日本人初―― 若き小澤征爾の「武者修行」

文芸・カルチャー

公開日:2024/4/3

2024年2月6日、88歳にてその生涯に幕を下ろした小澤征爾。「外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土、そこに住んでいる人間、をじかに知りたい」と単身でヨーロッパに向かったのは1959年2月1日、23歳の時でした。小澤の「冒険」は生涯にわたって続くことになるのですが、若き日の小澤のこの「武者修行」について、「クラシックジャーナル」編集長などを務めた作家の中川右介さんの著書『至高の十大指揮者』(角川ソフィア文庫)から、一部を引用してお届けします。
>過去記事「小澤征爾が世界へ飛び立つ理由となった「N響事件」の真相」はこちら

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日本人初―― 若き小澤征爾の「武者修行」
中川右介『至高の十大指揮者』より

ブザンソン国際指揮者コンクール

 小澤を乗せた貨物船は、フランスのマルセイユに、3月23日に着いた。2か月弱の旅だった。マルセイユからは、約束通り日の丸のヘルメットでギターを背負って、スクーターでパリを目指し、4月8日に着いた。
「留学」と言っても、パリ音楽院へ入学するわけではなく、遊学に近い。何をどう学ぶのか、何ら具体的な計画はなかった。「日本を出たい」「ヨーロッパを見てみたい」という動機だけで、この青年はやって来たのだ。当然、「音楽」に接したい。いくつもの演奏会を聴いたのだろうが、最も感銘を受けたのは、シャンゼリゼ劇場でのミュンシュの指揮によるものだった。
 6月になって、小澤は江戸京子から、フランスのブザンソンで指揮者コンクールが開催されると教えられた。優勝など無理でも、フランスのオーケストラを一回でも指揮できたら、それだけでも価値があるーー小澤はそう思い、出場を決めた。だが参加申し込みの期日を過ぎていた。日本大使館に助けを求めたが、何もしてくれず、アメリカ大使館の音楽部のスタッフの計らいで、どうにか出場できた。
 ブザンソン国際指揮者コンクールは1951年に始まったもので、指揮者コンクールとしては草分け的な存在だ。しかし、日本では存在すら知られていなかった。
 ブザンソンはフランス東部の都市だ。コンクールは9月7日に始まり、54人が応募、実際には48名が参加した。日本人は小澤だけだった。二つの予選を通過して、9月10日の本選へ進めたのは小澤を含めて6人だけで、ドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》とシュトラウス二世 《春の声》、ビゴーの新作を初見で指揮した。
 小澤征爾は1位になった。24歳にして、運命の扉が開いた。この後、いくつも経験する「日本人初」の最初だった。
 打ち上げのパーティーにはミュンシュも来ていた。小澤は弟子にしてくれと申し出たが、「弟子は取っていないが、バークシャー音楽祭へ来れば、教えてやってもいい」と言われた。音楽祭は夏だ。一年近く先だった。
 9月末にはベルリンを訪れた。フィルハーモニーを聴いて、シェーンベルクのオペラ《モーゼとアロン》を観て、終演後のパーティーに出て、シェーンベルクの未亡人や息子と会ったというから、すでに「音楽関係者」になっていたのだろう。いったんパリへ帰り、すぐにまたドイツへ行ってドナウエッシンゲンの現代音楽祭を聴いた。
 プロとして、つまり出演料の出る最初の仕事は、1960年になってからもたらされた。トゥールーズのオーケストラとの放送録音で、2週間近く指揮をして、約8万円の報酬を得た。日本のサラリーマンの月給5か月分くらいだ。



小澤征爾さん(写真:©Jerome De Perlinghi / Getty Images)

バークシャー音楽祭

 1960年7月、小澤はミュンシュの言葉を信じて、空路、アメリカへ渡った。バークシャー音楽祭へ参加するためだった。後に「タングルウッド音楽祭」と改称される教育音楽祭である。マサチューセッツ州西部の森に囲まれたリゾート地、タングルウッドで開催される。アバドとメータが参加したのは、2年前の1958年だ。
 ミュンシュはここへ来れば教えてやると言っていたが、そう簡単ではない。指揮コースでミュンシュの指導を受けられるのは、オーディションで選ばれる3人だけだった。
 小澤がタングルウッドに着いたのは7月3日で、二日間にわたるオーディションで見事に1位を獲得して、ミュンシュの指導を受けることになった。
 その一方で、ミュンシュが指揮するボストン交響楽団の《ファウストの劫罰》、《ダフニスとクロエ》、ベートーヴェンの「第九」のコーラスに参加した。このあたり、ウィーンでアバドとメータが、ワルターやカラヤンの演奏会の合唱団に加わっていたのと同じだ。音楽青年の考えることはみな同じなのだ。
 音楽祭の最後に優秀者に贈られる、2年前にアバドが受賞したクーセヴィツキー大賞の、この年の受賞者は小澤だった。「セイジ・オザワ」の名は、アメリカの音楽関係者の間でも知られていく。

カラヤン、バーンスタインとの出会い

 タングルウッドでの音楽祭が終わると、小澤征爾はニューヨークに数日滞在し、9月にヨーロッパへ帰った。パリは経由しただけで、次の目的地はベルリンだった。そこで開催される、カラヤンの弟子を決めるコンクールに出るのだ。当時のカラヤンはベルリン・フィルハーモニーとウィーン国立歌劇場の監督を兼任し、二つの都市を往復していた多忙な時期にあたる。しかし、帝王は次世代の教育にも手を伸ばす。コンクールで合格すると、カラヤンが半年の間に毎月1週間ほど、指導することになっていた。
 パリでは先に留学していた江戸京子がコンクールの情報をくれたが、ベルリンで小澤をサポートしたのは、田中路子だった。日本画家の娘で、東京音楽学校(現・東京藝術大学)へ入ったが、1930年(昭和5)に渡欧し、ウィーン音楽院に留学した。
 以後、戦中も欧州で暮らし、声楽家や女優として活躍した。ドイツ・オーストリアの文化・藝術界に顔が広く、若い日本人の世話を熱心にした人物だ。小澤が世に出るには、田中の力がかなりあったと思われる。彼女が欧州へ出たのは、小澤の師である齋藤秀雄との関係が噂になったからという因縁もある。
 小澤はベルリンのコンクールにも合格し、カラヤンの弟子になった。パリで3週間働き、ベルリンで1週間、カラヤンのレッスンを受ける生活が、10月、12月、1月、4月と続く。
 一方、9月22日と23日、ベルリンでバーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会があった。小澤はそれを聴いて、レセプションにも出席し、バーンスタインに挨拶した。二人とも、誰とでもすぐに「親友」になるタイプなので、その場で意気投合して、夜の街へ出て飲み歩いた。バーンスタインはタングルウッドでの小澤の評判を知っていた。それだけではない。この時点でニューヨーク・フィルハーモニックは小澤をアシスタント指揮者に雇おうと内定しており、バーンスタインと飲み歩くのは一種の面接だった。当然、その話が出た。
 10月1日付の家族への手紙に、小澤は「来春、もしかすると、ニューヨーク・フィルハーモニーのアシスタント・コンダクターとして1か月くらい日本へ行けるかもしれない」と書いている。
 かくして――7月のタングルウッドから、9月のベルリンまでの3か月間に、無名の日本人青年は、ミュンシュ、カラヤン、バーンスタインという三人の大指揮者と相次いで知り合い、その弟子になるのだった。

書籍紹介

至高の十大指揮者
著者 中川 右介
発売日:2020年01月23日

交響曲と好敵手が織りなす人間ドラマ――十人のマエストロたちの人生
【追悼 小澤征爾さん】
本書では小澤征爾さんが世界へ飛び立つ理由にもなったN響事件を含め、「冒険者」としての評伝を第9章として収録しています。小澤征爾さんのご冥福をお祈りいたします。

 本書は「同じ曲でも指揮者によってどう違うのか」といった演奏比較を目的とした本ではない。もちろん、演奏を聴いていただきたいので、それぞれのCDを何点か紹介していくが、名盤ガイドではない。ネット時代のいまは、検索すればたいがいの演奏家の曲がすぐに見つかり、タダで聴くことができる。それがいいのか悪いのかは別として、かつてのような、「この曲はこの人の演奏」「この指揮者ならこの曲」という名曲名盤選びは必要なくなった。
 したがって、演奏比較、その特色の解説といった観点ではなく、その指揮者がどのようにキャリアを積み上げ、何を成し遂げたかという人生の物語を提示する。
 指揮者ごとの列伝なので、それぞれの章は独立しており、興味のある人物から読んでいただいてかまわないが、それぞれの物語にほかの指揮者が脇役として登場することも多いので、第一章から順に読んでいただいたほうが、通史としてわかりやすいかもしれない。

目次

第1章 「自由の闘士」アルトゥーロ・トスカニーニ
第2章 「故国喪失者」ブルーノ・ワルター
第3章 「第三帝国の指揮者」ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
第4章 「パリのドイツ人、ボストンのフランス人」シャルル・ミュンシュ
第5章 「孤高の人」エフゲニー・ムラヴィンスキー
第6章 「帝王」ヘルベルト・フォン・カラヤン
第7章 「スーパースター」レナード・バーンスタイン
第8章 「無欲にして全てを得た人」クラウディオ・アバド
第9章 「冒険者」小澤征爾
第10章 「革新者」サイモン・ラトル

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プロフィール

中川 右介(ナカガワ・ユウスケ)
1960年生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。出版社IPCで編集長を務めた後、1993年にアルファベータを設立し、2014年秋まで代表取締役編集長を務める。2007年からはクラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガ等の分野で執筆活動をおこなっている。主な著作に『戦争交響楽 音楽家たちの第二次世界大戦』(朝日新書)、『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)、『角川映画 1976-1986[増補版]』(角川文庫)、『クラシック音楽の歴史』『不朽の十大交響曲』(ともに角川ソフィア文庫)などがある。