膜が引き裂かれるような声で、女性がわめいている。それをきっかけに、参列者が騒ぎはじめる。
 女性をその場から連れ出そうとする者。女性と同じように悲鳴をあげる者。警察、救急車、という声。何もできず右往左往している老人。ぼうぜんと立ち尽くしている誰か。
 野崎の手を引いていた、彼女のおいにあたる人物は、ひざ立ちで野崎の体を支え、懸命に呼びかけている。
 抜かない方が良い、と誰かが大声で言った。刺さったもののことだ。抜くと、脳の一部を傷つけてしまったり、出血量が増えることがあるらしい。
「あはぁ」
 どちらにせよ、野崎はもう駄目だ。
 笑い声を漏らしながら、体を揺すっている。
 何故、彼女に寄り添えるのか分からない。
 彼女はすでに、化け物にしか見えない。
「まわ、り、まわ、り、の」
 隼人は耳をふさいだ。


 葬式をやったら、死体がもう一つ増えた。
 落語にでもありそうな話だ。
 悲惨すぎて、いっそこっけいだ。そう思うと、ふ、と笑い声が漏れる。その瞬間、後頭部を叩かれた。
「何を笑っておるんか、お前」
 振り向くと、細身で顔の浅黒い老人が憎しみを込めて隼人を見ている。
「何が面白いんか」
「いえ、その……」
「どうせかわはらは、お前に恨み言を言いよったんじゃろ」
 河原というのは、匠の祖母、というか、匠の家族のことだ。このあたりには「籠生」という姓の人間が多いからか、識別のため、土地の名前で呼ばれているのだ、と匠に教えてもらったことがある。
 この老人は、野崎の縁者のようだ。受付で彼女を呼び止めたのもこの老人だった。野崎と違って愛想のいいタイプではない。顔に深く刻まれたしわを見れば、いつもどんな表情をしているかうかがい知れると言うものだ。
 野崎があんなふうになったことを、この老人は匠の祖母のせいにしている。老人の言うことは意味が分からなかったが、それだけは分かる。
「恨み言って……」
「腹の立つ。標準語しゃべって、偉いつもりか」
「いや、そんな」
 なぜ責められなければいけないのか、分からなかった。野崎が亡くなり気が立っているのは分かるが、隼人には関係のないことだ。八つ当たりをされても困る。
 なぜ匠の祖母のせいにしているのか、それを聞きたかったが、反射的に、
「俺は関係ないので」
 そう言い捨ててしまう。
 けんごしで来られて、大人しくしているのは難しい。友人の祖母が目の前で死体になって転がっていた。その友人は今もどこにいるか分からない。そんな状況で他人の悲しみに寄り添うことはできない。それどころか、腹が立ってくる。なぜこんな被害者のような振る舞いをして、一方的に無関係な人間を責め立てられるのか分からない。
「関係ない? よう言うたもんじゃわ」
 老人は長椅子の脚を思い切りばす。振動が体にまで伝わり、思わず立ち上がった。
「何すんだよっ」
「こっちのセリフじゃ。恨んどったなら、はっきりと言えばえかったんよ。生きてるうちに、はっきりと。死んでから引っ張りよって、河原は昔から、じめじめして、底意地の悪い」
「ぐだぐだぐだぐだ意味分かんねえよ、ジジイ」
 ジジイ、という言葉に反応して、老人はこぶしを大きく振り上げる。殴られる、と思って、隼人は右腕を顔の前に上げた。
「おじいちゃん!」
 女の高い声と同時に、柔らかいものを打ったような音が聞こえる。足元に、三十代くらいの女性が転がっていた。
たえ……すまね」
 老人は口だけでそう言う。匠を殴ろうとした拳が、この女性に当たってしまったというのに、助け起こそうともせず、バツの悪そうな顔で突っ立っている。
 隼人は片膝をついて、妙子と呼ばれた女性に手を差し伸べた。
「河原、お前が妙子を触るな!」
「だから俺は関係ねえって言ってんだろ、ジジイ。お前が何もしねえから」
「おじいちゃんっ」
 隼人の言葉に再び拳を振り上げた老人に、妙子が鋭い声で言う。
 老人は悪態をぼそぼそと吐いた後、鼻を鳴らしてどこかへと歩き去って行った。
「ごめんなさいね」
 妙子は隼人の手には触れず、自分の力で立ち上がった。
「あ、血が」
 白い頰の一部が赤く染まり、鼻から一筋血が流れている。
 妙子はハンカチで鼻を押さえて、
「大丈夫」
 そして先程まで隼人が腰かけていた長椅子に座り、手だけで隣に来るように指示した。隼人が隣に座ると、妙子は力なく微笑んだ。弱々しい笑顔に、あまり良くない色気のようなものを感じて、隼人は目をらす。
「あの、私、野崎の孫です。野崎妙子といいます」
「志村隼人といいます、籠生匠の大学の友人で……」
「そうなんですね……すみません、おじいちゃん、多分、あなたと匠くんを間違えたんやと思う」
「ええ、全然似てないのに……」
「目がほとんど見えないのよ」
「そうですか……」
 しばらく気まずい沈黙が続いたが、やがて妙子がおずおずと口を開いた。
「やっぱりこうなっちゃったか、と思ってね」
「やっぱり……?」
「ええ、やっぱり」
 妙子は細い指を、椅子の上で行ったり来たりさせている。
「やっぱりって、どういうことですか」
「ここに来たゆうことは、当然、ほとけのことで来たと思うんやけどさ」
 妙子は早口で続ける。
「ほとけ、近づけたでしょう。河原さん、責任感の強い人やったから……みんな、やめとけって言うたんやけどね。結局、あかんかったというか、なるようになったというか」
「何を、言っているんですか?」
「本当に申し訳ないことや。おじいちゃん、罪悪感があるのよ。本当に勝手な人。罪悪感があるから、なんとかして、河原さんにも悪い所があるって思いたいみたい。私は恨んでへんからね。恨むなんて、お門違いもいいとこやし。そもそも、私たちがコントロールできるもんやないって聞いてたし」
 妙子は、まるで今日の天気とか、可愛い動物の話とか、そんな気軽さで、意味の分からないことをとうとうと語っている。
「おじいちゃんは宝をもらったんやけどね、でも河原さんは」
「あのっ」
 匠が大きな声を出すと、妙子は驚いたように顔を上げた。
「な、なあに? 急に、大きな声出して」
「本当に、意味が分かりません」
「ああ、ごめん、ごめん。最初から言わんといかんかった。河原さん、わざわざほとけを近づけたんよ。わざわざ、野山入って、探して、どこに移動するか分かる前に、引っ張って来たんやって。すごいことするよね。もう、身内は一人しかおらんからええわって言うてた。でも、あの声に耐えられるとは」
「違います! ほとけって、なんなんですか」
 妙子の指が止まる。口がまあるく開いていた。しかしそれも一瞬のことだ。
 彼女は急に、焦ったように席を立った。
「え、ああ、そう、そうなんだ。何も知らないのね。じゃあ、大丈夫」
「大丈夫じゃないですよ。なんですか、どういうことですか、ほとけって」
「いえ、本当に、知らないというのは、大丈夫なの。知らなければ、大丈夫だと思う、知らないって強いのよ。まったく関係ないんでしょう」
「は?」
 しつこく問い詰める隼人を見て、妙子はいらったような口調で言う。
「あなたずっと恨まれてたって言われたら気にするでしょう? 食事やって、満足に取れなくなるかも。ずっと恨まれていたって思ったら、そうなるの。ほやったら、知らなければええと思わん? あなたやって、関係ないって怒鳴ってたやん。ね? 恨まれていても、呪われていても、知らなければ、ええ気分で過ごせると思わん?」
「え……」
「とにかく、ほういうことやから。この度はご愁傷様でした」
 妙子は引き留める間もなく、走り去っていった。
 隼人は追いかける気にもならず、椅子に座りなおした。言われたことを脳内ではんすうする。
 ほとけを近づけた。
 責任感が強い人。
 コントロールできるものではない。
 あの声に耐えられる。
 わざわざ近づけた。
 並べてみても、考えようがない。考える糸口すらない。
 それでも少し、分かることは、ほとけを近づけるというのは、決してありがたくない、むしろ悪いことが起きるような──
 ぞくりとした悪寒が背筋を駆け抜けた。


 良くないことが起こる。良くないものがこちらを見ている。考えたらそんな気がしてしまう。
 知らないということは強いことだ。それは、そうかもしれない。しかし、到底納得がいかない。まるきり知らない状態ならそれでもいいが、隼人の前にはヒントだけが提示されている。これは、もう、少し知ってしまっている状態になるのではないか──
 そんなことを考えて、隼人は恐ろしくなる。自分が迷信めいた思想に走ってしまっているような気がした。こんなへいそくてきな環境にいて、誰にも心を開けないから、科学的に、現実的にものを考えることができなくなっているのかもしれない。
「匠」
 そうつぶやいても、もちろんこたえはない。
 頭にもやがかかったような状態で、隼人はふらふらと外に出た。人はもう、誰も残っていない。
 あの家に帰るしかない。
 外はどんよりと曇っていて、遠くは霧がかかっていて見ることができない。
 幻想的、というようにはとらえられない。不気味だ。悪夢の中に迷い込んだようにおどろおどろしい。体の重さだけが、夢ではないことを教えてくれる。東京にいた頃の隼人なら、こうは考えなかった。田舎の光景を不気味に思うのは差別的で良くないと思っていた。今はそんなふうには考えられない。
 少し脇に逸れたら竹林だ。中に入ることを想像する。ぐるぐると同じところを通り、二度と出られない。泣いても騒いでも。
 霧がますます濃くなる。
 眩暈めまいがする。そこにうずくまろうとしたとき、
「ああっ」
 大きい男の声がそれを邪魔した。
「クソ! 足もいてえわ!」
 遠くに輪郭だけ見える男は、恐らく靴を脱ぎ、逆さにしている。小石でも入ったのだろうか。
 彼はぶつぶつと何かつぶやきつづけている。
「クソ、どこも籠生じゃ。どの籠生か分からん。どがいしたら……あっ、君!」
 男は駆け寄ってきて、頰にくぼを作って笑った。
「この辺で籠生さん……あ、いや、みんな籠生さんじゃけんど、籠生和夫さんの」
 聞いた名前が出て、隼人はとっに答えてしまった。
「俺、和夫さんのおいの匠くんの友達です」
「ああ、匠くんの! よかったよかった。これは運なんかな、神様ありがとう」
 男は天を仰ぎ、大げさに手を合わせる。
 よくしゃべる男だ、と隼人は思う。隼人が一言も話さないのに、べらべらと自分のことを一方的に話す。
 もりたてと名乗った男は、いかにもさんくさい見た目をしていた。
 細身で、葬式のような黒いスーツを着ているが、まったく似合っていない。普段、スーツを着るような仕事に就いていないのだろう。個性的なファッションの人間が多いはら宿じゅくでもほとんど見ないような大きな丸いサングラスをかけていて、それでなんとか鋭い目つきを隠そうとしているのだと思った。
 口調は軽薄なのに、余裕や、親しみやすさは一切感じない。隼人を上から下まで吟味するように眺めている。初対面だが、なんだかこの男が好きになれそうになかった。
「そういうわけでな、今から、そちらにお邪魔させてほしいんですけど」
 何がそういうわけなのか。隼人はいらいらしながら尋ねる。
「津守さんは」
「うん?」
「匠の──いや、籠生さんの、どういう知り合いですか」
「ああ、知り合いゆうか、依頼されたんです。そろそろじゃって」
 そろそろ、という言葉を聞いて隼人はぞっとする。
 この状況で「そろそろ」の後には「死ぬ」しか続かないような気がした。つまり、津守は匠の祖母の死期が分かっていたということなのだろうか。
「どうして分かったんですか、匠のおばあちゃんが、死ぬって」
 隼人が津守をにらんでも、津守はきょとんとした顔をしている。そのとぼけた様子にますます苛ついた。
「もしかして……あんたが、電話したのか?」
「はあ? 電話?」
 津守は隼人よりは年が上だろうが、まだ若い。二十代後半か、三十代前半くらいに見える。もし、嫌がらせの電話がこの男なら。
「とぼけてるんですか? それとも、本当に知らないんですか」
「いや、勝手に話を進められても、君の考えてることが分かるわけないがやないですか」
 極めて冷静な声だった。ほんの少しだけ反省する。しかし、同時に、勝手に話を進めているのはお前の方だろう、と言ってやりたい気持ちもあった。
 津守を責め立てても仕方がないから、隼人は津守に電話のことを話してみる。不気味な歌。その直後に、匠の祖母が急死したということ。野崎が葬儀の中で同じように不気味な歌を歌い、自分の顔に棒をつき刺して自殺したことについては話さなかった。
 もし電話の犯人だったら、何か反応はするだろう。
 隼人はそう考えて、じっと津守の反応を探った。
 しかし、津守は慌てるでも、にやつくでもなく、けんしわを寄せた。
「ほうですか。まあ、全部つぶすしかないね」
「は?」
 潰す、という物騒な言葉に驚いて聞き返す。
「潰すって、どういうことです」
「まっこと申し訳ないけんど、あの家も、裏の山も林も全部更地になってしまう」
「なんでそんな、勝手に、そういうことを」
 津守は電話の主ではない、ということは、なんとなく分かった。それよりもずっと、面倒なものかもしれない。きっと、弁護士とか、それに準ずる業者なのだ。
 恐らく、和夫が依頼したのは、匠だけになってしまった場合の後処理だ。匠をまだまだ小さい子供だと思っているにちがいない。祖母が亡くなってしまったら、ぼうぜんしつで、何の身動きも取れなくなるような。
 しかし、強引すぎる。
「それ、匠に許可を取ったんですか?」
「取る必要あります?」
「そりゃあるでしょう!」
 どうしても口調がきつくなる。津守はまるでこちらが面倒なことを言っているかのようにためいきを吐いた。
「だって、匠くん、もうおらんでしょう」
「は……」
「匠くんって、色白で、弱々し〜い、へいあん貴族みたいな子ぉでしょ」
 津守はこめかみに指を当て、くるくると動かした。
「ほんの少しだけ見えるんじゃけんど、多分もう無理じゃね。帰ってこん。でも、彼も覚悟を」
「なんなんですか? そういう、意味不明な、霊感商法ですか?」
「アホ、なにが霊感商法かて。俺が君に何か売りつけましたか?」
 隼人は到底受け入れられなかった。
 この土地には、何か呪いとかそういう、迷信めいたものがあるのは分かる。
「ほとけ」の話もそうだ。匠の祖母は何かタブーに触れてしまった、そういう解釈もできる。
 しかし、今は平成だ。合理的な根拠に欠けることは信じられるべきではない。
 隼人には、目の前の男が、そういった前時代的なものの代表に見えた。
「オカルトとかそういうの、俺は信じませんから。匠のおばあちゃんが亡くなったのも、野崎さんが亡くなったことも、医者や警察官に任せることですよ。おはらいとかおまじないとか、そんなことで解決できることじゃないですよ」
「俺、お祓いなんてするつもりはないけんど」
 困惑したように津守が言う。
 困惑した表情が噓とは思えず、隼人も困惑した。
「でも、さっき、頼まれたって」
「頼まれたのは、葬式じゃ」
「葬式はもう終わったじゃないですか」
「それとは違う、葬式じゃ」
 意味が分からなかった。隼人が黙っていると、津守が言葉を付け加えた。
「この家の、葬式、ちゅう意味やね」
 津守は何が面白いのか、にやりと笑ってみせる。
「ここを終わらせるんよ」


「は……?」
 津守は隼人の反応を気にせず言う。
「ここはもう、終わりなんでね、潰します。ほういうことです」
「は? だから、意味が分からない。どういうことか、もっと現実的な説明してください」
「説明はいらんでしょう。人がこんだけ死んでいる。良いことだと思いますか? 思わんでしょう。ここがあったらまたおんなじことがおんなじように起こりますから、もうここはすべて潰すゆうことですよ」
「いや、その理屈が分からないし……どうして急に、全部潰すとか」
「急でもなんでもないですね。納得いかんでも、君の了承を取る必要はないんですわ。もう和夫さんの許可は得ておるんでね」
 そう言うと、津守は唐突に上を見上げた。
「おお、気色が悪いのぉ。こがい近くにおったんか。目が痛いわけじゃ」
 ザザ、と音がする。隼人が振り返っても、何もない。しかし、草が揺れている。まるでそこに何かがいたかのように。
「とにかく」
 大きな声でそう言われて、隼人は津守の方に視線を戻した。
「とにかく、君は、今日にでも東京に帰ったらえいんじゃないかね。ちゅうか、そうしてもらわんと困るわ」
「急になんなんだよ」
「だから、急じゃないがですよ」
 サングラスの奥の目がこちらを見ていないことは分かる。隼人の背後の竹林をじっと見つめていた。
「何年も前から言うちょる。もうここはめちゃくちゃじゃ。今じゃえずうて、目が潰れそうじゃ」
 そう言って津守は、胸元から何かを取り出して、放り投げるような仕草をした。
 何をしているんだ、と隼人が尋ねる前に、獣の鳴き声がした。
 がさがさと大きく草をき分ける音がして、気配がなくなった。
「今の……」
「見ちょるだけでしょう、今は」
 津守は忌々しげに舌打ちをした。
「君、たまたま居合わせてしまって災難じゃったね。君は本当に無関係ですし、さっさと帰ってくださいね。今ここにほとけがある、それが不運じゃった、いんや、場所が分かったちうのは、幸運かね」
「ほとけ……うなずき仏のことか?」
「頷き……? ああ、そんなふうに呼んでますか、色々考えつくもんじゃ」
 また舌打ちの音が聞こえる。自分に向けてではないにしても、舌打ちは不快な仕草だ。
 いらちがますます大きくなる。
「とりあえず、和夫さんに確認しますから」
「おう、えいえい。電話して確認したらよろしいわ。でも帰ってすぐにやってください。もう、今すぐにでも片づけんといけませんからね」
 笑い交じりの声にも苛つく。
 突然やってきて、勝手なことばかり言って。
「俺、このまま東京には帰りませんよ」
「は?」
 津守が威圧的に聞き返してくる。自分の提案が拒否されると思っていなかったとしたら、余程常識がないのだろう。
「急に来て、勝手なこと言われて。匠はいなくなるし、おばあさんたちは死んじゃうし。っていうか、なんなんだよ、ここ。意味分かんないことだらけですよ……どうしたらいいのか分かりませんよ。やっぱり、もしかして、あなたが」
「失礼なこと言わんでくださいや」
 津守の声が冷たく響いた。
「俺がここの土地の人間に優しくする必要はまるきりないんですわ。それでも優しくしてやっちょるのは徳を積みたいからですわ。それに、一応、人が死ぬんは嫌じゃち思うちょるき。人間には善性ちゅうのが生まれながらありますけん。ここの人間にはないようじゃけどね」
 津守がチッと舌打ちをする。右手にいつの間にか煙管キセルを持っていた。
 思い切り空気を吸い込み、盛大に煙を吐く。
「言いすぎたわ。君の友達とその家族はなんも知らんかったようじゃわ。君もせいぜい、邪魔だけはせんでくれんかね」
「邪魔ってなんだよ」
 隼人は煙で涙目になりながら津守をにらみつけた。
「なんなんだよ。みんなして、説明もしないで。何を隠してるのか、何が言いたいのかも分からないのに、言うとおりにしろってそればっかりで。そんなの、納得いくわけないだろ」
 津守だけにそう思ったわけではない。全員だ。
 何かを知っていて、それを隠している。その秘密が一体どういったものなのかまったく分からない。それなのに話だけが進んでいく。
「しつっこいなあ、君は。だから、納得なんかせんでも」
 津守の言うことを無視して、帰路につく。
 津守はなにかごちゃごちゃ言いながら、家の前までついてきた。しかし、目の前で扉をぴしゃりと閉め、かぎをかけると、それ以上何かしてくることはなかった。
 ちらりと電話に目をやる。
 和夫に電話しようかと思ったが、やめておいた。
 もし、というか確実に、「そのとおりだ」「早く東京に帰れ」そう言われるだろう。そうなれば津守に──この土地に対抗する手段が一つもなくなってしまうと思った。
 電話線を抜く。あの電話がまたかかってきたら、隼人はどうしていいか分からない。感情的に怒鳴りつけてしまうかもしれないが、そうしたらまた、人が死ぬ、かもしれない。あれは不吉なものであるという非科学的な思考が頭を支配した。
 回り回りの小仏。
 まずひとり、鬼になる子を決める。鬼になった子は目隠しをする。
 そして、何人か集まって手をつないで、鬼を囲むように円を作る。
 回り回りの小仏は
 何故に背が低い
 親の逮夜にとと食うて
 それで背が低い
 あの歌を歌いながら、一周回って止まる。
 鬼は目隠しをしたまま、
 線香 抹香 花まっこう しきみの花でおさまった
 と言いながら周囲の子を数え、その言葉の終わりに当たった子が今度は鬼になるのだ。
 この遊びは実際に見たことはないから、かごめかごめみたいなものだと思っている。
 死を呼ぶような遊びではなかったはずだ。
「まわり、まわりの」
 喉から勝手に言葉がこぼれる。
 隼人は自分の頰を強くたたいて、目を固くつむった。
 朝まで目覚めることがないように、そう祈る。
 闇に覆いつくされるような夜だった。
 なかなか寝つけない。いくら願っても、寝つけるはずもない。
 電話線を抜いているのにピンクの電話が鳴ったら、と思う。ホラー映画の影響だ。
 しかし、それ以上に考えてしまうことがある。
 恐怖をふっしょくしようと前向きなことや、楽しいことを考えようとするも、どうしても、妹のことを思い浮かべてしまう。
 可愛くて、大好きで、一生守ろうと思っていた。
 でももう戻ってこない。
 涙が絶え間なく流れる。
 すべてが理不尽だった。泣いてもどうにもならない。誰も恨むことはできない。
 匠もこんな気分になるのではないか。祖母が亡くなったことを知ったら。とてもごとだとは思えない。
 悲しみは恐怖を上回る。
 ずっと昔に亡くなった妹のことですら考えるとこんなに悲しい。
 匠は一体、どんな気分だろう、そう考えるだけで胸が詰まる。たまたま居合わせただけの友人にできることはなんだろうか。
 無意味な考えが、闇に吸い込まれて消える。
 それでもぐるぐると考える。
「隼人」
 声が聞こえた。


「隼人」
 匠の声だった。
 弱々しくて、控えめで、しかし確かに聞こえる。
 目の前に、白い光があった。
「隼人」
 それで、夢を見ているのだと分かった。
 まるで何もない空間に、光が射していて、そこにぼんやりとした匠の顔がある。
 匠、と声に出そうとする。今までどこにいたのか、祖母の葬式があったのに──そう言おうとしても、出ない。喉が詰まったようになっていて、一言も。
 しかし声に出さなくとも、理解しているようだった。
 匠は優しく微笑んで言う。
「おばあちゃん、死んじゃった」
 涙が出た。どうして微笑んでいられるのか。泣いたっていいのに、そんなふうに考えて、涙が出る。
「ごめんね、隼人、面倒なことに付き合わせたね」
 なんで匠が謝るのか。一番つらいのは匠だ。謝る必要などどこにもない。それなのに、無理をして笑顔を作って、余計に痛々しい。そんな真似はしないでほしい。
 何より、今、夢に匠が出て来たということが何を表しているのか。故人が夢枕に立つという話は古今東西よく聞く。つまり──そんなことは考えたくもない。
 匠はごめんね、と何度か繰り返した後、
「どうしても、心残りがある」
 そんなことを急に言う。
 心残り。その言葉で、見たくなかった現実が確定してしまったと思う。
 夢に現れて心残りを伝えるのは、死人だけだ。
 いや、これは自分の願望から来る幻覚なのだ、と思い込もうとする。
 まだそうと決まったわけではない。幻覚だ。
「面倒ついでに聞いてくれる?」
 匠は笑顔のままそう言う。
「心残りがあるんだ」
 そんなに強調しないでくれと思う。死んだなんて思いたくないのだ。
 それでも匠は、隼人の目をまっすぐに見つめている。
「隼人にしか頼れないから」
 隼人はうなずいた。
 真剣な目をしている人間を、突き放す気になれなかった。
 ありがとう、と短く言って、匠は申し訳なさそうな顔をする。
「俺ね、ほとけさまに、恩返しをしてないんだよ」
 頷き仏のことだ、と思う。
「辛い時も、いつも助けてもらった」
 匠の苦労を想像する。色々な苦労だ。
 このような、何もない土地から努力して勉強し、東京に出て来た苦労。しかし、それはごく表層的な表現で、勉強以外ももっと沢山の苦労があったことだろう。
 そう言えば、飲み会にもほとんど来たことがない。昼も、学食を利用せず、こそこそと隠れるようにして、銀紙に包んだおにぎりを食べていた。
 匠は弱々しい外見をしていたが、不平を漏らしたり、誰かにしっのような感情をぶつけたりしているところは見たことがない。強い人間なのだ。
 自分が彼の立場だったら、と想像することすらがましい。
 隼人は仏教のみならず、特定の信仰を持っていない。というより、目に見えないものは信じないようにしている。はつもうでにも行かないし、葬式で手を合わせる程度だ。
 しかし、匠が「助けてもらった」というのなら、そうなのだろう。ご利益というよりももっと、純粋な心の支えだ。心の支えとしての信仰は、自分が信じられなくても尊重したい。
「今度は俺が、ほとけさまを救いたいんだ」
 ほとけさまは救う存在で、救われる存在ではない。違和感がある。しかし、匠の言いたいことはなんとなく理解してしまった。あの男のことだ。
「あの男、ここをつぶす、って言ってただろ。ひどすぎる。どうしてそんな権利があるのか。ずっと、俺も、家族も、見守ってもらってたんだよ。それを、無くしたくない」
 匠はそこまで一気に言ってから、また隼人の目をじっと見た。
 くらい目だった。
 なぜかその時、合点がいった。
 幻覚ではない、と思った。
 これは匠だ。本物の匠で、正確に言えば、匠の幽霊。
 幽霊、と思うと途端に悪寒が走る。
 匠の肌はうす青い。生きていた頃の「色白」というはんちゅうを逸脱している。それで、輪郭がぼやけている。
 死人だ。
「隼人に怖がられたら、俺……しんどい」
 声が悲しく震えている。
 隼人は申し訳ないと思った。しかし、知らなかったのだ。たとえ親しい友人であっても、幽霊は恐ろしいことを。
「ごめん、無理言って。当たり前だよね、怖いよね」
 匠はまた、申し訳なさそうに頭を下げる。
 やめてくれ、と思う。むしろ謝りたいのはこっちの方だ。
「でも、どうしても、お願い、聞いてほしい」
 頷いた。頷けているかは分からないが、とにかく、そういう意思があった。
 それが伝わったのか、匠は微笑んだ。頰に薄らと涙が伝っている。
「嬉しい、嬉しい。ありがとう。これで、ほとけさまに恩返し、できる」
 匠の目は相変わらず昏く、洞穴のようだった。それでも、彼が喜んでいることが隼人は嬉しかった。
 しかし、ほとけをあの津守というさんくさい男から守るとして、どうしたらいいのか、と思う。まさか、物理的な方法を取るわけにもいかないだろう。
 そう思っていたところ、匠が、おもむろに口を開いた。
「隼人、大事なものを知ってる?」
 大事なもの、という言葉を聞いて真っ先に思い出すのは、家族のことだ。しかし、匠は首を横に振る。
「人じゃなくて。自分の中で、大事なもの。少し考えてみて」
 言われている意味が分からなかった。
 ふ、と何かが頰をでるような感触がある。
 思わずのけぞった。よくないもののような気がした。
「怖がらないで」
 匠の声が震えている。先程と同じように、傷ついたような、すまなそうな顔をしている。
 強烈な違和感がある。しかし、その正体は分からない。
 匠はとうとう涙をこぼした。だが、それは心から悲しいと思って泣いているというより、機械的な反応として涙が出力されている、そんなふうに感じた。
「隼人」
 匠が、顔に当てていた手をパッと離した。
 その顔を恐ろしいと思う。でも、間違いなく、匠の顔だ。なぜ恐ろしいと思ってしまうのか分からない。
 隼人は、恐怖をごまかすように、大事なものはなんだろう、と心の中で唱える。
「まず指だ」
 手元を見る。隼人の手には、左右合わせて十本の指が付いている。
「指は大事なものだ。指をほとけさまに差し上げる」
 思わずこぶしを握り込んだ。
 差し上げるとは、つまり、指を切って──
 匠がふ、と笑った。
「大丈夫。本当は本物の指を使うところだけれど、すぐに用意はできないもんね。俺、隼人に無理させたくないし」
 隼人は少しだけ安心する。しかし、同時に、やはり、指というのはこの指のことなのだ、と分かる。
「だから、本物じゃなくて、指みたいなものでいいんだ。それくらいは、できると思うから」
 匠の口調は穏やかなままだった。しかし、断定的で、圧迫感のある言い方だ。
「木でも、粘土でも、肉でもいい。今のところはね。ああ、いつも思ってるけど、鳥の足なんかは、人間の指によく似てるよね」
 匠はにこにこと笑っている。
 隼人は思わず目をらした。本当に聞かなければいけないことは、指がどうこうではない。なぜ、大事なもの、つまり指をささげることが、ほとけを救うことになるのか、ということだ。思っていることは匠に筒抜けのはずだ。隼人が何も言葉を発さなくても、今さっきまで匠は答えていたのだから。
 そのはずなのに、なぜか、今回に限って、匠は答えず不気味で意味の分からない話を先に進めてしまう。
「大丈夫だよ。たかが、本物じゃない指だ。絶対に何も起こらない。悪いことは隼人には起こらない。でもね、本当のお願いなんだよ。俺にはできなくて、隼人にはできることだから。本当の本当に、お願いなんだ」
 隼人は頷いた。最早先程の、友人への同情と思いやりからではない。ただ、目を覚ましたかった。早くこの夢から逃げたかった。
「ありがとう。家の裏を歩けば、すぐにあるからね。お願いだよ」
 お願い、と何度も何度も、聞こえる。耳にこびりつくようだった。


 目が覚めると、頰がひんやりとしている。指をわせると、何かかさついた感触があって、自分が泣いたのだ、ということが分かった。
 きちんと施錠したからだろうか、あの男が侵入してきた形跡もない。このあたりには施錠の習慣などないから、拒絶の意思は伝わっているだろう。目の前でぴしゃりと閉めたのだから。
「鳥の足」
 自分で言って、飛び起きる。
 そうだ。
 匠がそう言った。匠が夢枕に立った。
 指を確認する。左に五本、右に五本、きちんと付いている。
 確かに替えの利かない大事なものだ。指を捧げるなんて、ぞっとする。
「だから、指みたいな、もの」
 匠のくらい目を思い出す。深い洞穴のようだった。生きているときとは、違って。
 頭痛がする。意味の分からないことだらけで何が本当かそうでないか分からない。見た夢だって願望かもしれない。
 でも、もし自身の願望なら、それこそそのとおりにすればいいのかもしれない。
 隼人は布団から起き上がり、大きく伸びをした。体がぎしぎしきしむ。
 顔を洗い、洗面台の鏡を見ると、自分の目も昏くよどんでいる。夢の中の匠にそっくりだ。
 夢の中の願いをかなえることで、自分の心が解放されるかもしれない、と思う。少なくとも、このような表情でいなくてすむかもしれない。
 それに、ほとけのことが気になる。これは単純な好奇心だ。
 近づけた、というのがどういうことか。一般的に想像される石の像だとしたら、移動させるのには時間と力を要するはずだ。どんなものか見てみたい。どういう状態になっているのか。
 どんなものか分かれば、この土地の人間が隠している何かを理解するヒントになるかもしれない。
 隼人は申し訳ないと思いながら匠の部屋のたんあさり、洋服を何点か拝借する。どれも丈は合わないが、彼の服を身に着けることで、彼の望みを叶えているのだということが、より明確になるような気がするのだ。
 嬉しい誤算は、簞笥の中に小さなラックが設置してあり、その中に家のかぎが入っていたことだ。都会の人間だからか、家を開けっぱなしにすることには抵抗があった。今は、正当な家主が不在なのだから、なおさらだ。
 洋服を着替えた後、どこを向いていいか分からないから天井に向けて手を合わせる。
「行ってきます」
 もちろん誰もこたえない。
 そのまま玄関を開け、用心深く周囲を確認する。津守がやってきて、ごちゃごちゃとうるさく言ってくるかもしれない。早く東京に帰れ、ここはもうつぶすと、馬鹿の一つ覚えみたいに。そうしたら隼人も、馬鹿の一つ覚えみたいに、そんなの納得がいかないと返すしかない。不毛だ。
 三回も施錠したのを確認してから、隼人は勝手口から外に出た。

とりの足ィ?」
 肉屋の店主はそう聞き返してくる。
 彼もまた、知った顔だ。
「モミジ言うて、九州の方ではよう食べられとるみたいやけどな、お兄ちゃん、九州の人?」
「いえ、東京ですけど……食べたくて」
「ほうかあ。残念やけど、今すぐは用意できんな。養鶏場の方に聞いてみてもええけど……」
「あ、いいです、大丈夫です……」
 普通のはんちゅうから外れるとすぐ噂になる。東京から来たよそ者であるというだけですでに異物として見られているのに、わざわざ鶏の足など求めて養鶏場に連絡をしたとなれば、間違いなく噂になって「どうしてそこまでして鶏の足なんか食べたいのか」とせんさくされる。ゴミ箱を漁られたりもするかもしれない。田舎の人間を馬鹿にしたり、嫌がったりしているわけではない。ただ、他人のことを把握しておくことが、ここで生きていくための知恵なのだから、不審な行動があれば調べるだろう。
 肉屋の店主は目を細めて、
「ごめんなあ、気が利かんで。それと、匠くん、はよう見つかるとええね」
 隼人は頭を下げた。やはり、知られている。
 しかし、それは想定内だ。気遣いの言葉を投げられることは想定外だったが。とにかく、そんなことをいちいち気にしていても始まらない。
 買うという一番簡単な方法で鳥の足を手に入れられなかったいま、考えなければいけないのは、じゃあどうすればいいのか、だ。
 考えて隼人は、いったん家に戻ってから、山道に入った。
 確か、このあたりにかんきつるいを作っている場所があった。気分転換に散策をしたとき、見た記憶がある。一応農園といってもいいのかもしれないが、こぢんまりとしていて、さらにあまり人の手が入っていないのか、枝も実もまったく保護されていなかった。
 隼人が見た時、すでに実は熟しており、売り物になるかならないかというほどだった。
 記憶を頼りに歩いていくと、やはりその場所はあって、実がいくつもっている。地面から甘い匂いがするのは、実のうちの何個かが、熟しすぎて落ちているからだ。
 このような状態になっても収穫されていないのだから、やはりこの農園はほぼ捨てられているのだ。フェンスにはところどころ穴が開いてびだらけで、監視カメラのたぐいも見当たらない。
「あった」
 思わず声をあげてしまい、誰が聞いているわけでもないのに慌てて口をふさいだ。
 こんなことでうれしさを感じてしまったことも少し恥ずかしい。
 隼人が発見したのは、鳥害対策用の電気プレートだ。鳥が留まろうとすると、電気が流れ、鳥は飛び立っていくらしい。
 放置されている農園だからそういった設備もないと思っていたが、フェンスの近くに数枚設置してある。
 狩猟の技術など持たない隼人は、ふと、ずっと昔に見たワイドショーを思い出したのだ。その番組では、カラスけにプレートが使われていた。カラスは痛みを感じると一瞬で飛んで行ってしまうらしいから、その一瞬を見極めるしかない。
 隼人は木に近寄って、そこに腰を下ろした。
 それでしばらく待つ。
 想定どおり、何羽も鳥が飛んでくる。鳩だったり、カラスだったり。しかし、その先は想定どおりにはいかなかった。本当に一瞬で飛び去ってしまうのだ。
 気配を悟られないように少し遠くから観察しているから、鳥が来た、と気づいて走っていっても、電気プレートの場所に到着する頃にはもう鳥はいない。
 何度もそういった、近づいては逃げられるという無意味な時間を過ごすうちに、隼人は汗だくになっていた。
 もう日も落ちかけている。一言で表すなら、徒労だ。
 これ以上待っていても何の成果も得られないだろう。
 そう思って立ち上がりかけた時、背後からどさりと音がした。
 隼人は目をつむり、顔を手で覆った。真っ先に考えたのは、ここの持ち主に見つかって、投石などされた、ということだった。
 しかし、しばらくその姿勢のまま待っていても、怒鳴られることも、追加で石を投げられることもない。
 隼人は薄目を開け、恐る恐る振り向いた。
 カラスだ。
 カラスが羽を広げて死んでいる。大きい、と思った。でもそう思ったのは、いつも遠くを飛んでいるところしか見たことがないからかもしれない。カラスは、ちょうど足を上に突き出している。
 全身が真っ黒なのかと思っていたが、足だけは少し黄みがかった灰色だった。
 人間の指に、見えなくもない。
 隼人は、急に背後にカラスの死体が落ちて来た、という不自然さのことは敢えて考えないようにした。そんなことを考える余裕はなかった。
 ゴミ袋にカラスの死体を入れる。まだ温かいような気もしたが、気のせいかもしれない。確かなのは、ずしりと重かったことだ。
 袋を引きって行くときに、誰にも見られないように、と強く祈った。
 なんとか家に入って、一息つくこともなく、に行く。
 なるべく、死体そのものを見ないようにして、足を折る。折るときに、不快な手ごたえがあって、それだけで吐き戻しそうになった。
 折ったものを改めて観察する。
 人間の指に、似ていないこともない。ものをつかむような形にすれば、かなり似ているかもしれない。
 なんにせよ、隼人はもう限界だった。
 茶を一杯だけ飲んでから、すぐに家を出る。
 家の裏を歩けば、すぐにあるからね。
 夢の中で匠はそう言っていた。
 先程鳥を獲りに行ったときには、そのようなものは見当たらなかった。しかし、あのときは鳥のことしか頭になかったから見つけられなかったのかもしれない。
 隼人はゆっくりと、周囲を見回しながら歩く。
「あった」


 やっと見つけた時、あんから、思ってもみないくらい嬉しそうな声がのどから漏れた。
 すぐにある、とは言えないような距離だ。いや、山を歩くことに慣れている者からすれば、すぐ、なのかもしれないが、少なくとも都会育ちの隼人にとっては。
 とにかく二十分くらい歩いたとき、急に視界が開けた場所があって、そこに、十体以上、石でできた像があった。ほとけだ。ほとけたち、というべきかもしれない。大体、イメージしていたとおりのものだった。
 じっくり見ると、首が少し下向きに傾けてつけてあるのが分かる。たしかに、うなずいているように見えなくもない。だから、頷き仏なのか。
 もう遅いこともあってか、人の気配はしない。
 びゅう、と風が吹いた。隼人は身震いする。
 像は子供のように見える。元はきっと、ありがたいとか、優しいとか、そういう言葉が似合う姿をしていたのだろう。昔と変わらず、人の苦しみを和らげるものであることは間違いない。それでも、今はざらしで、ところどころ欠けているそれがいくつも並んでいる様子は、とても不気味に見えた。
 こんな不気味なところは、一刻も早く去るべきだ。
 供え物を置く場所すらここにはない。
 隼人は仕方なく、中央にあるほとけの前にカラスの足を置いた。
 何を言っていいかも分からないから、なんとなく手を合わせ、「よろしくお願いします」と祈った。
 人に見られているような気がする。しかし、これは、不気味な場所にいるからそう感じるのだ。そう無理やり思い込んで、足早にその場を離れた。
 何事もなく家に着く。
 その場でカラスの足を折ったことは忘れて、隼人はシャワーを浴び、湯船には浸からなかった。湯を張るのが面倒だったのだ。
 そのまま、髪も乾かさず、布団の上に倒れ込んだ。
 匠の願いをかなえたという達成感はなく、ただただ疲弊した。一刻も早く眠りたい、そう思った。

『俺、隼人の考え方、好きだな』
 匠はそんなふうに隼人を褒めた。隼人だけではない。誰に対しても、だ。だから、控えめな性格なのに、みんなから好かれていた。
 人の良いところを見つけるのが上手というより、本当になんでもない、取るに足らないことでも褒めた。別の友人のアパートで飲み食いした後皿を洗っただとか、道に落ちているゴミを拾ったとか、葉物の野菜を食べたとか、そういったさいなことで、匠は本当に嬉しそうに微笑んで、人を褒めた。
「隼人、すごいねえ」
 今も、彼は隼人を褒めている。
 目を細めて、自分のことのように嬉しそうだ。
 生きていた頃とは何の違いもない。
 それなのに、隼人は上手く笑えない。ありがとう、と言う気にならない。
 ふふふ、という、柔らかな笑い声も、なんだか、別のもののように感じられる。
 隼人は、怪談の類を恐ろしいと感じたことがない。
 例えば、女が恨めしそうな顔でこちらを見ていたというようなことがあったとしても、それは恨めしそうな顔でこちらを見てくる女というものが怖いだけであって、生きていることと死んでいることでそれが変わることはない。そう思っていた。
 しかし、生前とまったく変わらないはずの匠を見て気持ちが悪いと思う。
 この不快感こそが、生きている者と死んでいる者の違いなのではないかと気づいた。
「ねえ」
 匠の口元から突然笑みが消えた。じょうの人形のようで、それもまた恐ろしいと思う。
 匠は目を大きく見開いたまま、
「次は舌だね」
 と言った。舌だね、と言うのと同時に、舌を口から出して、ふるふると動かした。
 夢の中だからなんとかとどまることができたのかもしれない。ゆらゆらと動く舌は気持ちが悪すぎて、今すぐにもその場から逃げ出したいくらいだった。
 何も言うことができない。動くこともできない。それは、隼人と匠が同じ世界にいないからではないかと思う。
 ただ、匠が目の前にいるのは事実だ。くっきりと見える。考えていることも、すべて分かっているだろうと思う。
 だから、隼人が匠のことを気持ちが悪いと考えると、彼は悲しそうに顔をゆがめるのだ。
「ごめんね、やっぱり面倒だよね」
 匠は悲しそうにつぶやく。声が震えている。
「心残りなんだ。どうしても、やってほしいんだ。ごめんね」
 悲しそうな声に罪悪感を覚えることはなかった。ただただ早く解放されたいと思った。早くこの夢から覚めるために、舌に似たものが何か知りたい。
 しかし匠は、
「舌に似ているもの、俺には分からない」
 そんなことをきっぱりと言う。
「というかさ、さすがに偽物をささげつづけたら、失礼でしょ」
 匠の顔を見つめる。何もおかしいことを言っていない、というような顔だ。
「別に全部じゃなくていいんだよ。ちょっと。ちょっとだけならいいでしょ」
 何が面白いのか、匠はけらけらと笑っている。白い頰にくぼが浮かんでいる。もう見ていたくない、と思う。早くめろ、と願った。

 牛の舌──つまり、牛タンはすぐに手に入った。少し値が張ったが。
 偽物を捧げつづけたら失礼。その言葉は正しいかもしれない。
 しかし、ちょっとだけならいいとは思えない。いくら匠の願いを叶えるためとしても、隼人には自分の舌を捧げる覚悟はない。結局、代替品を用意しようと考えた。
「モミジやら、タンやら、東京の人は舌が肥えとるなあ」
 そう言って肉屋の店主は笑った。
「ま、食べる元気があるんはええことや。たっくさん食べて、元気出しなさい」
 これはおまけや、と言って、店主は隼人にコロッケとメンチカツを詰めたビニール袋を押しつけてきた。
 親切な店主にあいさつをしてから、足早に家に帰る。しかし、嫌な顔が見えた。
「おうおう、そんな顔せんでもえいがやないね」
 津守が、玄関の前に仁王立ちしている。
「やっぱり都会のモンやね。きちんとかぎがかかっちょった」
「入るつもりだったのか? 泥棒。今すぐ警察に突き出したいくらいだよ」
「なんもしてんやろ、今は。それより……」
 津守の視線が隼人の持っているものに向けられる。
「何をうたん?」
「さあ。あんたに関係ないでしょう」
 なるべく意地悪く聞こえるように言ったが、津守はまったく意に介していないようだった。
「関係なくはないがですね。何度も言うちょりますけど、こっちは頼まれてきちょるんやから」
「そこ、どいてください」
「まあ、待ってくださいよ」
 津守は立ったまま、腕をゆうしゃくしゃくといった様子で組み替える。
「こういう仕事も長いもんで、分かるんですわ。君、ただ意地でこの家に居座っとるわけやないね。他に何かしようとしちょることがあるが違う」
 なんとか、動揺を表に出すのをこらえた。これはきっと、間違いなく、匠の願い事のことを言っている。
 それでも何も答えず、隼人は手を津守の肩にかけた。
「入りたいんだ。早くどいてくれ」
「例えば、何かを捧げろ、言われたとか」
「うるさいんだよ」
 腕に力を込めると、細身の津守はあっけなくよろけ、体勢を崩した。
 隼人はその隙に鍵を開ける。
 中に入り、戸を閉めようとすると、引っかかりがある。津守が足を挟んで、戸を閉じさせまいとしているのだ。
「あんた、なんなんだよ、押し売りかよ!」
「違う。君が危ないけん、忠告してるんですわ」
 津守は息がかかるような位置に顔を寄せて来る。
「どこまで門をくぐった?」
 津守からは苦みのある植物のような香りがした。
「最初は簡単なことを言うがです。次に難しいこと、最後にできるとは思えんことを言うがです。でも、簡単でも、難しうても、できるとは思えんことでも、全部同じです。全部、やったらいかんのです」
 心臓が不快に脈打った。
 隼人は津守を思い切り突き飛ばし、ぴしゃりと扉を閉め、施錠した。
 津守はまだ外にいて、ガタガタと揺らす。
「最後まで行ったらおしまいじゃ。分かるか」
 隼人は大声で遮り、耳をふさぎ、部屋の中に駆け込んだ。
 門など、言っていることの意味を正確に把握できるわけではない。ただ、何を言わんとしているのかは分かるのだ。
 指、舌。
 多分、これらを捧げることに関係がある。
 簡単なこと。
 難しいこと。
 できるとは思えないこと。
 津守はすべて分かっている。もう、隼人は彼のことをインチキ霊能者だとは思わない。
「絶対にもう進んだらいかん」
 まだ、背後から津守の声が聞こえる。
 分かっている。
 しかし、匠の弱々しい姿と、悲しそうに、無理をして笑顔を作っていたことを思い出すと、どうしてもやりとげなければいけないという気持ちになるのだ。
 まだ温かいコロッケを一つ、まるみするように口に入れ、裏口から早足で飛び出した。


 昨日通った道を駆け足のままなぞる。
「あれっ」
 隼人は一本道の前で立ちすくんだ。
 どう考えても短い。
 昨日かかった時間の半分くらいだ。駆け足で来たことを考慮しても、明らかに短い。
 しかし、この一本道は、うなずき仏の場所に行く一本道で間違いない。
 考えていても仕方がない。隼人はまた、駆け足で道を通った。
 やはり、この道で間違いはなかった。
 だから、ここに来るまでの道のりが短くなっていたのは、心理的な問題だったかもしれない。確かに昨日は鳥の足を調達するのに時間がかかり、身も心も疲弊していた。
 昨日より明るいからか、頷き仏の顔がはっきりと見える。
 そして少し安心した。不気味に見えていたのもまた、心理的な問題だった。優しい顔をしている。
 昔からこのあたりの人間の悩みを聞き、なんでもうんうんと頷くように聞き入れてくれた、その逸話どおり、優しく微笑んでいた。おどろおどろしい田舎の、不気味な迷信。一瞬でもそう思ったことを反省する。
 隼人は昨日よりずっと厳かな気持ちで手を合わせる。
 心の中でなんと祈ればいいか考える余裕もある。
 死者三人のめいふくを祈ればいいのか、あるいは、頷き仏がそうあるものだから、自分自身のつらいことを吐露すればいいのか。
 どうしても思考に雑音が交じる。雑音というのは、不気味な電話だ。野崎がおかしくなり、歌っていた歌だ。あれになんの意味があるのか。
 考えているうちに、消えていたはずのこの場所を不気味だと思う気持ちがむくむくと膨らんでくる。
「よろしくお願いします」
 結局隼人はそれだけ言って、また中央のほとけの前に買って来た牛タンを置いた。
 置いた時になってやっと気づく。
 カラスの足がない。
 誰かが回収した、とも考えられる。ここは匠の家の敷地だが、特に封鎖されているわけでもなく、どこかの道路には面しているだろうからそこから歩いてくれば辿たどり着くこともできる。ほとけを信仰する者が来て、カラスの足を不気味に思い、排除したのだろうか、あるいは──
 気味の悪いホラー映画のような想像をしてしまう。本当にこのほとけが動き、口を開き、カラスの足をむさぼり食う。
 あり得ない。
 ここには誰もいないから、こんなことを考えるのだ。
 もう一度手を合わせ、後ろを向いたときだった。
 ドサリと、また何かが落ちて来た音がした。
 何かに操られるように、隼人はそれを拾い上げた。
 はさみだった。よく見る鋏ではなく、和鋏だ。昔話に出てくるような──

 のりをなめたるむくいとて
 したをきられしすずめをば
 いとしというてじひぶかき
 じじがたずねてでかけたり

 隼人は凍りついたように動けなかった。
 子供の歌声が聞こえた。しかも、ひとりではなく、大勢の。
 確実に聞こえているのに、子供の姿はどこにも見当たらない。
 きゃはは、と甲高い笑い声が耳に突き刺さった。
「道具、用意してあげたよお」
 匠の声だった。
 幻聴だ。妄想だ。
 声が出てこない。
「ちょっとでいいんだって。ちょんって」
 手が勝手に動く。鋏がしょきしょきと動いた。
「若いんだから、色々経験しとかないとって、言ってたじゃん」
 舌を突き出す。前に。
 鋏が動く。ばちんと閉じる。
 声にならない悲鳴が隼人の口から出る。
 鋏が地面に落ちた。なんらかの組織が付着している。
 口から流れているのが血なのかよだれなのか分からない。目からも血が流れているかもしれない。
 子供たちはいない。匠もいない。いないから、見えない。
 うめき声をあげながら隼人は走る。
 視線を感じるのも気のせいだ。脳内で、ほとけたちが顔を上げ、こちらを見ているような像が結ばれるのも気のせいだ。
 見えない。見えないのだから、いない。
 一本道を駆け抜け、家の裏手まで走ると、前方から誰かが走ってくるのが目に入った。しかし、止められない。
 肩に衝撃が走り、隼人は転んだ。
 すぐに起き上がる。
 隼人は口から体液を垂れ流しながら、よろよろと玄関に向かった。
 視界の端にスーツが見えた。
 ぼろぼろだ。はっきり言って汚い。今倒れたときについたものでもなさそうだ。
「ああ、いかん、遅かったか……」
 呻き声のように津守はそう漏らす。
ううあいうるさい
 口を空気が通る度に痛みが走り、まともに話す事さえできない。
 一刻も早く家に入りたいのに、なかなかかぎが出てこない。
 ごそごそと洋服のポケットを探る手をつかまれる。津守は真剣な顔をして、
「何が君をそうさせるん? 分かってるでしょう、やったらいかんて。どう考えてもこの辺の人間の様子もおかしいって分かってるでしょう」
 隼人は何も答えられなかった。
 確かにおかしいのだ。全部。
「おばあちゃんが亡くなったんはまあ、病気ってことでおさまるにしても、野崎さんゆう婆さんも亡くなったんじゃろ、しかも、むちゃくちゃな死に方で」
あんえいっえうんあよ何で知ってるんだよ
 津守は自分の顔に人差し指を向けた。
「こういう仕事が長いちゆうたじゃろ。普通の人間より耳と目と鼻がえいんですわ。葬式に出た人間の話が聞こえてきゆう。でもな、細かいことは分からん。ここに来てから、耳も目も鼻もよう利かん。でもな、おかしいじゃろ。葬式のあと、誰かから連絡があるか? 家を訪ねてきたしんせきがおるか? おらんのじゃないですか」
 確かに、あれから何も連絡はない。
 しかしそれは、何も分からない隼人に何を聞いても同じだからではないのか。そんな考えを読んだかのように、津守は言う。
「性善説じゃねえ。まあえいわ。ほいじゃあ、和夫さんはどうですか。連絡する、すぐ行く言うたのに、来ないやないですか。はっきり言うてね、近づきたくないんですわ。近づいたら巻き込まれるんは、みんな知っとりますけえじゃ」
えもでもそうしひにあ葬式にはあくあんたくさんいあ来た
「東京の大学に通っとって村八分の八分ちうのが何か知らんのんですか。葬式と火事の二分を除いた残りじゃ。葬式は死体をっといたら病気がってしまうかもしれん、火事を放っといたら広がって他の家も燃えてしまうかもしれん、ほじゃけ、その二つはけがれた家でも手伝ってやるのんですわ」
 馬鹿にされた。そう思って、隼人は思わず手を振り上げる。しかし、津守は変わらず真剣な表情のままだ。侮辱したり、あざけったりはしていない。腕をそのまま降ろす。
「分かるがでしょ。おかしいことはたくさんあったがでしょう。君が見ないふりをしちょるだけじゃ。でな、なんも知らん君が、どうしてここにこだわっとるのか、知りたいんですわ。何が君をそうさせてるん」
 匠の目が思い浮かぶ。夢の中の匠。くらい目をして、訴えかけてくる。どうしてもほとけに恩返しがしたい。それが心残りだと。優しかった匠の変わってしまった様子。でも、それは、もう死んでいるからで。
「匠くんのことでしょう」
 津守の声は冷え切っている。
「当たってほしくなかった。匠くんが、君に言うたがじゃろ。ほじゃけ、君、そんな必死になってやりよるがじゃろ、でも、そんなんしてもどもこもならん、えいか、あれは、君の一番えいち思うもんに」
 とおくから、あああ、と声が聞こえた。
 ああああああああああああ
 それは、徐々に近づいてくる。
 あああああああああああああああ
 今、行って帰って来た方角からだ。
「あっ」
 声のする方を振り返った瞬間、隼人は強く押された。
「あに」
 ああああああああああああああああ
「中に入れっ」
 津守は短く言って、隼人を裏口の方向にまた強く押す。
「えっ、えも」
 あああああああああああああああああああああ
「いいから入れっ」
 裏口の扉を開ける。振り返って、
うもいあんも津守さんも
「俺のことはえい」
 ああああああああああああああああああああああああああ
 何かの足音が聞こえた。
「鍵を閉めて、絶対に開けるな」
 津守の形相と──それに、声と足音が恐ろしくて、慌てて裏口を閉め、鍵をかける。
 台所の小窓も開いているのに気がつき、それも閉めた。
 ああああああああああああああああああああああああああああああああああ
 ドン、と何かがぶつかるような音がした。
 それに重ねて、ああああああ、ああああああと、何かの鳴き声のようなものが聞こえる。ぐう、とうなるような声は津守のものかもしれない。
 包丁が目に入る。
 これを持って、外に出て、津守に加勢すればいいのかもしれない。
 いや、それでも、開けるなと言われた。
 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
 耳をふさいだ。
 走って行って、玄関の戸締りだけでなく、家じゅうの窓の施錠を確認する。
 そして、まだ日も高いのに、布団をかぶった。
 恐ろしい声は続いている。
 考えるな、考えるな、考えるな何も考えるな。
 舌の痛みにだけ集中する。どくどくと流れる血のことだけを考える。
 布団が赤く染まっている。
 眠りに落ちたのか、気を失ったのか、もう分からない。


 気がつくと、隼人は誰かのひざの上で寝ていた。
 飛び起きる。てのひらを、開いたり閉じたりする。動ける。自分の体が見える。
 ここにある。
 口元に手を伸ばす。
 もう痛みはない。舌にも、欠損はない。
「ねえ、ちょっとくらいなら、大丈夫だったでしょ」
 優しい声だった。
 顔を上げる。
 抱き着いてしまいそうになる。
 窓から夕日が見えた。
 あの日も、夕日がきれいだった。
「俺、女の子、無理なんだ……」
 あの時の匠の顔は忘れられない。
 小さく震えていて、弱々しくて、死にそうだった。白い肌が、夕日のせいで赤みがかって見えた。
 可愛いと思った。
「そうか」
 隼人はそう答えた。
 そんなことは、言われなくても分かっていた。
 自分を見る目に、独特の熱がこもっていた。自分に対して特別な感情を持つ者しかしない顔だった。隼人は何度もそういう目で見られたことがあった。初めてだったのは、男から、ということだけだ。
 自分がもうとっくに知っていたことを、決死の覚悟で伝えてきた匠のことを、哀れで可愛いと思った。
「じゃあ、男が好きなんだ?」
 白々しくそう尋ねると、匠は震えながらうなずく。
「そうかあ」
 もったいぶって、考え込むような演技をした。
 匠は死刑宣告を受けるかのような顔をしている。
「じゃあ、俺と付き合ってみる?」
 そのときの匠は本当に可愛い顔をしていた。それは偽りのない感想だ。
 頰を赤く染めて、目を輝かせて、何度も頷いていた。
 思わずキスをして、それが嫌ではないくらいには、可愛かった。
 でも、それは本当に、その時だけだった。
 美しい夕日の差し込む講堂で、二人きり、その時だけだった。
 友人のときは気遣いだと思っていたことも、急にびを売るような浅ましい振る舞いにしか見えなくなった。すり寄ってきて、不気味だと思った。女でもないのに、と思った。
 男としては「可愛らしい」と言えなくもないが、女として見ることなど到底できなかったのだ。
 決定的だったのは、匠の家で、迫られたときだ。
 から上がると、匠が裸でベッドの上で待っていた。
「俺、帰るわ」
 隼人はそう言い捨てて、匠の話も聞かず帰った。
 肌だけは白かった。でも、それがなんだというのか。自分以外の男性器には嫌悪感しかなかった。
 さすがに匠も気づいたようだった。
 自然に友人関係に戻った。
 元のとおり、食事をし、談笑し、たまに遊びに行ったりするだけの関係だ。
 時間が経ち、夕日がきれいだった記憶も朧気おぼろげになった頃、合宿をすることになった。
 それは、ゼミの先輩が開催した二泊三日の合宿で、ゼミのメンバーだけでなく、大勢の人間が誘われていた。
「お前らも仲のいい奴誘っていいからな」
 そう言われたが、隼人は匠を誘わなかった。
 しかし、当日集合場所に行くと、匠がいた。
「どうしているんだ?」
 そう尋ねると、
「ああ、おかもと先輩に誘われて」
 岡本というのは、一学年上の先輩で、顔にそばかすがあるということ以外は特に目立った特徴はない。それでも隼人が記憶しているのは、匠が隼人に向けていたのと同じような熱っぽい視線を匠に向けていたからだ。
 隼人は二人が仲良くなればいい、と思った。そうして、早く忘れてほしい、と。
 合宿の間、隼人はほとんど匠と話さなかった。二人を仲良くさせたかったというのもあるが、その時気になっていた女の先輩と親密になることに夢中だった。彼女とは、一日目の夜、非常階段で肌を合わせた。ただそれだけで満足してしまい、恋愛には至らなかった。
 だから二日目の夜は、男性の先輩たちが部屋で行っている酒盛りに参加した。
 酒が進んできて、下世話な話題が飛び交う。
 隼人は思いつきで、
「俺、男と寝ようとしたことありますよ。向こうから、好きって言ってきたんで」
 そう言った。もちろん、匠のことだが、名前は出していない。それくらいの良心はあった。
 皆、わざとらしく、「げえ」とか「オエエ」などと言って、吐く真似をする。
「俺、絶対無理なんだけど。よくそんなことできたな」
 隼人は笑いながら、
「そうそう、やっぱキモくて無理でした。かんに余計なもんついてんのは、無理でしょ。まあでも、若いんだから、色々経験しとかないと。あっちも、いい夢見れたってことで」
 オマエ最低だな、とかなんとか言って、先輩は笑いながらバンバンと隼人の背中をたたいた。隼人も大声で笑った。酒の席の話だ。多少誇張しても何の問題もない。
 しかし、わずかながら罪悪感もあった。
 友人として接する分には、匠は本当に良い人間だった。努力家で、真面目で、人の悪口も言わない。
 そんな様子を見ると、酒の席で、本人も聞いていなかったとは言え、あんなふうに笑いのネタにしてしまったことが、申し訳ないというような気持ちがいてくる。
 だから、隼人は匠の頼みを断らなかった。
「あのさ、実家に帰省するんだけど、付いてきてくれない?」
 何も楽しいことがない田舎だと分かっていたが、そのとおりにした。
 それで──
「俺の言うことを聞く義務があるよね」
 優しい微笑みのまま、匠は言う。
「俺がどれだけ傷ついたか分かる?」
「匠、あの時、聞いてたのか……」
「あんだけ大きい声で騒いでたら、隣の部屋にも当然聞こえてるよ。つらかった。悲しかった。悔しかった」
 笑顔が恐ろしい。大きく目を見開いて、匠は言う。
「キモくて無理なら、どうして付き合おうって言ったんだよ。最初からそんなことを言わなければ俺だって勘違いなんかしなかった」
「違う、あれは冗談で」
「冗談じゃない。本当の気持ちだった。冗談であんなことは言えない」
 隼人は何も言葉が出て来ず、ただぱくぱくと口を動かした。
 匠はふう、と息を吐く。
「もうどうでもいいよ。とにかく、目を用意してくれればいい」
 匠は指を二本立てて、そうぼうを指さす。
「目は、大事なものだから」
「それはさすがに」
 隼人はかばうように自分の目を手で覆った。ものが見えなくなった、その先の人生は想像もしたくない。
「別に、自分の目じゃなくてもいいよ」
「え……」
 匠の笑顔は少しも崩れない。
「誰のでもいい。問題は、隼人が本気かどうかだよ。本当に、俺に申し訳ないと思っているのか。本当に目をささげる気があるのか。どちらも本気なら、別に自分の物でなくても構わない」
「それって、どういうことだよ。まさか、他人から目を取ってこいって言うんじゃ」
「覚悟の問題だよ。もし、本当に、覚悟があるのなら」
 隼人の言葉を無視して、匠は話を続ける。
「起きたらすぐ、裏口から出て右の方向に歩いていく。そうすると、女の子がしゃがんでいるはずだ。その子は、お母さんの言いつけを無視して、れいな花を摘みに他人の敷地に入ってきてしまった悪い子だ。その子の目でいいよ」
「そんな、そんなことは……」
 匠が顔を近づけてくる。笑顔のまま、指を隼人の顔にわせた。
 ぞわりとする。
 冷たい。死体の温度だ。
 死人に体温はない。
「本当に覚悟があるのなら、できるだろう。破格の条件だよ。自分の目じゃなくていいんだから。自分は傷つくことがないのだから」
 体が硬直している。
 何も考えられない。拒否ができない。体が、しんから冷え切っている。
 首が勝手に動く。
 うなずいている。
「スコップを持って行ってね。目をえぐり取るのに、ふさわしい形をしている」
 視界がぼやけていく。


 目が覚めたのか、覚めていないのか分からない。
 どこにいるのか分からない。
 足が動き、手が動き、心臓が動いている。
 耳障りな声はもうしない。うるさくて、鼓膜が破れそうで、口に布を詰め込んだ。
 びくびくとのたうっている。足に体重をかける。
 指がスコップをつかみ、動かし、何かを掘り出している。硬い手ごたえがある。
 指先がしびれる。
 腕にいくつも細かい傷がついている。爪でひっかかれたような、細くて赤い線がいくつも。
 表面がつるつるとしている。湿っていて、何かひものように垂れ下がっている。それでも、美しい。
 人間の目はきらきらしている。
 スコップがもう一つの穴を穿うがった。
 もう一方は、やや灰色がかっている。
 同じ場所から取れたものなのに、少しだけ違う。
 色も、輝きも、紐のようなものの形も。
「軟らかくて、つぶれてしまいそうだ」
 中に水が詰まっているのは知っている。しかし、意外と弾力があって、癖になる触り心地だ。何度もつついていると破れてしまいそうだと思って、そっと包み込む。
 もう目を取ってしまったから、器には用はない。
 乱雑に持ち上げて、どこかに隠そうと思う。しかし、そんな場所はない。仕方がないから、竹林の中に放り投げる。
 空が曇っている。
 曇りの日は、雲の白さが目にみるほどまばゆい。
 人間の目は今、きらきらしている。晴れの日より、ずっと。
 少しだけ、腰を下ろす。
 周囲を見回して気がついたことは、ここは、妹が捨てられていた場所に似ているということだった。
 二つの目を見る。
 妹はこれくらいの年だった。
 長い髪の一部だけ、耳の上で結んでいた。「うさぎちゃんにして」と可愛くねだってくる声が思い出せる。確かにいた。花模様のワンピースを着ていた。
 お兄ちゃん、と呼ばれた気がして振り向く。
 誰もいない。
 笑いが込み上げる。誰も見ていない。
 妹を殺した人間もこのように愉快な気分だったかもしれない。
 これはこうれいじゅつだ。
 いますぐやめなさい。
 わるいものがはいる。
 誰の声か分からない。
 覚悟を見せた。それだけだ。文句を言われる筋合いはない。
 とうとう辿たどり着いた。
 大事なもの。
 指、舌、目。
 捧げたのだ。だから、もう悪いことは何もない。
 死んだら極楽はあるんかいねえ、と声が聞こえた。野崎の声だ。
 しかし、幸せに死にたいし、死んだあとも幸せでいたいというのは、普遍的な願いで、祈りであると思う。それは、誰にも邪魔されるべきではない。
 だから野崎も死んでみて、はたして極楽があったかどうか、確かめたのだと思う。
 野崎は笑顔でこちらを見ている。
 ということは、極楽は存在したということで、疑いがない。
 野崎ももう止めないだろう、頷いている。
 頷かれるととても幸せな気持ちになる。
 匠もよくこうして、うんうんと頷きながら、隼人の話を聞いた。
 なんでもないことでも、うんうんと頷いてきて、気分が良かった。
 気分が良かったから、少しはいい思いをさせてやろうと思った。
 自分の容姿は他人より優れているという自信があった。ほんの一瞬でも、良い思いをさせてやろうと。これから先、匠が隼人より容姿の良い男に好意を受け入れてもらえることがあるとは思えない。善意だった。
 これは、田舎臭い純朴さで、頷いて、隼人をいい気分にさせてくれたことへの礼だった。
 善意と善意だったのだ。始まりは。
 誰にも責められるべきではない。
「頷いてくれて、ありがとなあ」
 隼人は立ち上がり、ゆっくりと足を進めた。焦って駆け足になる必要はどこにもない。
 極楽に行くのはもう決まりきっている。
 みんないるのだ。寂しくない。これが正しい形だ。
 目の前に一本道が通っている。いや、違う。もうある。
 隼人は少し低い場所に立っている。周りは斜面になっていて、そこにぽつぽつと、ほとけがいる。
 まわりまわりのこぼとけは
 歌がかすかに聞こえて、噴き出してしまう。
 歌詞どおりではないか。ほとけが隼人を取り囲んで回っているのだから。
 目を握り締めていることに気がつく。慌てて、こぶしの力を緩めた。
 これは大事なものだ。
 極楽に行くためには、大事なものを捧げる。決まりだ。恩返しだ。
 拳を開き、皿のようにする。二つ、きちんとある。
 相変わらず、どこに置いていいか分からない。
 仕方ないから、自分の目の前に置こうと考える。
 そして、
 体に衝撃が走った。
 すさまじい音がした、と感じたときには、体が投げ出されていた。強く地面に打ちつけられ、身をよじる。痛い。
 こんなに痛くては死んでしまう。
 死んで──
 隼人は痛みと共にかくせいする。
 今まで眠っていたのが、ようやく起きたような思いだった。
 複雑なことを考える前に、脳が一つの言葉で支配される。死にたくない。
 頰を触ると、あまりの痛みで声が出た。何かの破片が深く突き刺さっていた。
 それを引き抜く。
 つちぼこりが舞っていて何も見えない。
 機械油のような臭いが鼻を突く。
 バタン、と音がした。人影が見える。よろよろと近づいてくる。
「おい」
 津守はぼろぼろだった。
 服は元の色が分からないくらい土にまみれ、破れている。
 顔には無数の切り傷があり、特にひどいのは口元に斜めに走った傷だった。赤くて、中から何かが飛び出している。
 津守だと判断できたのはサングラスのおかげだ。しかし、もうそれもひしゃげていて使い物にならないだろう。
「つ、つも……」
 唇がけいれんした。涙があふれる。何度もせきをした。
 涙で土埃が洗い流されて気づいた。
 大きなトラック。装甲車のように板がくくりつけてある。
 隼人の口から、なんのような意味をなさない言葉がこぼれる。
 信じられない。
 津守は、車で家を引き潰した。
 かわらがれ落ち、ざんがいで覆われた家。
 壁が崩壊して二階にある物置部屋が露出している。
「ど、どうして……どうして」
 隼人の口からどうしてどうしてどうして、そればかりが流れた。
「どうでもえいがじゃろ」
 怒鳴るように津守は言う。
「とんでもないことしくさって、クソ、今はどうでもえいわ、今すぐ逃げろ」
 何故平然としているのか。
 いや、平然とはしていない。脂汗が額から伝って、焦っている。しかし、悪いとは思っていないことも分かる。
 他人の家を破壊しても、なんの罪悪感もないのだ。いや、罪悪感がないのは──
「逃げろち言うちょるがじゃろっ」
 なまりのひどい言葉で津守は怒鳴る。
 どくどくと血が流れる頰に、ひやりとしたものが触れた。これは、匠の指だ。
「もういいじゃないですか」
 隼人の口が動く。
「死んでみないと分からないじゃないですか」
 こんなことを言いたくはない。それでも言葉が止まらないのだ。
「だからもういいじゃないですか、死んでみて、それから判断すれば」
 バチン、と音がした。遅れて脳天が熱くなる。
 痛くはない。
 津守が細い腕を振り上げている。
「馬鹿野郎!」
 もう一度頭をたたかれた。
 呼吸が荒くなる。
 恐ろしいことだ。自分の考えのはずなのに、余計なものが流れ込んできて、自分で考えたことが分からない。
「兄ちゃん」
 隼人は声を出さずに津守の顔を見た。
「自分がおかしいってようやく分かったか。もう、色々は言わん」
 口元に笑顔が見える。しかしそれは、ゆがんでいた。
「逃げよう。でも、ずっと見つづけろ」
 何をか、というのは聞かなくても分かった。ぞろりと取り囲み、こちらを見ているほとけだ。
 どこからともなくまた、歌が聞こえてくる。
 隼人は鬼なのかもしれない。でも、誰も選ぶ気はない。だから、永遠に回りつづける。
 一歩、また一歩と後退する。
 目が痛い。雲がまぶしい。
 目をつむる。その瞬間、何かを踏み、隼人の足はもつれた。
 少女の死体だった。吐きそうになる。
 それでもどうにか踏ん張って、転ばないようにした。
 そのせいだった。
「ああああっ」
 津守が絶望的な声をあげていた。
 目玉が転がっている。
 津守が手を伸ばした。しかし、そんなことをしても、二つの目はすうっと、吸われるように消えた。
「契約だ、約定だ」
 声が聞こえる。もう、何の声かは分からない。
 ほとけはぐるぐると回りつづけている。
 津守がへたり込む。首だけ回して、隼人の方を向いた。
「君……これを、うなずいちょると思いますか、これらは、俺たちの話を聞いて、頷いちょると、思いますか」
 津守の声が震えている。
 同時に、笑いも含んでいる。
 そうだ、あきらめるしかない。
 諦めた笑いなのだ。
「頷いとるんやない、のぞき込んどるんや」
 一斉に、ほとけの首が、かくりと動き、目が合っ

(気になる続きはぜひ本書でお楽しみください)

作品紹介

極楽に至る忌門
著者:芦花公園
発売日:2024年03月22日

四国の山奥にある小さな村。そこには奇妙な仏像があり、大切に祀られていた。帰省する友人・匠に付き添い、東京から村を訪れた隼人は、村人たちの冷たい空気に違和感を抱く。優しく出迎えてくれた匠の祖母の心づくしの料理が並ぶなごやかな夕食の最中、「仏を近づけた」という祖母の言葉を聞いた瞬間、匠は顔色を変える。その夜、匠は失踪し、隼人は立て続けに奇妙なことに巻き込まれていくが――。東京での就職を機に村を出て、親族の死をきっかけに戻ってきた女性が知った戦慄の真実。夏休みに祖父の家にやってきた少年が遭遇した恐るべき怪異。昭和、平成、令和と3つの時代の連作中篇を通して、最強の拝み屋・物部斉清ですら止められなかった、恐ろしい土地の因縁と意外な怪異の正体が浮き彫りになっていく……。ホラー文庫30周年記念、書き下ろし作品。

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