一月一日は元日であり、喜佐家にとっては家族解体の三日前だった。 浅倉秋成『家族解散まで千キロメートル』試し読み【1/6】

文芸・カルチャー

公開日:2024/3/18

浅倉秋成さんの最新作『家族解散まで千キロメートル』(略称:家族千キロ)が3/26に刊行されます。
教室が、ひとりになるまで』では高校のクラスに隠された〈嘘〉を暴き、『六人の嘘つきな大学生』では就職活動の〈嘘〉に切り込んだ浅倉さん。最新作は、「高校」「就活」に続く人生の転換期「家族」を題材とし、そこに埋め込まれた〈嘘〉の謎を解き明かします。
発売に先駆けて、衝撃の1行で終わる95ページまでを特別公開! 
二度読み必至の仕掛けが潜む、驚愕と共感のどんでん返しミステリをお楽しみください。

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浅倉秋成『家族解散まで千キロメートル』試し読み【1/6】

プロローグ

いえ

 はじめは玄関から怖々と様子を窺っていた周だったが、その犬が宙返りをすることに気づくと、俄然引き込まれた。
 大人用のつっかけに足を通し、吸い寄せられるようにして夏空のもとへ出る。三歩ほど進んだところで小さく躓いたが、幸いにして犬が逃げ出す気配はなかった。
 犬は、小さな声で吠えていた。
 きゃっきゃっと短く、等間隔で、間断なく。
 毛色は人工的な茶色。犬種はおそらく柴だったが、体長は三十センチにも満たない。ばたばたと忙しなく足を動かし、地面に真円を描くよう、同じ箇所を飽きることなく、ぐるぐると走り回っている。しばらくすると気絶したように立ち止まる。そして即座に足を折り曲げると、また宙返りをする。
 じりじりと距離を詰めた周は、やがて犬を鷲づかみにした。
 犬はしばし手の中で暴れたが、腹部にあるスイッチを押されると途端に静かになる。
 周はしばらく犬の造形を興味深そうに、そして訝しそうに観察していた。なぜこの犬は、自宅の庭に放置されていたのだろう。どうにも合点がいかない様子で、何度か小さく首を傾げる。周の所有物ではない。兄や姉がかつて遊んでいたものでもない。ならば誰のものなのか。近所に同年配の子供は住んでおらず、この家は通学路からもだいぶ外れたところに位置している。子供が立ち寄りたくなるような施設もない。どこかの子供が誤って置いて行ってしまった線は、薄いと見てよさそうであった。
 何者かが自分を試しているのではないか。
 周は疑うように、周囲をきょろきょろと見回した。目の前の狭い道路を見つめ、その奥にある田んぼを見つめ、最後に振り返って自宅の玄関を確認した。しかし犯人らしき人物はどこにも認められない。納得のいかない思いから口元を歪ませると、やがて周は諦めたように犬のスイッチを入れ、それを元いた場所に放した。今一度、宙返りが見たくなったのか、あるいはそうすることによって何かが解決するかもしれないと踏んだのか。
 持ち主不明の犬は吠え、地面に円を描き、再び宙返りをした。
 周はそのまま三回ほど独特な挙動での宙返りを観察したが、やがてその奇怪さを無視し続けることができなくなる。さっと顔を上げる。そして何かが動く気配を察知すると、答えを見逃すまいと、目を細める。
 気取られることを恐れた父さんは、そこで建物の陰に身を隠した。さらに胸のざわめきを鎮めるためにひとつ深呼吸を挟む。
 がっ、と、倉庫のシャッターを開ける音が響いた。父さんは大きな音に思わず身を縮めたが、周の耳は音を拾ってはいないようであった。眼前で宙返りを続ける犬が、あらゆる物音を鳴き声の向こう側へと巧みに隠してしまう。
 まもなく、近所のおもちゃ屋から持ち出された大きなマスコットが、倉庫の中にしまわれる。鍵を閉める際もまた小さくない音が響いたが、周はやはり気づかなかった。
 庭の中央では宙返りする犬が、きゃっきゃっと、いつまでも吠え続ける。

この家族。
本当にこんな形で終わっていいと思う?

残りおよそ1000キロメートル

くるま

 一月一日は言わずもがな元日であり、同時に僕たちにとっては家族解体の三日前であった。
 僕は一時間に二本ほどしか走らない富士急行線を待ちながら、昨夜スマートフォンの充電を忘れたまま眠りこけてしまったことを、一人静かに後悔していた。電車の到着まではまだ十五分以上ある。依頼されていた調味料の類はすでに商店で買い終えてしまっており、こなすべき喫緊の任務は何もない。片田舎の無人駅前にカフェなんて小洒落たものはもちろん、時間を潰せるような施設は何ひとつとしてなかった。
 時間を持て余し困り果て、いっそ意味もなく町内をドライブしようかと考え始めたところで、僕はようやくあすなの旦那の姿を、ぼんやりと想像してみることにした。
 果たしてあすなは、どんな男を選んだのだろう。
 考え始めてすぐ、僕はこれまであすなの旦那─つまり義理の兄となる人間─について、深く思いを巡らせたことが一度もなかったことに気づいた。関心が薄かったというのもあるが、それ以上にあすなの横に立つ男性の姿を、うまくイメージすることができなかったのだ。
 人が結婚相手に求める性格的傾向を無責任に、そして大雑把に論じるならば、ざっくり二種類に大別できるような気がした。自分とは対極にある人間を選ぶか、もしくは、ある程度似た人間を選ぶか。
 仮に前者であると仮定してみる。すると僕の頭には自ずと、人間としてあまりに張りのない、薄志弱行を体現したような、気の弱そうな男性の姿が想起された。こだわりも趣味もなく、あらゆる判断を他者に任せる、優柔不断で人畜無害な男性だ。世の中にそんな男性はごまんといるだろうし、当然そういった人たちも幸せな結婚はできるのだろう。しかしどうにも、あすながそういった種類の男性に惹かれるとは思えなかった。
 一方、後者もイメージしづらい。
 彼女に似た人間であるのならば、これは相当に癖の強い、こだわりの塊のような人間ということになる。あすなと同様、身につけるものから口に運ぶもの、耳にする音楽から窓のサッシの色に至るまで、一切の妥協を許そうとしない人間だ。いつもどこか不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、譲れないポリシーを体中に纏わせて生きている。あすなは旦那とは職場で出会ったと言っていた。必然的に、仕事は美術系であると推測できる。変わり者同士の、個性的なクリエイターカップル。あり得なくはなさそうだが、しかし穏やかな夫婦生活はあまり期待できそうにない。
 弱腰か、個性派か、はたまたちょうど中間の人間が現れるのか。
 仲よくなれないのは仕方がないとして、せめて舌の先にピアスを開けているような不良崩れだけは来てくれるなよと祈っていると、三両編成のくたびれた車両が視界の隅から顔を覗かせた。
 車内は元日の富士山を目指す乗客で平時よりいくらか混雑していたが、文字どおり何もない
東桂で降りる人間は二人しかいなかった。一人は親ほど年の離れた女性。ならばもう一人の男性があすなの旦那かと目星はついたのだが、どうにも声をかけるのを躊躇ってしまう。おそらく四十代前半。年頃は事前に仕入れていた情報と符合するが、あまりに先ほどまでの予想とかけ離れている。
 僕よりも頭一つほど背が高い。モデルか、あるいは俳優か。
 賢人さんですかと、ようやく声をかける気になったのは、彼が僕の乗ってきた車をまじまじと見つめていたからだ。駐車スペースに止めてあったローバーミニは、あすなの車。骨董の世界に片足を突っ込んでいるイギリス車を乗り回している人間は、この街にはあすなと、それを借りたときの僕くらいしかいない。
「色々あって姉の代わりに─」
「周さんだ」
 男性は華やかに相好を崩して僕の名を呼ぶと、実に自然な動作で右手を差し出した。僕がおずおずと握手に応じると、畳みかけるように左手に持った紙袋を持ち上げ、
「高比良賢人です。あけましておめでとうございます。そしてご結婚、おめでとうございます」
 思いがけない先制打に言葉を選べず、僕は紙袋を受け取りながらひたすら小さなお辞儀を繰り返した。はじめまして、僕の名前を知っていたんですね、お祝いの品ありがとうございます、身長高いですね、賢人さんこそ結婚おめでとうございます、姉のことをよろしくお願いします。どれひとつとしてうまく発話できなかったが、賢人さんは品のいい笑みを崩さなかった。
「あすなさんは?」
「母に料理を手伝わされてまして」
「料理」と賢人さんはいかにも楽しそうに口角を上げ、「あれで彼女、かなり手際がいいですからね」
「当人は不本意だと思いますけど」
「と言うと?」
「あ、いや、母に無理矢理仕込まれただけなんで」
 狭い車内に賢人さんの体が収まるか不安だったのだが、乗るのは初めてではなかったのだろう。大きな体を器用に助手席に滑り込ませると、チェスターコートに折り目がつかないよう注意しながら、慣れた手つきでシートベルトに手を伸ばした。もらった手土産を後席に載せてから運転席に乗り込むと、賢人さんは少年のような笑みを見せた。
「きゅうを、聴いてたんですか?」
「はい?」
 うまく聞き取れず、しばし賢人さんの彫りの深い顔を間抜けづらで見つめていた僕だったが、カセットテープのケースを見せられると言葉を適切に変換できた。助手席のドアポケットに入っていたのは一本のカセットテープで、ダビングしてあるのはMr.Childrenが二十年以上前に発表したアルバム『Q』。
「大好きなんですよ。このアルバム」
 いかにも嬉しそうな賢人さんにつられ、僕はなぜだか照れ笑いを浮かべてしまい「この車、カセットしか聴けないんで、大昔にダビングしたそれを。不思議と飽きないんですよね。何回聴いても新しい発見があって」
「このアルバム一作を通して、宇宙の中心から、安らげる場所に向かうんですよ」
「わ、面白い解釈ですね」
 曲目を思い出しながらエンジンをかけると、早速オーディオから桜井和寿の声が響き始めた。流れ出したのは四曲目のスロースターター。音楽に背中を押されるようにして車を発進させれば、いつもよりも歌詞が胸の奥まで染み渡る。
「お家は甲府のほうでしたよね?」いくらか口が滑らかになった僕は、対向車も歩行者もいない信号待ちの間に尋ねてみる。
「宝って、わかりますかね?」
「わかりますわかります。僕、大学が飯田のほうだったんで」
「県立大?」
「そうですそうです」
「だったら、本当に目と鼻の先ですよ。川を挟んだ東側に神社があるのわかりますかね。そのすぐ裏手に住んでます。ちょうど家の前に消防団の拠点があって」
「あぁ、わかるかもしれないです」
「なんだか我々、接点多そうじゃないですか。これは、三人でご飯に行く機会も多そうだ」
 賢人さんが楽しそうに顎を撫でると、僕は満更でもない笑みを浮かべてしまう。嬉しい提案ではあった。しかし実際のところ、あまり現実的なアイデアではない。適当な相槌で調子を合わせてしまおうかとも考えたが、最終的には期待を持たせるべきではないという思いが勝った。
「姉ちゃんが嫌がりますよ」
「そんなことないと思いますよ」
「いや、ほんと、僕らそんなに仲よくないんで」
 青信号を確認し、アクセルを煽る。
 憎しみ合っているわけではない。必要があれば言葉は交わすし、平和的に車を共有できる程度の関係性は保てている。それでもお世辞にも仲がいいとは言えない。僕はあすなを理解できないし、あすなもおそらく、僕のことは理解できない。
 実のところ賢人さんの存在も、我々姉弟の不仲を加速させるきっかけのひとつだった─というのは少々暴論気味だが、まったくのとも言い切れない。
 色々と心配になっちゃうから、結婚するまでは、どうかこの家にいて欲しい。
 そんな母の願いを最初に裏切ったのは長男の惣太郎であったのだが、今はひとまず棚上げにしておく。惣太郎は惣太郎で問題の多い人間なのだが、彼は大学進学のために上京する必要に迫られていた。一応のところ、筋は通っている。
 ただ、あすなは違う。あすなは就職してまもなく無断外泊の日数を増やし、そのまましれっと交際相手の家に住み着いてしまった。違う、男の家じゃない。仕事場で寝泊まりしてる。そんな言い訳をしばらくこね続けていたのだが、これ以上は誤魔化せないと判断したのだろう。ある日、母の剣幕に押し負かされるようにして交際相手との同棲を認めた。
 僕だって、母の言うことには問答無用で服従すべきだとは思っていない。視野の狭い母は、ときに信じられないほどとんちんかんな要請をすることがある。同棲はふしだらだからやめたほうがいいと思っているわけでもない。ただ、守って欲しいと懇願されたルールを平然と逸脱できてしまうその不誠実さには、いかんともしがたい嫌悪感を覚えていた。どうしてこんなにも簡単なルールを守れない。どうして尊重してしかるべき家族の願いを、こんなにも抵抗なく無下にできてしまう。
 そんな前提があったからこそ、僕は心のどこかでまだ見ぬ賢人さんのことを相当に侮っていた。どうせ軽薄で、ろくでもない男に違いないのだろう、と。
「難しいですよね、家族は」
「ちょっと種類が違うんですよ。見た目からしてそうだと思いますけど」僕はなるべく空気が悪くならないよう、努めて明るい声で言った。「僕はほら、こんな地味な感じで、いかにも公務員っぽい公務員なんで」
「公務員なんですか?」
「あ、そうなんです。八王子の市役所で働いてて」
「都内ですか。西側なら通えますもんね」
「県内よりいくらか待遇がいいって聞いて、無理して一時間半くらいかけて通ってます」
 三叉路を緩やかに右に折れると、舗装の甘い山道に入る。旧時代のサスペンションは地面の凹凸を律儀にすべて拾い上げ、車を大袈裟なまでにがたがたと揺らす。右には田んぼ、左にも田んぼ。時折伸びっぱなしの雑木林が現れ、ごく稀に古びた民家が顔を出す。
 ここです。そう言って僕は、ギアをバックに入れる。
 後方を確認するついでに覗き見た賢人さんの表情には、異様と言っていいほどに変化がなかった。この家を見て驚かない人間は、ほぼいない。これは相当に気を遣わせているなと確信した僕は、沈黙を続かせるほうが互いの精神衛生上よくないと判断し、
「ぼろで、すみません。お化け出そうですよね」
「いやいや」賢人さんは思い出したように表情を崩すと、何も気にしていないことをアピールするよう、首を大きく横に振った。「そこまで古びてはいないでしょ。大切に住まれてきたのがわかる」
 小さな車体を両親の車の間にねじ込むと、キーを捻ってエンジンを切る。途端に車内は静かになり、必要以上に僕の声がハイライトされた。
「まあ、だからこそ解体するわけですけど。もういい加減、だいぶガタがきているんで。家族の外側も、内側も」
「解体……解体ね」
「すみません。ちょっと大袈裟な言い方をしてる自覚はあります」
「とんでもない。むしろ─」
 続く言葉を探しながらドアを開けた賢人さんは、車外へ出るとそのまま伸びをした。改めて見ても、狭い車内に押し込めていたのが申し訳なくなるほど大きな体をしていた。細身ではあったが、百九十センチに届いているか、あるいはわずかに届いていないか。この段になってようやく身内の面倒ごとに巻き込んでしまった申し訳なさが湧き上がった僕は、
「今さらですけど、お正月の朝早くからすみません」
「なんのなんの。力仕事はこれで結構好きなんです」
 しばらく賢人さんは、まるで観光名所に向けるような視線を、僕らが住み続けてきた推定築五十年超えの干からびた日本建築に向けていた。急かすのも申し訳なかったので、僕も倣って自宅の姿を瞳に焼きつける。
 住んでいるが故にまじまじと見る機会を失っていたが、見れば見るほど情けなくなるくらい、くたびれた家であった。もとは白かったであろう漆喰の外壁は、うっすらと積み重なり続けた汚れによって、今では斑模様を無数に浮かべた灰色に落ち着いている。木製の屋根は、ぱっと見ただけでも四箇所ほどひしゃげていた。最後の改築で一部が二階建てにはなっていたが、基本的には平屋建て。現代的な表現をすれば、4LKということになるのだろうが、言葉の響きが持つほど魅力的な間取りではない。田舎の戸建てとは思えないほど、一部屋一部屋が悲しいほどに狭い。せめてのび太くんの家くらいモダンで、広い家に住めたなら。そんな願望を抱いたことのある平成生まれは、僕以外にあと何人くらいいるだろうか。
「賢人さん、お餅とかおせちって得意ですか?」
「嫌いではないですよ。人並みにはいただきますね」
「ならよかった。ぜひたくさん食べてください」僕は台所に届かないよう声を落とし、「うち、みんな苦手なんです。なのに毎年正月になると母が大量に。作ってる母自身も苦手なのが、また何とも皮肉で」
「はは、お力になれれば」
 玄関扉を開けると、まもなく台所のほうからエプロン姿の母が小走りで現れた。おそらくエンジン音を聞きつけた時点で待機していたのだろう。たった今、料理を切り上げてきましたというような雰囲気を装っていたが、それにしてはあまりにも登場が早すぎる。
 悪い人じゃないって思いたいけど、強引にあすなを自分の家に引き入れた人だからね。
 数日前まではきっと苦言の一つや二つぶつけてやるんだと意気込んでいた母であったが、まず賢人さんの身長に驚き、続いて彼の物腰の柔らかさと上品さにあっという間に牙を抜かれ、気づけばすっかり絆されていた。数十分前の僕と同じだ。
「いやまさか、こんな素敵な男性だなんて思いもしないから。あすな、写真の一つも見せないもので」
「ご挨拶が遅れてしまってすみません。婚姻届を出す前には確実にお目にかかっておきたかったんで、ちょうどいい機会をいただけました。あ、もしよかったらこちら、ご家族の皆さんで」
「まあ、どうもご丁寧に」僕に用意されたものとはまた別の紙袋を差し出されると、母は慇懃に手土産を受け取り、「小さい頃から変に神経質というか、ちょっと進んでるというか、ね。なんだかよくわからない変わった子でしたから、三十もすぎちゃって、これはもう無理だろうと諦めてたんですけど」
「素敵な方ですよ、あすなさんは」
 母が賢人さんを居間に案内したので、僕は一礼してから台所へと向かった。
 コンロの前ではあすなが大きな目を忌々しそうに細めながら、いかにも不快そうに鍋の番をしていた。ラフなスウェットを纏ってはいるものの、微妙に光沢のある素材感と濃紺の色合いには彼女のこだわりが滲み出ていた。こちらからすると少しサイズが大きいのではないかと指摘したくなるのだが、おそらくあれも美学のひとつなのだろう。頼まれていた砂糖とみりんをまな板の脇に置いてやるとようやく僕の存在に気づき、こちらに向かってあまり好意的ではない一瞥をくれた。
「賢人さん、来たよ」
「ありがと」
 車で迎えに行ったことに対しての礼なのか、調味料に対しての礼なのかはわからなかったが、はっきりさせる必要もなかったので僕は何も言わずに小さく頷いた。そのまま台所を立ち去ろうと思ったのだが、
「引っ越し料金」あすなは思い出したように口にし、シルバーのメッシュが入った前髪を煩わしそうに払った。「あれ、結局、変わんないの?」
「引っ越し料金?」
「来たんでしょ、先週の月曜日。引っ越し業者が見積もりし直したい、って」
「ああ、じょーない。あれから連絡ないから。たぶん変わらない。あ、そうだ」今度は僕が用件を思い出す番であった。僕はバッテリーの少ないスマートフォンを取り出し、昨日したためたメモを確認する。「ユニ浦和マーケティングって会社、わかる?」
「なに浦和マーケティング?」
「ユニ浦和マーケティング。電話越しに聞いた名前だからちょっと自信ないけど、昨日、家の固定電話にかかってきた。なんだか問い合わせへの回答がしたいとかって、二回も。何の会社かもわからないけど、間違いなくうちからの問い合わせをもらった、って」
「知らないけど、浦和ならお兄ちゃんでしょ」
「そうかもと思ったけど、でも固定電話にかけてきたから」
「お兄ちゃんでしょ、絶対」
 そうかもしれないが、もう少し疑問の解消に協力してくれてもいいはずだ。この辺りの協調性のなさに、僕はいつも苛立ちを覚える。そもそも固定電話にかかってきた電話を、この家では僕しかとろうとしないのも甚だ疑問であった。母はよくわからない、怖い、などと言って電話をとらない。あすなはまるで聞こえていないふりをする。父は論ずるにさえ値しない。お陰でいつも僕が電話の事後処理をさせられることになる。
 もう少し家族の問題を自分事だと捉えてくれと言ってやりたい気持ちは山々であったが、結局はすべてを呑み込むことに決めた。あすなはどちらかといえば口数の少ないほうではあるのだが、ひとたび火がつくと途端に饒舌になり、大きな目でぎょろりと威圧しながら怒りの言葉をまくし立てる。舌戦になれば長期戦は必至なので、口論の火種を作らないことに注意深くある必要がある。
「よっ」
 賢人さんが台所の様子を確認しにやってくる。
 未来の旦那を前にした瞬間、会いたかった、寂しかった、今日は来てくれてありがとうと、見たことのないぶりっ子姿を晒し始めたら、どうする。僕は刹那の悪寒に歯を食いしばったのだが、幸いにして目を背けるような事態には至らなかった。
 さすがに三年に及ぶ交際を経た婚約者同士、恋人らしい過剰なスキンシップや甘い目配せは発生せず、リラックスした様子で二三言葉を交わすに留まった。弟としては救われた。
 嫌なものを見る前に退散しようと居間に移動すると、母が賢人さんからもらった手土産を改めているところであった。資生堂パーラーのチーズケーキ。母の好物だ。
「なんでこれだって、わかったんだろうね」
「姉ちゃんから聞いたんでしょ」
「お母さんのお母さんもね、これ大好きだったの」
「何回も聞いてる」
 母は感嘆の息を漏らしながら、
「惣太郎より年上だよね、賢人さん」
「四十はすぎてるって言ってたと思うから、たぶん」
 母は赤子でも寝かしつけるように優しくチーズケーキの包装を撫でると、しばらくぶつぶつと独り言を零した。やっぱり、年を重ねている分しっかりしているのかもしれない。あんな人がよくあすなを選んでくれた。どうにか、こっちの家で一緒に暮らしてはくれないだろうか。あの人とならうまくやれそうな気がするとまで口にしたところで、すぎた願望を漏らしたことを後悔したように顔を顰め、台所へと消えていった。
「お茶出すから、しばらく周が賢人さんの相手をしなさい」
 言いつけられれば自室に戻るわけにもいかない。料理に忙しい母とあすなを台所に残し、僕と賢人さんは居間の炬燵で緑茶を啜った。無音よりはいいかと思ってテレビをつけ、BGM代わりにニューイヤー駅伝を流してみる。
「兄ちゃんが─惣太郎が来たら、本格的に作業が始まると思うんで、しばらくゆっくりしてください。すきま風も吹くし、あんまりいい部屋じゃなくて恐縮ですけど」
「とんでもない。畳の香りと、久しぶりの炬燵を堪能させてもらってます。それにお家の中はだいぶ綺麗じゃないですか。まだまだ住めますよ」
「一応、襖と畳だけは何年か前に新調して」
「あちらもだいぶ立派ですし」
 賢人さんはそう言って壁の一点を指差した。最初は何を言わんとしているのかまったくわからず、何か冗談を言っているのだろうかとさえ勘ぐったのだが、
「あ、欄間ですか?」
「ものすごく繊細な仕事ですよ」
「やっぱり、美術のお仕事されてる人には刺さるんですね。僕にはさっぱり」
「あれだけ立派なら、あすなさんも言及するんじゃないですか?」
「いや、ないですね。姉はもっとこう、ポップなものが好きなんで」
「言われてみれば、そうだ」
 賢人さんが興味深そうに欄間のほうへと歩み寄っていったので、僕もゆっくりと立ち上がる。生まれたときから育ってきた家であったが、この家を建てたのは両親ではない。結婚を機に少ない予算でどうにか購入できたのが、当時から既に古びていたこの中古物件。なのでここに欄間を誂えたのも両親ではない。僕にとっては背景でしかなかったが、その気になって眺めてみると確かに凝った造形をしていた。富士山と雲、風にそよぐ草木。当然ながら素人に彫れる代物ではない。
「なんだか、この欄間の向こうに見える壁、妙に近くありませんか?」
「あぁ、そうなんです、ちょっとおかしな構造になってて」
 僕は苦笑いを浮かべながら賢人さんを廊下に案内する。そして玄関のすぐ左脇、明らかに床の色が異なっている地点を指差し、
「ここから先を一度壊してから、増築したんです。で、建築基準法が変わったからなのか、あるいは─とにかく何らかの問題があって、どうしてもあの壁は閉じなければいけなくなってしまったみたいで」
「欄間の奥は壁になってしまった」
「一応部屋はあるんですけどね。でも繋がってはないです。おかしな壁に挟まれた何もない狭い空間が存在している状態です」
 僕が生まれる前の出来事なので詳細は伝聞でしか知らないが、金のなかった両親は増築を近所に住む知り合いの大工に依頼したそうだ。故に全体的に工事は甘い。特にもともとあった家と増築箇所の接合点は明らかにピッチや色合いがずれており、素人目にも安っぽさが目につく。ただ雨漏りや地震での倒壊などは避け続けてきているので、美意識が低いだけで最低限の腕はあったと見える。
「ところで─」
 居間に戻りながら、賢人さんは少し尋ねづらそうに言葉を切った。
「今日、お父様は?」

(つづく)

作品紹介

家族解散まで千キロメートル
著者 浅倉 秋成
発売日:2024年03月26日

〈家族の嘘〉が暴かれる時、本当の人生が始まる。どんでん返し家族ミステリ
実家に暮らす29歳の喜佐周(きさ・めぐる)。古びた実家を取り壊して、両親は住みやすいマンションへ転居、姉は結婚し、周は独立することに。引っ越し3日前、いつも通りいない父を除いた家族全員で片づけをしていたところ、不審な箱が見つかる。中にはニュースで流れた【青森の神社から盗まれたご神体】にそっくりのものが。「いっつも親父のせいでこういう馬鹿なことが起こるんだ!」理由は不明だが、父が神社から持ってきてしまったらしい。返却して許しを請うため、ご神体を車に乗せて青森へ出発する一同。しかし道中、周はいくつかの違和感に気づく。なぜ父はご神体など持ち帰ったのか。そもそも父は本当に犯人なのか――?

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322309001298/
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