遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」#108〈前編〉

文芸・カルチャー

公開日:2024/4/4

※本記事は連載小説です。

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これまでのあらすじ

閉ざされた城内での殺し合いに参加した遣唐使の井真成は、仲間を得て試練を克服する。かつて城内では、人間を贄に使った呪法「蠱毒」が行われ、自分たちの殺し合いもまた蠱毒であったと告げられた。死闘を生き抜いた十二名を含む四十九名は、杜子春と共に旅に出る。一行が立ち寄った姜玄鳴の屋敷で、真成は呼び出され、この地に伝わる太公望の釣り鉤を探すよう命じられる。さらに姜一族の南家・姜竜鳴に面会し、竜鳴の娘・鳴花と共に常羊山に向かうことになった。時代は遡り、西楚の覇王・項羽は始皇帝の陵墓に侵入する。

 二十四章 せい

     (四) 

 せいは、闇の中で、石の床に尻を落として、していた。
 眼の前には、始皇帝のひつぎがある。
 柩の周囲にも、自分の周囲にも、始皇帝が集めた財宝が置かれ、松明たいまつの炎に照らされて、火の色をその表面に揺らしている。
 しばらく前に、こうは去っていった。
 死を覚悟して抵抗することもできたが、二〇人に余る兵士と項羽を相手にして、命があるとも思えなかった。
「松明を、一本置いてゆく。消えるまで、宝物を眺めて楽しんでおけ」
 それが項羽の最後の言葉だった。
“わかった、あなたの臣下となりましょう”
 そう口にしようとも思ったのだが、命惜しさにそれを口にしたと、項羽にはすぐに見すかされてしまうだろう。項羽の意志は変るまい。
 命乞いをしても、
“見苦し”
 そのひと言で切って捨てられ、死を早めてしまうことになるだろう。
 自分の命には、今はさほど執着はない。
 ただ、ひとつだけ、やり残していることがあった。
 それは、項羽にも言ったが、ひとりの女を救ってやることだ。惜しくない命ではあるが、それをやりとげるまでは、生きていたかった。それさえ済めば、自分が生きるか死ぬかは、もはや興味の外であった。むしろ、すみやかに、この生を終えることを望んでさえいる。
 そのやり残したことを済ませるため、自ら死を選ぶことこそしないが、生きてここを出てゆく算段をする気力が湧いてこない。
 あれを見たからだ。
 項羽が去ってから、念のためせんどうまで行ってみたのだが、自分が斬って開いたはずの岩が、左右からまた羨道に落とされて、行手がふさがれていたのだ。
 腕ならば入りそうな隙間が岩と岩の間にはあるものの、とても、身体からだが通り抜けられそうなものではない。
 兵たちにやらせたのであろう。項羽ならば、兵を百人ほども残し、さらに念入りに、土をかぶせて羨道を塞ぎ、陵を暴く者を見張らせるため、人を残してゆくだろう。天下を平らげた後、いずれ、始皇帝の財宝は必要になるからだ。
 そのために、塞がれた羨道。
 財宝を守らせるため、にえとして自分が残されたのだ。
 じんの考えそうなことだ。
 もう、自分はここを生きては出られまい──
 その覚悟をしている。
 もう、ここでよいか。
 始皇帝が死に、項羽とりゆうほうが、しんを滅ぼした。
 始皇帝の死に顔も見た。
 こうなってみれば、始皇帝も哀れな男だったのだろう。 
 死を激しく恐れる、気の小さな男。
 自分は、その始皇帝を騙してやったのだ。
 今、こうなってみると、始皇帝に、ここまでのことを自分がする価値があったのかどうか。
 あと、残っているのは、女のことだけだ。
 自分は、あの女を愛していたのだろうか。
 そうだろう。
 そうだろうな。
 だから、自分は、あの女を救うてやろうと思っているのだ。
 この自分以外、いったい誰があの女を救うてやれるのか。
 そうだ。
 救わねば。
 そのためには、まず、生きることだ。生きてここから出てゆかねばならない。
 状況がどれほど絶望的であっても、生き残るために、動こう。
 絶望なら、これまで、何度となく味わってきた。そして、それをくぐってきた。かんたんの時などは、死を覚悟──いや、喰われてやる覚悟をしたのだ。しかし、生き残ってしまった。
 まあ、いい。
 哀れな女のことを思っていたら、少しずつ気力がもどってきた。
 ともかくは、生きるために何かをすることにしよう。
 何かをしなければ、何ものにも出会えないからな。何もしないで死ぬよりは、何かをしながら死のう。
 それでいい。
 三日や四日は、死ぬことはあるまい。
 水なしでも、七日くらいは生きてゆけるだろう。いざとなったら、羨道に羊のたいがあるから、それを食えばいい。水がなければ羊の血をすすればいい。たとえ、それが人であってもだ。人の屍体だって、入口近くにある。
 どうせ、自分はもう、人の肉を喰らっているのだ。
 そして、人の屍体は、剣などの武具を身につけているはずだ。
 まずは、生きることを考えよう。
 そのために必要なのは、灯りだ。
 今、燃えている松明の炎は、あと半刻も持つまい。そうなったら、ここは真の闇となる。ひとまず考えるべきは、灯りのことだ。何か、燃えるものを捜さねばならない。
 青壺は、ようやく立ち上がった。
 どこかに、人魚のあぶらがあるはずだ。
 この墓室を照らす灯りのための脂だ。一度火をともせば、永久に消えることがないという脂だ。そこまでではないにしても、もしも人魚の脂を見つければ──もちろん他の油でもいいが、それがあれば、自分の命が、飢えと渇きで尽きるまでくらいは、灯りに不自由はしないだろう。
 短くなった松明を手にして、歩く。
 この部屋の宝物をあらためて見るためだ。
 さっき、宝物を眺めた時に、何かあったはずだ。
 ここにやってきた時、眼の隅にそれを見て、気にかかったもの。妙な違和感だ。どうして、ここに、こんなものがあるのかと、その時そう思ったはずだ。
 灯りで、宝の山を照らしながら、動いてゆく。
 何が気になったのか。
 それが、ことさらにきらびやかであったとか、黄金や宝石がちりばめてあったとか、そういうことではない。

(後編へつづく)