山で見つかったひとつの頭蓋骨。それは惨劇の始まりに過ぎない――【北林一光『ファントム・ピークス』試し読み】

文芸・カルチャー

公開日:2024/3/21

2024年3月の角川文庫仕掛け販売タイトルとして、新オビでの展開(※)がスタートした北林一光さんの『ファントム・ピークス』。これにあわせて、作中の一部を特別公開!
ぜひこの機会に、気になる物語のワンシーンをお楽しみください!

※新オビの展開状況は書店により異なります。

advertisement

作中の一部を特別公開!
北林一光『ファントム・ピークス』(角川文庫)試し読み

あらすじ
長野県安曇野。半年前に失踪した妻の頭蓋骨が見つかる。しかしあれほど用心深かった妻がなぜ山で遭難? 数日後妻と同じような若い女性の行方不明事件が起きる。それは恐るべき、惨劇の始まりだった。

 14 五月二十三日 烏川林道上部I

 もちろん丹羽本人は知る由もなかったが、彼の予感が早くも的中していた。例の新聞記事を見て山を訪れようとしている者がいたのだ。ただし、それは茶髪の高校生でもなければ暴走族でもなかった。人一倍常識をわきまえた思慮分別のある大人、ひと昔もふた昔も前に流行した言葉でいえば、〝フルムーン旅行〟の最中にいる老夫婦だった。
 夫はむらきようすけ、妻はきく。ともに六十九歳。神奈川県よこ市で息子夫婦と暮らしているふたりは、恭輔の定年退職後、初めての長期旅行をたのしんでいた。ふたりには以前から信州や安曇野へのあこがれがあった。かつて文学青年だった恭輔は、たとえば信州で青春時代をすごしたきたもりの文学作品などに触発され、憧れをはぐくんできた。海辺に育った菊路はいささかあまじや的に山国の自然をずっと夢想していた。若い頃からいつかふたりで行こうと話し合いながら今まで引き延ばしてきてしまったが、恭輔がリタイアして時間が空くようになったので、ようやくこの旅が実現したのだった。あまり細かいスケジュールを立てずに、のんびり乗用車で憧れの地を旅しようということになり、三日前に自宅を出発した。松本市内、うつくしはらかみこうのりくらなどを観光し、明日以降はおおまち温泉郷のホテルに拠点を移してくろダムやはくに出かけるつもりでいた。そして、松本から大町へ向かう途中に立ち寄った穂高町の蕎麦そば屋で恭輔が偶然、一日前の新聞記事に眼を止めた。彼は「魔の山」とか「神隠し」という言葉を異様に喜んだ。
「へえ、神隠しか。まだあるんだな、こんな古風な話が」
「なんですか、子供みたいなことをいって」と菊路は笑った。
「〝魔の山〟だってさ。トーマス・マンの小説のタイトルだね」
 菊路は夫に押しつけられた新聞を斜めに読んで、「嘘に決まってるでしょ、こんなの」といった。
「そういえば、神隠しみたいな現象を扱った映画で、どうしても題名を思い出せないやつがあるんだよ。全寮制学校の女子生徒が三人、山でこつぜんと行方を絶って、それっきりになってしまうんだ。洋画なんだがね、なかなかいい雰囲気の作品だった。おまえ、覚えていないか」
「私、一緒に観ました?」
「一緒だよ。宏太が生まれる前だったかもしれない」
「ずいぶん昔のことね。忘れちゃったわ」
「ほんとうにいい雰囲気の映画だったんだ。映像がすごくれいでね。一時期、また観たくなってビデオ屋で探したんだが、結局、見つからなかった」
「変な人ね、今日に限ってそんなことをいって。神隠しだとか、映画だとか……あなた、そんなことに興味を持つ人だったかしら?」
 恭輔は構わず、蕎麦屋の主人に「この記事に紹介されている事件はほんとうにあったんですか」と質問した。決して愛想がいいとはいえない店主は「あったみたいですね」と短く答えた。恭輔はおおよその場所を店主にたずね、さらにガイドブックで道順を確認すると、「ここから近いぞ。行ってみないか」と妻に笑顔を投げかけた。
「いやよ。怖いじゃない」と菊路も笑って拒絶した。
「なんだよ、おまえこそ本気にしているじゃないか」
「そうじゃないけど……」
「心配ない。神隠しに遭うのは美人だけだそうだ」
 恭輔の軽口に、菊路は「どういう意味よ?」と少女のように頬を膨らませた。
「どうせ急ぐ旅じゃないんだ。道草して行こう。道草なんて久しく人生になかったことなんだから」
 恭輔は子供じみた自分を愉しんでいたのかもしれない。この時この場所でこの記事を眼にした偶然をおおに喜んで、郷愁とか旅情を自分であおっていたのかもしれない。あるいは忙しくすごしてきた過去に対するアイロニーのように、ことさら無意味なことをしたがっていたのかもしれない。
「須砂渡ってところには温泉もあるらしいぞ。帰りはそこに寄ってもいいじゃないか」
 ガイドブックの情報を引き出してまで恭輔は妻の気をこうとした。神隠しの山へ赴くという思いつきにすっかり囚われてしまっているようだった。
「温泉って……あなた、これから私たちが行くところも温泉なんですよ」ほんとうに子供みたいだわと思って菊路は苦笑したが、夫のわがままに付き合う気になっていた。「車で行けるならいいわよ。有名な観光地ばかり訪ね歩くというのも、この旅の主旨に反するような気がするし」
「そうさ。道草こそ旅、道草こそ人生だよ」
 蕎麦屋を出た志村夫妻は、恭輔の定年後に買い替えたオデッセイに乗り込み、松本方面へ引き返した。走行距離は二千キロそこそこ、まだまだ新車の匂いがこもる車を駆って、田植えが済んだばかりの緑色の大地のただなかを気持ちよく疾走した。
 ふたりの旅はすべてが新鮮で、華やいでいた。季節もよかった。行く先々で清新な緑や色あでやかな花々に迎えられた。そして、山国ならではの風景に圧倒された。たとえば、昨日行った上高地。ふたりは河童かつぱ橋から眺めた山岳パノラマに思わず息を飲んだ。なにかというと雑誌やテレビなどで紹介されるいささかあかのついた定番の風景だが、写真で見るのと実際にその場所に立って見るのとでは大違いで、まるで天国を眺めるような美しさだった。死ぬまで記憶にとどめたい風景だと菊路はいった。恭輔も同感だった。
 しばし感慨にふけったふたりは、当初の予定にはなかった山歩きを敢行することにした。おたがい体力にはまったく自信がなかったが、山の澄んだ空気と美しい風景がふたりの背中を押した。あずさがわ沿いの道を軽快に歩いた。そのうち自分たちの年齢や衰えた体力のことなどすっかり忘れ去っていた。昔にかえったようにはしゃぎ、からかい合いながら歩きつづけ、ふと気がつくと、一時間ほどの道程を踏破してみようじんいけ辿たどり着いていた。夫婦は、年寄りの冷や水になりかねない軽挙を大いに笑い合った。まだまだおれたちも捨てたもんじゃないなと少しばかり自信を取り戻し、〈もん小屋〉の露天のテーブルに座ってジュースで乾杯した。帰路もまた愉しかった。その間、恭輔はビデオムービーを、菊路は写真を撮りまくった。今回はいい旅になりそうだ──ふたりともそう思った。


 オデッセイは烏川林道を登りはじめていた。ここまでくる途中、一度だけ田んぼのあぜにいた農夫に道を訊ねた。恭輔が行方不明事件のことを口にしたので、農夫はげんな表情を浮かべた。だが、事件については否定も肯定もしなかった。陽にけた顔をゆがめ、けんに深々としたしわを寄せて、ただ一言、「まあ、山にはいろんな不思議があるもんさ」とらしただけだ。そんな農夫との一瞬のかいこうも今の志村夫妻にとっては旅の味わいのひとつだった。
 林道を三十分ほどかけて登ったが、その間、林道脇の斜面で作業をする土木作業員を見かけた以外はまったく人と行き合わなかった。乗用車は何台か停まっていた。釣人の車か、はたまた山菜採りにきている人の車か……いずれにしても、どやどやと人が押しかける山ではなさそうで、深山のせいひつと涼やかさに満ちていた。葉陰のドームのような箇所をいくつも通過し、助手席の窓を開放している菊路はその度にひんやりとした風を頬に受け、気持ちよさげに眼を細めた。道は三股駐車場のゲートで行き止まりになった。そこから先は蝶ヶ岳新道という登山道になり、しやりよう進入禁止となっていた。駐車場には十数台の車があった。皆ここに自家用車を置いて蝶ヶ岳や常念岳に向かうのだ。同じ登山口でも上高地とは雲泥の差だった。地味で、きようあいで、人気もない。もちろん売店などもなかった。あるのはトイレだけだ。
「なにもないところね」と菊路は拍子抜けしたようにいった。
「名所ばかり訪ね歩くのが旅じゃないって、おまえがいったんだろう。静かでいいところじゃないか」
 恭輔は車を降り、運転で疲れたからだをほぐそうと屈伸運動をはじめた。菊路も外に出た。
うまい空気だなあ」
 恭輔は伸びをして深々と山の空気を吸った。遠くでカッコウが鳴いている。この世ではないどこかから聞こえてくる鳴き声のようだった。
「ほんとうに静かねえ」
 菊路は、カッコウの鳴き声って不思議だわと思った。静寂がより際立つ。そして、山の底知れぬ奥深さを感じさせる。
「これが山本来の静けさなんだろうね」と恭輔も感慨深げにいった。「上高地は素晴らしいところだが、人が多くて騒がしすぎるのが珠にきずだな。自分が登るとしたら、こういう静かで地味な山がいい」
「あら、今度は登山?」と菊路がするようにいった。「昨日は、渓流釣りをやってみたいっていいませんでした? あなた、いったいいくつまで生きるつもりなんですか。これからそんなに趣味を作ったって、道具を揃えた途端にぽっくり逝っちゃうんじゃない?」
「いやなことをいうね、まったく。せいぜい長生きしてやるから、覚悟しとけよ」と恭輔は反撃した。「おまえもどうだ? 思い切って登山でもはじめてみないか。結構いるらしいぞ、年を取ってからハマる人が。この年にして夫婦共通の趣味を持つというのも一興だと思うがね」
「山登りなんて、いくらなんでも無茶ですよ。私は、昨日のピクニックみたいなコースが限界だわ」
 ふと恭輔が思案顔になり、つぶやいた。
「ピクニック……」
「なに?」
 恭輔の顔が輝き、「そうだ、ピクニックだよ」とひざを打った。「『ピクニックatハンギングロック』だ」
「なんですか、それ?」
「映画さ。さっきいった映画のタイトルだよ。ようやく思い出した」
 恭輔は「人生最大の謎がひとつ解けた」と大仰なことをいって喜んだ。
 菊路が訊ねた。
「そういえば、神隠しとやらはどこで起きたんですか」
「さあね。しかし、これだけ山深いと、そういうことがあっても不思議ではないという気がしてこないかね? あの映画もたしかそうだった。今となっては記憶もあいまいだが、少女たちがあたかも大自然に溶け込んでしまったというような描き方だったんじゃないかな。謎は謎として最後まで残し、合理的な解答を出さなかったはずだよ。少女たちは神に愛され、神に召された……そんな雰囲気だった」恭輔は眼を細めて遠くをった。「この山で消えた人たちも、何者かに愛されたのかな?」
「ロマンチックなんですね、男の人は」と菊路が柔らかく笑った。「でも、現実はもっと単純で、もっと残酷ですよ、きっと。それで、いつかは誰かが解答も出すんです」
 恭輔は頭を振り、嘆息した。
「夢がないね、女ってやつは」
 菊路がそんな夫の手を引いた。
「せっかくここまできたんだから、記念撮影しましょうよ。あの案内図のところで」
 わざわざ三脚を立てて、セルフタイマーでふたりのポートレートを撮った。恭輔は妻の肩に腕をまわして抱き寄せた。普段ならあり得ないことだった。旅先の夫は、じようぜつで優しいと菊路は思った。
 あとはなにをするでもなく、ふたりは駐車場の片隅に座って雑談をした。旅のこと、息子夫婦のこと、自分たちの将来のこと……脈絡のないおしやべりで一時間あまりがすぎた。志村夫妻はようやく車に戻り、三股駐車場を出発した。夫の甘言を受け入れて、菊路は須砂渡の温泉施設に立ち寄ることを承諾した。
 出発して間もなくのことだった。車の前方、数十メートルの距離で小さな影が林道を横切るのが見えた。
「今の、なに?」と菊路がいった。
「なんだろう?」
 恭輔も眼を凝らし、車のスピードを落とした。同じ場所を次々と動物が横切ってゆく。
「まあ、サルだわ」と菊路が喜んだ。「見て、赤ちゃんが背中に乗ってる。可愛いわねえ」
 ザルが、移動する母ザルの背や腹に必死に取りすがっている様に、志村夫妻は思わず微笑んだ。
「おい、写真を撮れよ」と恭輔がいい、車を停めた。
「サルをですか? いいわよ、カメラは後ろのバッグに入れちゃったもの」
「観光客ずれした日光あたりのサルとは違うんだよ。本物の野生ザルだ。こんな機会はめったにないぞ」
 恭輔の方は少し興奮ぎみで、セカンドシートに置いてあったビデオカメラを手に取って身構えた。
「それにしても、すごい数だな」
 恭輔はビデオをまわしながらゆっくりと車を進め、サルの行列の間近にまで迫った。車には慣れているようで、サルたちはなかなか逃げようとしない。恭輔が悪戯いたずら心からクラクションを鳴らしてみると、さすがにおびえて、群れがさっと左右に散った。警戒のえ声が湧き起こり、騒々しいほどになった。サルたちは素早く道沿いの木に駆けあがり、高みから人間の様子をうかがった。しばらく大勢のサルとのにらめっこがつづいたが、そのうちサルの方が飽きてしまったようで、一斉に枝を渡って下にくだりはじめた。それを追うように恭輔も車を発進させた。撮影は菊路が引き継ぎ、助手席の窓を開けてサルの移動をビデオカメラに収めた。
 右の急カーブを曲がろうとした時だった。やはり道を横切ろうとした〝それ〟が突然、車の前に出現した。まさに出合い頭だった。恭輔が「わっ!」と小さく叫んだ。撮影に気を取られていた菊路が少し遅れて前方を見た。〝それ〟を目の当たりにした菊路は(まさか)と思った。恭輔は衝突を回避するために慌ててハンドルを左に切った。そして、ブレーキを踏んだ……つもりだった。サルに注意が向いていたし、くだり坂ということもあって、かえってスピードは抑えていた。恭輔のとつの対処で事故は避けられるはずだった。しかし、恭輔が踏んだのはブレーキではなく、実はアクセルペダルだった。単純な、しかし重大な操作ミスによりオデッセイは一気に加速し、路肩を乗り越えてオニグルミの幹に激突した。運転席、助手席双方のエアバッグが作動した。志村夫妻の不運はそれだけでは終わらなかった。路肩でバウンドした車体が衝突後に横転し、そのままササやぶの急斜面を惰性で落下した。二転三転した車は、斜面に生えているかんぼくの群落に引っかかって停止した。腹を見せた車のタイヤがむなしく空をいていた。
 林道を挟んで反対側の斜面では、ササ藪が激しく揺れ動いていた。〝それ〟も大変な恐怖を味わい、一気に藪を掻き分けてとんそうしたのだ。さすがの巨体といえども、走りくる自動車に対抗することはできなかった。


 15 五月二十三日 烏川林道上部Ⅱ

〈生駒建設〉の作業員が林道沿いのがけに落石防護さくを設置する作業を終えた時、すでに日没がすぐそこまで迫っていた。三、四十分も経てば太陽が山陰に隠れ、あとは足早に夜が忍び寄ってくる。にもかかわらず、陽一がいまだに山から降りてきていなかった。下山の際には林道の作業現場に立ち寄って自分に一言声をかけて行くように──周平はそう念押ししてあった。陽一がその約束を忘れたり、声をかけそびれたということは考えにくい。それよりなにより、今日はまったく現場を離れずにほとんどの時間を崖に組まれた足場ですごしていたから、陽一が林道を通れば周平の方で気づいたはずだ。
 周平はいやな予感にとらわれた。陽一の身になにかよからぬことが起きたのではないか……。厳密にはまだ日没前だから、取り越し苦労ということもあり得るが、一度心の中に芽吹いた心配は野放図に膨らんだ。生駒にその旨を告げ、単身バイクで林道を駆け登った。今日の陽一の捜索区域の起点である橋を目指して急いだ。
 ササ藪の急斜面に異変をぎつけたのは、バイクが左の急カーブに差しかかろうとする時だった。それは周平だからこそ引き寄せたぎようこうといえるかもしれない。杳子の死因に不審を抱いて以来、周平の山中でのバイク走行は脇見運転が常習化している。ちょっとした異変も見逃すまいと、周囲に眼を配ることが半ば習性のようになっている。東向きのその斜面がすでに薄闇に覆われていたことも幸いした。周平はうつそうとしたササ藪の中にほのかな光の明滅を見たのだ。あとでわかったことだが、それは車のウインカーの灯だった。
 周平はバイクを停めて光の方角を眺めた。バイクのヘッドライトを向けてよくよく見ると、ササがぎ倒された形跡が一直線に延びていた。陽一の車が転落したのだと思って血の気が引いた。慌てて斜面を駆け降りようとしたが、頭の片隅にわずかに残されていた理性がそれを思いとどまらせた。
 周平は「死ぬなよ」と呟き、後ろ髪を引かれる思いでバイクをUターンさせ、急いで工事現場に戻った。現場にはすでに誰もいなかった。全速力で林道を走った。三分後に〈生駒建設〉のワゴンを視界にとらえ、クラクションを激しく鳴らして急をしらせた。ブレーキを踏んだワゴンに追いつき、運転席の生駒に事故車のことを告げた。ワゴンにはおかむらという五十代の作業員が同乗していた。
 生駒は「そりゃえらいことだ」とまゆりあげた。「周さん家にいる坊やの車かい?」
「わかりません」と周平は答えたものの、状況から推してその公算が大であると覚悟していた。「とにかく、まだ中に人がいると思うんです」
「じゃあ、すぐ救けに行かなきゃ」
 生駒はいい、車をUターンさせようとしてハンドルを切りかけた。
「ちょっと待ってください」と周平が制した。「ああいう落ち方だと、乗っていた人間は頭などを強打していることも考えられます。素人判断で動かすのはかえって危険かもしれません。申し訳ないですが、社長がこのバイクで走って、どこかで警察と消防に連絡してもらえませんか」
「ああ、それは構わんが……。で、周さんはどうするんだ?」
「岡さんと車であそこに戻って、事故車の様子をたしかめておきます。人がいて、おれたちで運び出せるようならそうしますし、危険と判断したら、救援を待ちますよ」
「よし、わかった」といって生駒は車を降りた。「警察や消防には〈須砂渡ロッジ〉で電話する。連絡がついたら、おれもすぐに引き返すわ」
「お願いします」
 それぞれの運転手が交替し、ワゴンとバイクは上手と下手に分かれた。
 周平の運転するワゴンが事故現場に辿たどり着く頃には薄暮が訪れていた。
「おいおい、ありゃ、ひっくり返ってるんじゃないのかい?」助手席から降り立った岡村が事故車を見て顔をしかめた。「えらいところに落ちたもんだな。周さん、あんた、よく見つけたね」
 周平は「ひとまずおれが見てきます」といって、ワゴンのラゲッジスペースから四十メートルのロープを取り出し、その一端を近くの木の幹にもやい結びで結んだ。ロープなしでも降りられそうな傾斜だが、あとあと救出のことを考えると、あった方がいいと判断したのだ。
 懐中電灯を手に、周平は滑るように斜面を駆け降りた。転落していたのは陽一のハイラックスではなく、オデッセイだった。正直、周平はほっと胸をでおろしたが、事故の状況は深刻なものだった。車は横ざまに回転しながら落ちたと思われ、今は完全に腹を上に向けている。そのわりに天井部分がつぶれずに原形を保っているのは、おそらくササ藪がクッションになったということだろう。灌木群が車体を受け止めてそれ以上の落下を防いでいるが、車は斜面の下方、運転席側にやや傾いている。ノーズ部分の潰れは衝突のこんせきだと思われた。
 周平の眼がまず捉えた人影は、うつぶせの格好で助手席の窓から上半身だけをさらしている女だった。年の頃は六十代半ばくらいに見える。周平はしゃがみ込み、女の手を取った。たしかなぬくもりがあった。女の顔に自分の顔を近づけてみると、かすかに息をしていた。だが、頭に怪我を負っているらしく、流れ出た血が左のこめかみから頬にかけてを染めている。その体勢からいって、おそらく彼女は転落後に自力でなんとかここまでい出てきたに違いないと周平は思った。
「もしもし、大丈夫ですか」と周平は女の耳元でいった。
 返答はなかった。
「聞こえますか」
 もう一度、声をかけたが、やはり反応は見られなかった。女は完全に意識を失っていた。陽が落ちて急速に気温がさがりはじめていたので、周平は女のからだが冷えないように自分の作業着を脱いで彼女にかぶせた。それから地面に這いつくばって窓から車の中をのぞき込んだ。今は下になっている天井のほぼ中央部分に男があおけの格好で横たわり、散乱した荷物の中に埋もれていた。「大丈夫ですか」と窓越しに一声かけた。男はぴくりとも反応しない。セカンドシート部分のドアを開けようとしたが、ロックされていた。もともと運転席側のドアは灌木が邪魔していて開けられない。ためしにリアハッチはどうかと思って手をかけたが、やはり開かなかった。周平は業を煮やし、窓をたたいて「生きているか!」と怒鳴った。返事はなく、男が動く気配もなかった。
「お~い、どんな様子だい?」
 斜面の上から岡村の声が聞こえた。
「車にふたりいました」と周平は大声で答えた。
「生きてるのかい?」
「ひとりは生きていますが、怪我をしていて意識もありません。もうひとりは未確認です」
「おれもそっちへ降りて行こうか。怪我人がいるなら、運ばにゃいかんだろう」
「怪我人の搬送は専門家にまかせた方がいいかもしれません。岡さんはそこにいて、社長が戻ってくるのを待ってもらえますか。なにかあったら声をかけます」
「わかった」
 周平は自分にできることもなくなってしまった気がしたが、時間を無駄にするべきではないと考え直した。女の脇を抱えて、静かに外へ引きずり出す。小柄な女だが、意識のない人間は砂袋のように重く、扱いにくかった。どこを怪我しているのかわからないので、躰に触れるだけでも相当に神経を使わなければならず、思ったより難渋した。なんとか全身を外に出すと、女が呼吸しやすくなるように俯せだった姿勢を右向きに変えた。そして、周平は開いている助手席の窓に身をくぐらせた。エアバッグや散乱する荷物をき分けながら天井をずるように後方へ移動し、腕を伸ばしてセカンドシート部分のドアのロックを解除した。これも周平の大柄な体格ではなかなかの重労働になった。それに、不安定な車体が揺れるので、肝を冷やした。外に戻ってドアのとつを引くと、ドアはきしんだ音を立てて抵抗した。転落の衝撃でゆがんでいるらしかった。なんとかこじあけ、あとは一気に引き開けた。旅行バッグ、座席クッション、ティッシュペーパーの箱、道路マップや芳香剤といった雑貨を掻き出すと、男の全身があらわになった。


「どうだい、周さん?」
 だしぬけに背後で声がした。振り返ると、生駒が斜面をくだってきていた。
「中に男性がいます」と周平はいった。
 それからふたりで協力して慎重に男を引き出した。傍らの女と同年輩と思われる男だった。目立った外傷こそなかったが、こちらは一見して絶命していることがわかった。周平が念のために脈を取ったり、くちもとに顔を近づけてみたり、どうこうに懐中電灯の光を当ててみたりしたが、生きているあかしは得られなかった。生駒がうかがうような眼を向けたので、周平は首を横に振った。その時、遠くから幻聴のようなサイレンの音が聞こえてきた。死者を目の当たりにしたこととサイレンの音を耳にしたことで、周平の中では当初の心配が再び頭をもたげた。
 ──陽一はまだか。
「村越くんのハイラックスと擦れ違わなかったですか」と周平はたずねた。
「いいや、誰ともっていない」と生駒は答えた。
「おれは、彼を探してきます。ひとまずここは社長におまかせします」
「ああ、わかった。周さんも気をつけてな」
「はい」
 周平はロープを手繰って斜面を登った。林道に戻ると、ちょうどそこに丹羽のジムニーが乗りつけた。丹羽は路肩に車を寄せて停め、運転席の窓越しに「生駒社長から電話をもらいました。車は村越くんのですか」と険しい表情で訊ねた。
「いえ、違いました。お年寄りのご夫婦のようです。女性は生きていますが、男性の方は車の中で死亡していました」いいながらバイクに駆け寄った。「丹羽さん、おれは上に行ってきます。村越くんのことが心配なので」
「私もご一緒します。ひとりでは危険だ」
「しかし、ここは?」
「救急車が間もなく到着します。交通課の連中も駆けつけますから、彼らにまかせましょう。さあ、車に乗ってください」と丹羽はいい、ジムニーの助手席のドアを開けた。
 車に乗り込んだ周平は、岡村に告げた。
「別件で崩沢へ行くので、ここをお願いします」
 岡村は黙ってうなずいた。
「それから」と丹羽がいった。「あとで実況見分が入るだろうから、このカーブの近辺はあまり荒らしたくない。岡さん、すまないが、救急車やほかの車をうまく誘導してくれ」
 岡村はまた頷いたが、なにやら心細そうな顔になっていた。構わずに丹羽は車を発進させた。登り坂のカーブでジムニーのエンジンがもんのようにうなった。
「早速、丹羽さんに怒られそうな事態になってしまいましたね」と周平がいった。
「怒るだなんて、そんな……」と丹羽は否定したが、不機嫌は隠せなかった。
「村越くんになにかあったら、おれの責任だ」
 死者を見、死者の冷たさに触れた周平は動揺を隠し切れなかった。
「なにかあったと決まったわけじゃありませんよ。村越くんは崩沢へ向かったんですか」
「ええ。日没までには帰るという約束だったんですが」
 すでに陽はとっぷりと暮れていた。ハイビームのヘッドライトが射し照らす眼前の光景は本来の色が飛んでしまって白く輝き、まるで写真のネガを見るようだった。周平は次第にめいかいに向かって突き進んでいるような気になってきた。夜がひどく恐ろしいものに感じられ、心があわっていた。あの老夫婦には申し訳ないいいぐさになってしまいそうだが、事故車を発見し、そのためにこうして出足が遅れてしまったということが、なにやら不吉なからくりのように思えて仕方がなかった。さらに追い討ちをかけるように、周平は自分の失策に気づいた。胸元に手をやり、「しまった」と声をあげた。
「どうしたんです?」
「事故現場に作業服を置いてきてしまった。ポケットに無線機が入っていたんです」
「無線機?」
「ええ。なにかあった時のためにと思って、村越くんにも同じものを持たせていました」
「かなり出力のある無線機ですか」
「いいえ、杳子と山歩きをするために買った玩具おもちやみたいな代物ですから、大して電波は飛びません。それでも、同じ道筋や川筋なら連絡が取れるかもしれないと思って……」
 そんなやり取りをしている間に、陽一の車が見えてきた。とりあえず崩沢まで降りてみようということになり、ジムニーをハイラックスの後ろに停めた。それぞれに懐中電灯を持ってふたりが旧登山道をくだりはじめた時、すぐ間近で犬がえた。
「リキか!」
 周平が呼ぶと、アイリッシュ・セッターが尻尾しつぽを振って駆け寄ってきた。
「おまえの主人はどうした?」
 周平はリキが駆けてきた方角に懐中電灯の光を向けた。すると、陽一がこちらに向かって登ってくるのが見えた。ひどく疲れたようにうつむき、下を向いたヘッドランプが彼の重い足取りを照らしている。
「約束が違う! 日没前には戻れといったはずだぞ」
 あんがむしろ周平の語気を荒々しいものにした。陽一は立ち止まり、ゆっくりと顔をあげた。懐中電灯の光の中に立ち尽くす青年は、魂が抜け落ちてしまったような顔をしている。どうも様子がおかしかった。
 周平はただならぬ気配を察し、訊ねた。
「いったいどうしたんだ?」
 陽一は二歩、三歩、おぼつかない足取りで前に進み出たかと思うと、いきなりひざを折ってその場にくずおれた。周平と丹羽は慌てて駆け寄った。そこで周平は、陽一が大事そうに抱えているものに気づいた。それは陽一の着替え用のトレーナーだが、なにかを覆い包んでいる。
「それはなんだ?」と周平は訊ねた。
 陽一の反応は鈍く、表情はまるで幽鬼のそれのようだった。彼は今、なにも見ていないし、なにも聞いていないし、なにも感じていない……。周平は軽く陽一の頬を張った。すると、ふいに陽一の眼から涙があふれ出した。そして、彼は聞き取れないほどの声でなにごとかをつぶやいた。
「なんだって? はっきりいいなさい」と丹羽が問いただした。
「……こんなふうになってしまいました」と陽一は涙声でいった。「あいつが……こんなふうになってしまいました」
 陽一がトレーナーを地面に置いた。それを広げたのは丹羽だった。周平は一瞬、そこに現われ出たものを流木かなにかだと思った。丹羽が先に反応して眼をき、「こ……これはひどい」とらした。
 トレーナーに包まれていたものは人間の脚だった。右脚の膝下の部分で、血とも土ともつかぬ汚れにまみれ、腐臭を発している。脚先にはたしかにウェーディングシューズがあった。気づいた周平は思わず眼をつぶって顔を背けたが、見なければならないと自分を鼓舞し、また視線を返した。
「あいつがこんなふうになってしまいました。茜がこんなふうに……」
 陽一はうわ言のように繰り返した。周平と丹羽はおたがいの顔をった。
「洗ってやりたかったけど……」陽一がうめくようにいった。「ちゃんとれいに洗ってやりたかったけど、このまま持ってきた方がいいと思って……」
 丹羽が静かに陽一の肩に手を置き、訊ねた。
「どこで見つけたんだね?」
「……橋から百メートルも離れていないところです。岩と岩の間に挟まっていました」
「見つけたのはこれだけかい?」
 陽一は頷いた。
「ほかにも見つけようと思ったけど……必死で探したけど……暗くなってしまって……」
 陽一はそれだけ答えるのが精一杯だった。あとは声にならず、地面に突いたこぶしを無念そうに震わせて泣き崩れた。周平たちと逢ったことで、かえって感情のせきが崩れてしまったようだ。押し殺した泣き声が、やがてどうこくに変わった。二十六歳の男泣きは、四十をとうに越えているふたりの男たちをも動揺させた。丹羽は「気の毒に」と声を詰まらせ、俯いた。周平は地面にひざまずき、両の腕で青年をしっかりと抱き締めた。「つらい思いをしたな」と一言だけいった。それだけしかいえなかった。
 腕の中でこもった陽一の慟哭は周平の胸を激しく打っていた。

〈このつづきは製品版でお楽しみください〉

★作品詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/201009000041/
★関連記事:大公開! 角川文庫仕掛け販売プロジェクトの裏側【2024年3月】